中国古版画散策 第八十回

投稿者: | 2022年6月15日

『避暑山荘三十六景詩図』をめぐって②
――三つの避暑山荘図

瀧本 弘之

 前回は、1933年に満洲国で復刻された羅振玉旧蔵の『避暑山荘三十六景詩図』について紹介した。同国の高官で創設者のひとり、羅振玉の持っていたものは康煕殿版で二冊本・二色套印だった。内容は、熱河避暑山荘の景色三十六図と康熙帝らの詩の紹介である。
 いま私の手元には架蔵の『熱河三十六景詩図』と称する、明治大正期の美術史家・大村西崖が重刊(復刻)した版本一冊がある。これは大正12年(1923)に日本で公刊された木刻版本で、名前からすると羅振玉本によく似たものでないか、または康煕殿版の重刻かと想像するだろう。いずれも否である。確かによく似ているが、羅振玉本が二冊本・二色套印なのに対し西崖のものは一色の墨刷りだ。内題箋を揮毫しているのは、彼の上司に当たる東京美術学校校長の正木直彦である。なにゆえに名称を別にしているのか。

図1 扉の内題は正木直彦と西崖(帰堂は西崖の号)

 私がこの本を入手したのは1990年代で、多分神田の古書会館か、Y書店で入手したのだろう。残念ながらそれほどに気を付けていなかったのか、はっきりとした記憶はない。当時、大村西崖を知っている人自体まれだった。私は1988年に町田市立国際版画美術館で開催した「中国古代版画展」を手掛けた関係で、彼の業績を少し知っていた。彼は古版画挿絵本の重刻に関しては先駆者の一人で、その業績が民国期の中国の古版画愛好者に与えた刺激は小さくなかった。もともと彼は、日本に留学していた陳師曽(名は衡恪、1876-1923)と意気投合して、「文人画の復興」に大いに寄与した。そして大正期に中国に渡り多くの同好の文化人らと交わり(会話はできなくても、筆談は問題ない)、相当に高度な交流を行ってきた。また多くの書籍をはじめ文物を購入して持ち帰ったので、美術学校の学生や教員に裨益するところ大だったろう。その傑出した業績も近年少しずつ見直され、日記などの公刊とともに評価が高まっているのは悦ばしいが、この『熱河三十六景詩図』を含む多数の「図本叢刊」シリーズにはまだ十分に目が届いていない。近年日記が公開されて、一歩前進したといえようか。西崖の業績といっても、あまりにも多岐にわたりしかも複雑で難解なため、今の研究者には歯が立たないというのが本当のところだろう。
 それにしても、「図本叢刊」と名付けられた一連の刊本はすべて中国の明清の挿絵本を重刊したものなので、それぞれ詳しい「解説」が欲しいところだが、彼は自らが「図本叢刊会」を組織して専門家相手に頒布会を実行していたせいか、初学者などは相手にせずという態度だった。多分、そこまで配慮はできなかったのだろう。ときに一枚のペラの次回の予告めいたものがつけられたり、最後のページに恐ろしく達筆の漢文で跋が付くことがあったが、平易な解説は皆無だ。「図本叢刊」は西崖晩年の仕事だが、壮年期には審美書院という出版社で、美術全集なども編集していたから、そうした経験の下地があってこの大事業を進めていったのだろう。
 とにかくこの『熱河三十六景詩図』には、何の説明もないと思っていた。だが今回『熱河三十六景詩図』には比較的丁寧な跋が最後にあると気が付いた。もっとも跋自体には表題も何もなく、いきなり始まっている(図2)。西崖の自筆を彫ったものだから、読み取りに手間がかかる。活字に直すのは相当に骨だ。一部だけだが読んでみた。曰く「熱河清朝離宮在民國特別區域熱河道承徳然熱河本以河得名古田武列水發源縣治以流東南入灤河…」(熱河は清朝の離宮、民国特別区域熱河道承徳縣にあり、然るに熱河、本は河を以て古田の名を得たり、武列水縣治に發源して以て東南に流れ灤河に入る…とでも読めばいいのだろうか)

図2 西崖の跋の初めの部分

 『熱河三十六景詩図』に取り上げられている風景は『避暑山荘』と全く同じだ。三十六図ある。名称なども前回に同じだ。ただ図は比較してみると、微妙に違う。

 大村西崖の書いた跋を更に見よう。やや草書の混じる行書で、詰まって書かれている文は、慣れてもとっつきにくい。したがって多くの蔵書家はここにまで目を通すことは少なかったろう。だが我慢して読んでみると気が付かなかった情報が埋まっている。『避暑山荘』は殿版で、これが『欽定古今図書集成』に取り入れられているという。しかもその図版と殿版を比較すると、『欽定古今図書集成』の図版のほうが優れているという。これはもちろん西崖の見識なのだが、「頗見筆意精確、因今取集成原刻本、不重版加御製記於巻頭、以入図本叢刊也」とことの次第を漢文で記す(図3)。優れたほうを「図本叢刊」に採用したというわけだ。

図3 跋の一部(赤線筆者)

