中國出土資料學會 2022年度第1回大会

投稿者: | 2022年6月9日

中國出土資料學會 2022年度第1回大会

中國出土資料學會 2022年度第1回大会

▼日時
2022年7月9日(土)
zoomを利用したオンラインでの開催となります。
参加費無料、非会員の来聴を歓迎します。

▼申込
登録受付期間:7月1日(金)まで
参加希望者は下のリンクから事前登録をお願いいたします。
https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSdU-MwyMGfeM4VbSbza7BKtz9PF6Px6_VQVNabxhKYFS9lhrg/viewform
※参加申込者には、招待リンクと発表資料閲覧用のパスワードを事務局から送付いたします。

▼プログラム
研究報告 13:00~17:00

報告Ⅰ 漢初の虎符と列侯就国令
 報告者:邉見 統(学習院大学・非常勤講師)
報告Ⅱ 北周侍衛の起家基準―韋孝寛一族の墓誌を中心に―
 報告者:会田 大輔(明治大学等・兼任講師)
報告Ⅲ 征服軍の撤退―里耶秦簡よりみた占領統治の展開
 報告者:宮宅 潔(京都大学人文科学研究所・教授)

報告Ⅰ 邉見 統(学習院大学・非常勤講師)
発表題目:漢初の虎符と列侯就国令
発表概要:本報告は、漢初における虎符と列侯就国令の関連について検討するものである。虎符は発兵に関係し、これまで文献史料を用いた研究がなされる一方、発掘あるいは収集された秦漢時期の虎符も考察の対象とされてきた。それらによれば、秦の虎符は県を単位に発行され、漢の虎符は郡国を単位に発行されたと考えられてきた。すなわち、漢代の虎符は、一半は中央に保管され、もう一半は郡国の守相のもとにあったとされているのである。また、郡国の守相を対象として虎符が作成されたのは文帝2年(前178)とされる(『史記』巻10孝文本紀)。しかし前漢の列侯国に関係する虎符も確認されており、報告者もこれに言及したことがある。一方で列侯就国令は、前漢の文帝2年と同3年(前177)の2度にわたって発せられ、多くが長安に居住していた列侯に対し、一部を除いて列侯国へ赴くことを命じたものである。当時、高祖功臣が大きな政治的影響力を有していたが、列侯就国令によって高祖功臣列侯は長安を離れることを余儀なくされ、高祖功臣は次第に政治的影響力を低下させていったと考えられている。このように列侯就国令は高祖功臣をめぐる政治史研究のなかで多く言及されてきた。文帝は呂氏政権打倒後、大臣に擁立されて即位し、高祖功臣や諸侯王との関係に苦慮しながら、政治を行ったと考えられている。そのなかで文帝は、即位後まもない時期に以上のような発兵や列侯の処遇をめぐって制度・政策の変更を行ったのである。本報告ではこの点に注目し、漢初の列侯国の虎符と列侯就国令の関連について、当該期の政治史とともに検討する。

報告Ⅱ 会田 大輔(明治大学等・兼任講師)
発表題目:北周侍衛の起家基準―韋孝寛一族の墓誌を中心に―
発表概要:北魏では5c末の孝文帝期に中国化政策が行われた。しかし、その反動で華北は動乱状態に陥り、北魏は534年に東西に分裂してしまった。このうち、中国化路線に反発した西魏(535~556)・北周(557~581)は、北族重視路線を選び、復古政策を展開し、官制面では『周礼』に基づく六官制を採用した。この六官制のうち、皇帝の護衛・侍従を職掌とする侍衛(宮伯・諸侍)には、遊牧官制の要素(護衛を中心とする皇帝近侍官、侍衛の長官の殆どが北族、元勲・功臣子弟が就任、侍衛から皇帝側近・高官を輩出)が存在しており、北周では出世コースの一つとなっていた。特に諸侍は功臣子弟の起家官としても機能していた。しかし、北魏前期の北族の功臣子弟が原則として内朝官(遊牧由来の側近官)から起家していたのに対し、北周では侍衛起家は一部に留まっており、功臣の子弟全てが侍衛から起家したわけではなかった。北周の侍衛の起家基準については、文献史料からうかがい知ることはできなかった。ところが、その手掛りが近年正式に公表された韋孝寛一族の墓群と墓誌(1989~1990年に陝西省西安市で発見)に存在していたのである。韋孝寛(509~580)は西魏・北周に仕えた漢人豪族で、東魏の高歓の侵攻を防ぎ、国境を守り抜いた名将として知られている。今回、韋孝寛一族の墓誌を分析したところ、韋孝寛の息子には侍衛で起家した者とそれ以外の官職で起家した者がおり、その違いが浮かび上がってきた。侍衛で起家した者は、韋孝寛の嫡妻の子だったのである。すなわち、侍衛の起家基準に嫡庶の別があった可能性が出てきたのだ。そこで本報告では、韋孝寛一族の墓誌の分析を糸口に、侍衛で起家した群臣子弟の経歴を再調査し、侍衛起家の基準を解明していくこととする。

報告Ⅲ 宮宅 潔(京都大学人文科学研究所・教授)
発表題目:征服軍の撤退―里耶秦簡よりみた占領統治の展開
発表概要:現在の里耶鎮の一帯を占領し、そこに遷陵県を設置した後、秦の占領軍はこの新領土から徐々に撤収した。占領のごく初期には、遷陵県内に司馬・卒長・邦候といった軍事指揮官が駐屯しており、「奔命」を率いた校長や尉の存在も確かめられる。彼らの配下にあった兵士は主として南郡の出身者で、洞庭郡から近く、かつ秦による統治の歴史が比較的長い地域の人員が動員されていたことが分かる。だがその後、これら占領軍の姿は遷陵県内では見られなくなる。その間に占領軍が撤収し、遷陵県内に置かれた兵力は防備兵(更戍・冗戍・罰戍など)を中心としたものに置き換えられていったのであろう。防備兵の中には、統一戦争のなかで新たに占領された地域の出身者もいた。占領軍の撤収と兵力の入れ替えは段階的に進められたようで、まずは征服直後、すなわち始皇25年頃に、そして始皇27年頃にも行われたことが、いくつかの史料から確かめられる。こうした軍の撤収に伴って、統治体制も徐々に整えられた。占領直後から、部局間で文書の遣り取りがなされていたことはもちろん、銭の使用や徭役の徴発も比較的早い段階で行われていた。これに対し、賦税の徴発はやや遅れていたようであり、さらには官有労働力を用いた農田耕作や、民間からの穀物買い入れ(「糴」)などは、なかなかスムーズに始まらなかったことが里耶秦簡から看て取れる。本発表ではこのように、里耶秦簡を時系列に沿って分析することを通じて、軍事的な勝利が征服者による支配にたどり着くまでの道程について、統治制度の展開にも注意しつつ分析する。

▼連絡先(大会委員長)
柿沼陽平(早稲田大学文学学術院)
E-mail:yohey0806@yahoo.co.jp

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