『中国漢字学講義』訳者あとがき

投稿者: | 2022年6月14日

中国漢字学講義
東方学術翻訳叢書

裘錫圭著/稲畑耕一郎・崎川隆・荻野友範訳
出版社:東方書店
出版年:2022年06月
価格 6,930円

 

 

訳者あとがき(稲畑耕一郎)

 私たちが本書『中国漢字学講義』の原著である『文字学概要』の翻訳に取り掛かって、すでに二十数年もの時間が経過した。この間、2004年に『文字学概要――〔前編〕漢字の誕生とその発展』として本書の第五章までに図版部分を付けて刊行し、引き続き2007年には『文字学概要――〔後編〕漢字の性質とその展開』として第六章から最後までを刊行した。いずれも出版母体は早稲田大学中国古籍文化研究所であり、その「文字学研究班」の成果(「単刊」2と8)として発表したものである。もとより市販を目的とはしておらず、図書館や斯界の一部の方々に配布しただけであったので、後に多方面から購入の希望が寄せられたものの、その要望に長く応えられないままであった。

 今般、東方書店から公刊する機会を与えられたのを機に、かつての「文字学研究班」において実質的に仕事を担った稲畑、崎川、荻野の3名が集まって改めて旧訳を全面的に読み直すことになった。この間、原著も商務印書館から「修訂本」(2013年)が出ており、今回の日本語版もそれに従って改稿することとした。原著では「修訂本」以前にも小さな修正はあったが、2013年版は新しい材料を補足したり、一部に考えを改めたりしているところもあり、実質的には著者最新の「修訂本」である。

 この改訳の作業は2018年春、稲畑が早稲田大学を定年退職した後、いくらか時間に余裕ができるだろうとの思いで始めたが、引き続き北京大学の国際漢学家研修基地(大雅堂)に招かれて任に当たったこと、次いで2019年春からは南京大学文学院での職務に就き、その間にも東奔西走が続いて席の温まる暇もなく、図らずもさらに多くの時間を費やすこととなってしまった。それでも、この度の長い蟄居生活の余に一定の時間が取れたことで、全書を読み直して旧訳にあった少なからぬ不備を修正し、長年肩に架かっていた重荷をここにようやく下ろすことができた。安堵の思いもひとしおである。

 原著『文字学概要』の第一版は、それまでの著者の北京大学中文系での「漢字学」の講義録に手を加えて1988年11月に出された。当時は文中にしばしば言及される甲骨文、金文や奇字辟字の類を印刷する技術はなく、手書きの油印本(謄写版印刷)として出された。私たちが最初に日本語版を出したときにも、その部分は手書きしたものを貼り付けて、印刷に回さざるを得なかった。それでも自分たちで版下さえ作れば、なんとか印刷して出版することができ、その出来映えにも納得していたものである。ところが、それから幾星霜を経た現在ではそれらはすべて何の問題もなく電子組版で処理できるようになった。

 この間のこうした印刷技術のめざましい進歩に今昔の感を強くする一方で、同様に日日新たな学術の世界にあって、なおこの領域の最も信頼できるテキストとして中国の大学での「漢字課」(原著「初版前言」の語)の基本図書として使われていることを思うと、その特別な生命力に驚きを禁じえない。

 言うまでもなく、この間に「漢字学」の領域ではさまざまな貴重な成果があった。古文字に特化した書物や学説史を語る書物、また出土文字資料を用いての新しい研究、さらに今ではより広い視野からの漢字研究も少なくない。その中にあっても本書が「漢字学」のテキストとしてその存在意義を少しも減じていないのは、全書を通して漢字という文字をどういうものとして捉えるかという著者の考え方が一貫して示されているからである。それは理論というほどには仰々しくはないが、少なくとも中国の文字世界を理解する上での著者のメソッドが明確に示されている。それがこの書物が多くの人に支持され、拠るべきテキストとして参考にされるゆえんではないか、と私たちは考えている。著者の個々の学術的な成果は『裘錫圭学術文集』(復旦大学出版社、2012年)に収められた諸論に見えるが、著者の漢字に対する基本的な考えは、本書の中に最も集約的かつ体系的に記されている。著者の「漢字学」の核心となる著作である。

 そもそも中国における文字(漢字)の存在は、それぞれの時期の中国そのものを映す鏡のようなものである。「文明を表記するメディアとしての漢字」がなければ、中国そのものが存在し得ないようにさえ思える。中国の文明を構成する要素には中国以外の地域からもたらされたものが無数にあるにも関わらず、物質であれ、観念であれ、技術であれ、いったんこの地の文字(漢字)によって書き表されると、やがてすべてが同化されてしまい、もとから本地自生であったかのように止揚され、自他の区別がつかないようになってしまう。それは中国人の思考様式とも相成って正負両面の意義を有するが、中国を理解しようとすれば、その文字についての本質的な理解は決してゆるがせにできないことになる。中国は「文字の国」であることによって、自在に変化しつつも文明の継続性が担保されてきたように見えるのだと私は考えている。中国が「文字の国」であるとすれば、その文字に対する理解は私たちにとっても最も不可欠な部分ではないだろうか。

 近年、日本でも一昔前までのように漢字を排斥したり、それにアレルギー反応を示したりする人は減少し、むしろ興味をもつ人が増えてきているように思われる。その中にあって、漢字の複雑で豊饒な世界がどのようになり立っているのか、それがどのように変化して今日に至っているのかを解き明かそうとした本格的な書物はなお多くはないように思える。本書は決して簡単な書物ではないが、漢字を考える上で大きな示唆に富む著作であり、多くの人に手にとってもらいたいと願っている。拙訳本が漢字世界の理解の一助となれば、長年にわたって翻訳に携わったものとしてこれにすぐる喜びはない。

 本書の刊行にあたっては、東方書店各位の一方ならぬ懇切丁寧な助力があり、また最終段階では「古文字と中華文明伝承プロジェクト」からの助成を得ることができた。ともに深く感謝の意を表する次第である。

 

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原書
文字学概要(修訂本) 平装
商務印書館 価格3,894円

文字学概要(修訂本)(中華当代学術著作輯要) 精装
商務印書館 価格8,833円
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