 『欽定古今図書集成』とは康熙帝の時代に企画された中国最大の百科事典で(これを類書という)、その巻数一万巻。勅版である。明の三才図会や永楽大典の規模の大きなものと考えればいいか。古今のあらゆる書物から抜き出した記事を配列して並べた膨大なものだという。私も実物の全体は見たことがない。かつて国会図書館に影印本が配置されていたことがあった。もとは『彙編』と呼んだが康煕帝は『欽定古今図書集成』と名を改めた。さらに雍正時代に増訂して、雍正3年(1725)に完成した。 驚いたことに本文は銅活字を用いて作られている(普通は整版で彫るが、これはわざわざ銅製の活字を鋳造している)。図版は木版だ。その図版はいずれも精緻の極を行くものだが、藝術性にはやや乏しいと言われる。日本にも享保時代に輸入されている。西崖は『欽定古今図書集成』が重刻した「避暑山荘」の優れた図版を採用して(『避暑山荘三十六景図詩』は康煕年間の刊行で、『古今図書集成』は雍正年間刊行だから、図版は前者を踏襲している。結果において西崖の『熱河三十六景詩図』は重重刻になる)、多少の加工をした上で自らの「図本叢刊」シリーズに加えたのである。題して『熱河三十六景詩図』。ここで『避暑山荘』の名を避けたのは、図版の出自が異なり体裁も多少変えたことによるからだろう。そのもとにした『欽定古今図書集成』の原刻本は、どこでどうしたのか。実は先日偶然に、ネット検索中に京都大学人文科学研究所に三冊だけ、『欽定古今図書集成』の零本が収蔵・公開されているのを知った(これそのものを西崖が使ったかどうかは判らない)。「欽定古今圖書集成 殘三卷 存山川典卷第二十三第二十四考工典卷第五十三 有闕葉  淸康煕中敕撰 活字印本」とあるのがそれで、ネットで図版を一見したがまさに西崖が用いたと考えられる「図版部分」が含まれている。その出来栄えと康煕版の仕上がりについて比較してみると、一長一短で、西崖の意見にそのまま同意するのはなかなか難しい。文人画を尊崇する西崖の「好み」は分かるが、康煕時代の『避暑山荘』殿版の挿図にもそれなりの味わいがあると思う。ただ、『欽定古今図書集成』の図版はどちらかといえば日本人好み、浮世絵のタッチをも思わせるものがある。

図4 『欽定古今図書集成』の「煙波致爽」。原刻本。(京都大学人文科学研究所蔵)
図5 羅振玉本影印・康煕殿版『避暑山荘三十六景詩図』「煙波致爽」

 実際の京大人文研蔵書の図版を掲げると、図4のようになる。これは版心に「古今図書集成」「経済彙編考工典第…」と文字が刻まれている。このことで『避暑山荘詩図』とは別のものだとわかるだろう。参考に下に『避暑山荘三十六景詩図』の同じ部分「煙波致爽」(図5)を挙げてみると、よく似てはいるが、似て非なるものと言えそうだ。最も差があるのが、左上にのぞく遠方の山で、『避暑山荘』にはない山が『欽定古今図書集成』では追加されている。康煕殿版『避暑山荘』の挿絵は版本に片観音の一枚紙だったものが、図書集成では見開きになっていた。羅振玉のものは殿版だがコロタイプの影印なので、木刻原版の『図書集成』と比較するのは、やや酷な気がするが……。では大村西崖のものはどうか。

図6 大村西崖が手がけた「図本叢刊」本、『熱河三十六景詩図』の「煙波致爽」

 上の図4・5は殿版、下の図6は日本で大正末年に重刻されたものだ。これら三つは同じ「煙波致爽」の図で上からそれぞれ『古今図書集成 経済彙編考工典第五十三巻苑囿部彙考之二十三』『避暑山荘三十六景詩図』『熱河三十六景詩図』の挿図だ。
 もう一度繰り返すが、『欽定古今図書集成』は康煕年間に編纂が始まり銅活字を用いて組み上げ、挿絵は木版で最終的には雍正年間に完成した。その数一万巻とされる。既に述べたようにあらゆる書籍から様々な項目を選んで作った百科事典(類書という)だが、当然満洲族に不都合なものは捨てている。『避暑山荘三十六景詩図』は康熙帝の功績だから積極的に取り入れたらしい。『欽定古今図書集成』の中には「避暑山荘」の文字はなく「熱河三十六景/煙波致爽図」の文字が使われている。そこで大村西崖もこれを書名に援用したのだろう。こうすれば版本の素性がはっきりするともいえる。
 この文字は、見開き図の前の左ページの上に示されている(図7)

図7 図本叢刊本の「煙波致爽」表題

 最後に、私見によると特に優れていると思った風景画を掲載しよう(図8)
 殿版を重刻した『欽定古今図書集成』本の「遠近泉声図」だ。さすがに康煕・雍正時期の仕事で、生き生きとした風景が迫ってくる。そしてこの彫りには、何とはなしに浮世絵全盛期の江戸の版本の仕事ぶりを思わせるものがあるのも否定できないだろう。

図8 『欽定古今図書集成』より「熱河三十六景・遠近泉声図」(京都大学人文科学研究所蔵)

(たきもと・ひろゆき 著述家、中国版画研究家)

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