卯三郎の墓は、元々東京世田谷烏山の乗満寺にあったが、1998年に故郷羽生の正光寺に移され、本堂脇に大きな墓碑と墓史が建っている。この寺には清水家歴代の墓もあり、卯三郎の祖父、誓信の墓碑は市の指定文化財となっており、地元では名家だったことが分かる。清水家は元小田原北条氏に仕えていた武士だったらしい。
その卯三郎、幕末ペリーと同時期にやってきたロシアのプチャーチンの下田来航時にロシア語を習得する機会を得て、そのまま江戸に出て蘭学を学ぶ。横浜開港と共に大豆の商売を始め、英語も習得し、1860年には『ゑんぎりしことば』という商人用英和辞典を出版しており、卯三郎は開港時の先駆者の一人と言ってよい。
1862年の薩英戦争時、イギリス公使ニールの通訳に選ばれ、その際に艦長に交渉して、五代らを救出。実は五代は率先して捕虜になったとも言われており、むしろ薩摩に追われる五代を羽生に連れ帰って匿っている。この時点で五代との間に茶の話が出たかは不明だが、五代の恩人は卯三郎だったことは間違いない。更に1864年には大久保に頼まれて、イギリスとの和平交渉まで行っているから、ただの商人とはとても思えない。
そして1867年のパリ万博。あの渋沢栄一が徳川昭武(慶喜の弟)に随行したパリ行に、卯三郎も商人総代として参加して、刀剣、屏風などの美術工芸品の他、茶も出品している。この万博で卯三郎を際立たせたのが、会場に設置した「茶室」であり、三人の日本女性を侍らせ、大いに人気を博した。その功績で時のナポレオン三世より、メダルを授与されたともいう。
この「茶室」を渋沢は茶店と呼んでおり、「檜造で六畳間に土間が添えられ便所もあり」(滞仏日記)と記している。三人の日本女性が茶を煎じ、酒なども置いて客の求めに応じて庭先で提供していたようだ。尚三人の女性は和服を着ており、江戸柳橋の芸者を連れてきていたというからすごい。彼女らはヨーロッパに渡った最初の日本人女性とも言われている。ただいわゆる江戸の水茶屋を再現したのではなく、あくまで日本的な見世物の演出とみられている。
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