アジアを茶旅して 第16回

投稿者: | 2022年4月1日

多田元吉とインドへ行った梅浦精一

 

多田元吉が明治の初めにインドに渡り、紅茶産業を視察、日本にアッサム品種、紅茶製法とその機械を持ち帰ったことは、既に第10回で書いている。多田はその後『日本紅茶の祖』などと呼ばれるが、その時一緒にインドへ行った梅浦精一を知る人は少ない。今回は渋沢栄一と深い関係を持つ梅浦について少し述べてみたい。

大雪の予報が出ていた新潟県長岡市。晴れていたと思ったら、突然みぞれが降り注ぎ、忽ち地面が雪で覆われる。この気候で茶業はできないだろうと思いながら、互尊文庫という地元の資料館を訪ね、学芸員の方と話していたら、突然「実は長岡でも明治初期に紅茶を試製したという記録が見付かり、地元でも驚いている」と聞いた。

長岡 互尊文庫

資料を見せてもらうと、何と明治7年(1874年)、あの大久保利通の紅茶製造奨励に合わせて、この地で紅茶が作られ、3年後のフィラデルフィア万博に出品する計画もあったと書かれているではないか。明治政府の政策は、各地できちんと実行されていたのだ。『紅茶百年史』という資料を見ると、新潟県から紅茶サンプルが提出されており、史実にも合っていた。因みに残念ながらこの試みは上手くいかず、その後この地で紅茶の話が出ることはなかったらしい。

ところでその長岡に生まれた梅浦精一という男がいた。1852年長岡の開業医の子として生まれ、医学修行のため外国語を学び、1871年には『通俗英吉利単語編』を出版、ベストセラーとなったという。更に1873年には『銀行簿記精法』を翻訳して、洋式銀行簿記を日本に紹介するなど、大きな貢献をしている。

梅浦精一

1872年には大蔵省紙幣寮で翻訳の仕事に携わり、ここであの渋沢栄一と運命の出会いがある。一旦故郷新潟に戻って英語教育に尽力したが、外遊の夢を持ち、1875年やはり新潟出身の前島密の計らいで、内務省勧業局に勤務、紅茶製造技術習得のためインドに向かう多田、石河正竜の通訳として同行することとなる。

梅浦はなぜインドへ同行したのか。当人が海外へ出たいと希望しており、結果的に欧米ではなくインドになったと書かれたものもあったが、茶業という専門的な用語も多数使う通訳として適任だったのか。ある資料では「梅浦はインド渡航の前年に紅茶に関する英文技術書5冊を翻訳(未刊行)した」とあったが、もし本当ならこれが理由だろうか。また多田元吉の生涯を描いた『茶業開化』(川口国昭著)では、多田の翻訳と言われる『紅茶説』の翻訳者を実は梅浦としている点にも留意したい。

この一行はインドのカルカッタに入り、日本人として初めて茶産地ダージリンなどを訪ね歩き、熱病や赤痢にも侵されながら、苦労の末翌年帰国する。茶や製茶機械などを持ち帰り、国産紅茶の基礎となる大事業だった。因みに帰路梅浦は中国へ向かった多田、石河と別れ、カルカッタで一人、「茶業に関する商業面における各種問題の調査」を行っており、やはり単なる通訳以上の働きはしている。

インド ダージリンの茶畑(2011年撮影)

だが帰国した梅浦は、茶業とは無縁の道を行くことになった。農商務省勧商局長だった河瀬秀治の推薦で、何とちょうど設立が予定されていた東京商法会議所(東京商工会議所の前身)の書記(事務局長)に就任する。大蔵省で知遇を得ていた渋沢栄一(会議所会頭)も彼の能力と人格を高く評価したというから、そのすごさが分かる。

因みにこの河瀬秀治も明治初期の茶業には大いに関わった人物である。明治政府の地方官として、印旛や入間の知事を務め(前回紹介した中山元成とも交流)、1874年には大久保利通に内務省勧業権頭に任じられ、あの紅茶製造を指揮した。1877年第1回内国勧業博覧会事務局長でもあり、海外万博にも積極的に出向き、日本茶の輸出の道を模索する先進的経済官僚であった。

ここから梅浦の実業家人生が始まり、渋沢に命じられて石川島造船所の再建を行い、社長就任。また北越石油など、新潟にゆかりのある事業でも社長を務め、何より商法会議所で得た多彩な人脈から、様々な事業に関わっていく。渋沢の良きビジネスパートナーの一人であり、「渋沢の股肱」とも評された。もし梅浦がインド渡航後、茶業に精力を傾けていれば、日本茶の歴史、特に海外輸出は更に活発に、そして新たなる展開があったのかもしれない、と勝手に思ってしまう。因みに東京商法会議所発祥の地は、東銀座新橋演舞場の横にその碑がある。

東銀座  東京商工会議所発祥の地

新潟で英語教育に携わった梅浦は「商法講習所」の存続にも尽力した。この商業学校は一橋大学にも繋がっていくが、最初の場所は銀座6丁目にあった。現在銀座シックスが建っているが、その道路沿いに建つ小さな記念碑に気づく人はいない。

明治という時代が終わる1912年に梅浦は没した。墓所は谷中天王寺、墓石の脇には『梅浦精一君碑』が建っており、その生涯と業績が綴られていた。碑文を書いたのはやはり渋沢栄一、渋沢家の墓所とも近い。二人の関係性の近さを感じさせるに十分な距離だといえるだろう。

谷中天王寺 梅浦精一墓所

 

▼今回のおすすめ本
海を越えたジャパン・ティー
緑茶の日米交易史と茶商人たち
幕末、アメリカでは紅茶よりも日本の緑茶が飲まれていた!
当時の茶貿易商の末裔である著者が日米双方の視点から知られざる茶交易史をひもとく。

 

 

 

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須賀 努(すが つとむ)

1961年東京生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。コラムニスト/アジアンウオッチャー。金融機関で上海留学1年、台湾出向2年、香港9年、北京5年の駐在経験あり。現在はアジア各地をほっつき歩き、コラム執筆中。お茶をキーワードにした「茶旅」も敢行。
blog[アジア茶縁の旅]

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