日本茶を初めてアメリカに輸出した中山元成
ここ数年、さしま茶という名前を聞くようになった。ブランド価値は高まっているが、その歴史については正直知られているとは言い難い。猿島で思い出すのは坂東武者、1000年以上前の平将門ぐらいではないだろうか。その昔大河ドラマの主人公にもなり、今でも東京にある将門首塚は鬼門と言って恐れられている。
だが「日本茶で初めてアメリカに輸出されたのはさしま茶だ」と聞くと、思わず6年ぶりにさしまに飛んで行った。今回は『幕末・明治の茶業と日米交流 中山元成とG・R・ホールを中心に』(櫻井良樹編著)を読みながら、江戸時代からこの地で茶業を営んでいる吉田茶園の吉田正浩さんにご案内を頂き、さしま茶協会の石山嘉之会長にもお話を伺ってみた。
中山元成の功績がどの程度のものだったのかは、元成の故郷、茨城県坂東市辺田に建てられている、大きな『茶顛中山元成翁製茶紀功碑』に書かれた茶業沿革履歴と裏面の名簿を見れば一目瞭然である。茶業組合設立に多大な尽力をした前田正名をはじめ、横浜の茶貿易で成功した大谷嘉兵衛、岡野利兵衛、渡辺庄次郎、静岡の多田元吉(第10回)、丸尾文六、高知の平尾喜寿(第9回)、熊本の可徳乾三(第12回)など、当時の茶業界の中心人物が多く名を連ねているのを見れば、彼が明治前期にどれほどの交友関係を持ち、その活躍が認められていたかはよくわかる。

茶顛中山元成翁製茶紀功碑
晩年は製茶機械製造に心血を注いだ高林謙三と茶業の機械化について話すなど、最後まで日本茶業の発展に心を砕く姿は、まさに明治茶業界のレジェンドの一人であることは間違いないのだが、現代ではその存在が茶業界にさえ、あまり知られていないのは何とも惜しい。
中山元成は文政元年(1818年)下総国辺田村(茨城県坂東市)の豪農の家に生まれ、天保年間に宇治茶製法を導入して、猿島茶の基礎を築いた。幕末には藩命により江戸に関宿藩茶会所を作り、茶を専売した人物である。因みに筆者の妻の実家の墓は関宿にあり、何度も墓参りに行って湾曲する利根川は見ていたが、ここが往時の茶産地で、この川で茶が運ばれたとは全く気が付かなかった。

中山元成像(坂東地域農業改良普及センター)
中山の興味深いところは、幕末ペリーが再来(1854年)した折、浦賀に行って直接日米和親条約締結交渉の様子を見るという稀有な体験をしていることだろう。実際に会見場に入り、ペリー以下の似顔絵を描いたというから面白い。中山がこの場に立ち会えた理由、それは和親条約を起草した河田迪斉が彼の師だったからだという。
それだけではない。驚くべきことにこの幕末の動乱期、いち早く猿島茶の輸出を思い立ち、下田の玉泉寺に滞在していたタウンゼント・ハリスと交渉しようとした。この時、秘書のヒュースケンに猿島茶を見せたと書かれている資料もあったが、実際には不在で会えなかったらしい。いずれにしてもいきなり外国人に茶を売り込みに行く度胸はすごい。因みにハリスは老中や奉行から何度か茶の接待を受け、老中堀田正睦に茶の輸出を勧めたともいわれている。

下田 米国領事館旗揚げの地(玉泉寺)
その後も長崎へ向かい、海外貿易の実態を調べるなど、その探究心は半端ない。そして1858年日米修好通商条約が結ばれると、翌年開港した横浜へ向かい、アメリカ一番館ウォルシュ商会のコンプラドール(買弁)阿星に取り入り、茶の売り込みに成功したという。この時の茶がアメリカに渡った最初の日本茶と呼ばれ、日本茶輸出の先駆けとなった。

浦賀 ペリー上陸記念碑

横浜 日米和親条約締結の地
しかもこの茶はその後輸出された日本茶と違い、中国風の着色や再加熱などがなされていない純日本緑茶だったため、中国緑茶と区別する意味もあり「江戸ウーロン茶」と称して販売されたと聞くと、何とも不思議な感覚になる。
更に中山は1862年、横浜で中国人から紅茶製造を習ったとの話もある。これは日本の国産紅茶史では相当早い段階にあたり非常に貴重だが、なぜか彼がその後紅茶製造に乗り出したという記録はない。ただ現在では「日本紅茶の祖」とも呼ばれる多田元吉を明治政府に推挙したのは中山ではないか、との話もあり、中山が新政府と深く関わっていた様子にも興味を惹かれる。
明治に入ると、茶の輸出は増加するが、同時に品質の低下、偽茶が横行して、輸出に陰りが見え、これを危惧して中山らはその規制に乗り出す。その流れで1884年に茶業組合が各地に作られると、茨城も中山を頭取に組合を結成、次いで1887年全国組織の茶業組合中央会議所の設立にも深く関わっていく。そこまでを見届けて、幕末から明治前期の茶業の中核を担った男は1892年に没した。
最後に中山の息子、寛六郎に触れたい。彼は1880年にハーバード大学を卒業後、あの山縣有朋の秘書官を長く務め、地方自治制度の制定などにも深く関係した人物だという。元成自身は外国商人と筆談で交渉して、外国に行くこともなかったが、その息子は国際人となり、その後の中山家は外国人との付き合いが非常に多かったといわれている。
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須賀 努(すが つとむ)
1961年東京生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。コラムニスト/アジアンウオッチャー。金融機関で上海留学1年、台湾出向2年、香港9年、北京5年の駐在経験あり。現在はアジア各地をほっつき歩き、コラム執筆中。お茶をキーワードにした「茶旅」も敢行。
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