アジアを茶旅して 第17回

投稿者: | 2022年6月1日

順天堂と佐倉茶輸出の歴史

 

第15回で幕末日本茶を初めてアメリカに輸出した中山元成を取り上げたが、この輸出は横浜の外国商会の手を経たものである。では日本人だけで直にアメリカに輸出された最初の日本茶はどこのお茶であったろうか。それは狭山茶であり、また意外なことに同年千葉の佐倉茶も同じルートで輸出されたとある。今回はその事情について触れてみたい。

▼佐倉順天堂と佐藤百太郎
順天堂と言えば、医学の名門。その発祥は3年間の長崎留学を終えた佐藤泰然が1838年江戸日本橋薬研堀に蘭医学塾「和田塾」を開いたことに始まるが、その後泰然は千葉の佐倉に移住する。一説には蛮社の獄の渡辺崋山、高野長英らと交流があったことが原因と言われている。

京成佐倉駅から歩いて20分ほど行くと、佐倉順天堂記念館の古風な建物が見えてくる。「佐倉順天堂は藩主堀田正睦(開国派老中として幕政を主導)の招きを受けた泰然が1843年に開いた蘭医学塾兼診療所。西洋医学による治療と同時に医学教育が行われ、佐藤尚中をはじめ明治医学界をリードする人々を輩出」とある。

佐倉順天堂記念館

この佐倉順天堂。完全な能力主義で、2代目佐藤尚中のような優秀な塾生が養子に迎えられ、後継ぎとなる。実子が跡を継げないとは、何と厳しい環境だろう。記念館で佐藤家の家系図を見ると、泰然の息子には次男松本良順(初代陸軍軍医総監)、五男林董(日英同盟を締結したイギリス公使)など、歴史に名を残す有能な人物もいる。3代目佐藤進も養子で、尚中の娘志津と結婚している。この志津も女子美術学校校長として名を知られているが、その脇に小さく「佐藤百太郎 貿易商」という場違いな文字が見える。

佐藤百太郎

この佐藤百太郎、長男だがやはり跡を継げず、不憫に思った祖父泰然が、1864年外国商館が立ち並ぶ横浜へ帯同、叔父の林董と共にヘボン塾でヘボン夫人クララ(夫はヘボン式ローマ字で有名)から英語を学んだ。因みにこの塾は大村益次郎、高橋是清、益田孝らが学び、ミッションスクールとして有名な明治学院やフェリス女学院の源流ともなったという。

横浜 ヘボン博士邸跡

百太郎は1867年私費でサンフランシスコへ赴く。『高橋是清自伝』では、ヘボン塾で英語を習った二人はサンフランシスコで再会、この時百太郎は既に「日本茶や日本雑貨を売る米人の店に勤めていた」とある。その後1871年岩倉使節団一行の通訳として活躍し、明治政府の官費で、ボストン技術学校(現マサチューセッツ工科大学)で経済学などを学ぶ。ニューヨークに今でいう商社を設立して日本雑貨等の販売に従事。1876年に狭山茶及び佐倉茶をニューヨークに輸入、現地販売することになる。

▼佐倉茶の歴史
佐倉は明治初期茶業が盛んだった、という資料を目にしたが、お茶愛好家の千葉県民に聞いても、そんな歴史は知らない、と言われてしまった。しかし調べてみると、第15回で取り上げたさしま茶同様、横浜から輸出される茶には、距離的に近く、輸送コストが安い、狭山、佐倉など関東の茶が多く存在したことが分かった。ある意味、静岡茶が隆盛を誇るのは、明治30年代の清水港開港以降、と言えるかもしれない。

佐倉の茶業は江戸時代からあったが、本格的に行われたのは、幕末から明治初期。1861年東金の豪商八代目大野伝兵衛は、所有の山林や畑二十町歩を開拓して茶園経営を開始。製造方法は宇治から人を呼んで茶業に従事させたという。その茶が評判になり、有栖川宮熾仁親王より「東嘉園」という名まで賜わり、東金出身の画家飯田林齋が茶園全景を描いた「東嘉園画巻(全12枚)」が文化財として残されている。尚九代目伝兵衛は婿養子で、佐藤尚中の次男鉄次郎が襲名しているが、兄百太郎の茶貿易との関りは不明。

また佐倉藩士だった倉次くらなみ亨らによる、失職した武士を救済する士族授産事業としての茶業も始まる。尚、倉次は藩重役として幕末水戸天狗党の乱を鎮圧、藩主名代として徳川慶喜の助命嘆願を朝廷に願い出るなど、歴史的にも興味深い人物である。

1871年倉次は同志22名と土地の払い下げを受け、上勝田村(八街市富山)の開墾に取り組むため、「佐倉同協社」(同心協力から名を取る)を設立。農業に不慣れな士族が奮闘、1875年に168㎏の茶製造に漕ぎ着け、翌年社員数は489名に達した。この時ニューヨークの佐藤百太郎に茶を輸出した。この事業は紆余曲折ありながら、1891年の設立20周年頃最盛期を迎えたという。その解散は1920年というから、授産事業としてはかなり成功した方だった。

佐倉茶の歴史を求めて、1912年創業の小川園、小川勝寛社長を突然訪問した。お店に入るといきなり「佐倉同協社」という文字が目に飛び込んできて驚いた。額に入った絵は、1874年アメリカ人がここを視察して描いたという。更に佐倉茶発祥の地とされる飯野町の茶畑もご案内頂き、2006年より佐倉茶を次世代に繋ぐため、茶栽培を復活させたとの説明を受けると、その茶にはまた格別の味わいがあった。

 

佐倉同協社

佐倉茶発祥の地と小川社長

 

▼今回のおすすめ本
中国茶で、おとな時間
大連生まれ、テレビ朝日通りで中国茶葉と茶器を扱う「GUDDI」店主が教える中国茶の楽しみ方のエッセンス。

 

 

 

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須賀 努(すが つとむ)

1961年東京生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。コラムニスト/アジアンウオッチャー。金融機関で上海留学1年、台湾出向2年、香港9年、北京5年の駐在経験あり。現在はアジア各地をほっつき歩き、コラム執筆中。お茶をキーワードにした「茶旅」も敢行。
blog[アジア茶縁の旅]

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