九州茶の輸出を夢見た阿部野利恭と可徳乾三

熊本三友堂に残る可徳の看板
明治時代、九州茶をロシア、シベリアに売り込んだ男がいた。その名は可徳乾三。今や茶業関係者でも知る人はほぼいないが、彼こそは日本紅茶、磚茶(ブロック型固形茶)の先駆者の一人である。可徳は1854年熊本県合志村の農家に生まれ、1875年熊本山鹿に開設された日本初の紅茶伝習所で紅茶製造を学び、その後も製茶法の研鑽に勤め、早くから製茶指導者、同時に茶葉輸出業者として活躍する。
1887年官費留学生として中国の漢口に渡り、当時ロシア向けに作られていた志那風紅茶(紅磚茶)等の製造法を学ぶ。1896年九州茶業会の委嘱を受けて、同県人の中川正平(熊本緑茶の恩人)、阿倍野利恭らと、シベリアで販路を調査し、茶輸出に商機を見出した。そして茶業組合中央会議所からウラジオストク出張所常務員を委嘱され拠点を開設、ハバロフスクには自前で可徳商店を設立し、九州茶の売込に大いに努めた。

ハバロフスク 可徳商店跡
この頃可徳乾三の名は日本茶業界に響き渡り、アメリカ向け静岡緑茶に対して、アジア大陸向けの九州茶が勃興、東の大茶商大谷嘉兵衛と並び称されることすらあったという、まさに明治期の九州茶を支えた恩人であった。だが不幸にも日露が戦闘状態に入り、商売は停滞、戦後も再起を図れず資産を失ってしまう。その後台湾に渡り、台湾初の茶業会社日本台湾茶株式会社で紅茶を製造、高い評価を受けながらも、ひっそりとかの地で亡くなった。可徳を偲ぶものといえば熊本に設立した三友堂に、ずっしり重い可徳の看板が残されているだけだった。
可徳については第9回で既に触れているが、その中でハバロフスクの可徳商店が対露諜報活動の舞台だったと述べたことを思い出したい。この辺りの事情については、熊本出身の山室信一京大名誉教授が『アジアびとの風姿』で取り上げられているが、この可徳商店の差配を任されたのは、阿部野利恭。阿部野は民間人でありながら、その諜報活動に深く関与、その様子は終生の友、元陸軍大尉石光真清の『曠野の花』に詳しい。因みに石光の家は現在記念館として熊本市内に残されているが、当時の活躍に比して、その評価は決して華やかなものとは思われない。

熊本 石光真清記念館
1870年熊本市に生まれた阿部野利恭は、濟々黌を中退後長崎の九州茶業会に就職し、そこからロシア語研修生としてウラジオストクに派遣される。前述の可徳によるシベリアの販路調査に同行、その後茶業組合中央会が設立したウラジストク出張所、更にはハバロフスクの可徳商店の現地責任者となる。阿部野は茶業の師として可徳を真に敬愛していたという。
一方で可徳商店に熊本の若者(合志義塾卒業生)を研修生として呼び寄せ、茶業を通じてロシア関連情報を入手、これを陸軍に流していたとされている。阿部野、石光、そして後に初代満州国全権特命大使となる武藤信義がハルピンに探索に出掛け、途中阿部野がコサック兵に連行される場面もあったという。その際は可徳商店で茶貿易をしており、ハルピンに販路拡大に行くと言って、茶業について詳しく説明し、相手を信用させ危地を脱したという逸話が残っている。
尚1932年武藤が新京(長春)で亡くなる数か月前、阿部野は溝田文吉(九州茶業会)と共に、武藤を訪ね、旧交を温めている。ただその訪問は、阿部野が会長をしていた熊本海外協会の蒙古留学生の活動に関するもので、日本軍の熱河侵攻とも相俟っていた。会談では「九州の茶業者は茶を以て露西亜を制せられる意気」などの言葉も出ており、この時代茶業と戦争、国策は深く絡み合っていた。
阿部野は日露戦争に通訳官として従軍するも病気療養で終戦を迎え、戦後は大連中央魚市場を創設するなど、相変わらず大陸と繋がっていた。同時に可徳乾三が夢見た九州茶のロシア輸出も諦めず、熊本茶業組合会頭に就任。1915年には中国東北部からシベリアまで緑磚茶の販路調査を敢行、翌年九州磚茶会社を設立して、社長に就任する。翌年には全国規模の日本磚茶株式会社が大阪に設立され、ロシア向け茶輸出が注目を集め、事業は軌道に乗るかに見えた。
だが阿部野の夢はまたしても阻まれてしまう。第1次世界大戦及びロシア革命の混乱により、九州磚茶輸出の目論見はまたも実現しなかった。それでも諦めきれずに1921年には「四国九州製茶の一部を包種茶に改良し、満蒙にその販路を開拓する」とその意気込みを寄稿している。
その頃阿部野は地元熊本で熊本海外協会を設立、この会は在外熊本人と地元を結び付け、通商や移民など対外事業の発展を図るのが目的で、阿部野はこの事業に終生関わっていく。この協会を基盤に日中戦争勃発後は中国語を学ぶ東洋語学専門学校を設立、中国語人材を養成しており、この学校が現在の熊本学園大学に繋がっていく。現在大学構内には阿部野の胸像がひっそりと置かれているが、彼の数々の業績は地元でも埋もれようとしているのは残念でならない。

熊本 阿部野利恭像

熊本 西岸寺 阿部野利恭の墓
▼今回のおすすめ本
『アジアびとの風姿 環地方学の試み』
司馬遼太郎や徳富蘇峰、電通創業者の光永星郎、諜報活動に従事した宗方小太郎や石光真清、日本人教習の中島半次郎や中島裁之など、アジア各地を自らの故郷と思い、生死の場としたあまたの人びとの軌跡が、ここに蘇る。
「第二章 三一 北方のアジア――シベリア、満洲へ――上野岩太郎・可徳乾三・阿倍野利恭・上田仙太郎・石光真清」に今回取り上げた3人が登場。
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須賀 努(すが つとむ)
1961年東京生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。コラムニスト/アジアンウオッチャー。金融機関で上海留学1年、台湾出向2年、香港9年、北京5年の駐在経験あり。現在はアジア各地をほっつき歩き、コラム執筆中。お茶をキーワードにした「茶旅」も敢行。
blog[アジア茶縁の旅]