アジアを茶旅して 第18回

投稿者: | 2022年8月1日

狭山茶 ニューヨークへ

 

前回は佐倉茶がニューヨークへ輸出された経緯を紹介した。今回は佐倉より僅かに早くニューヨークに到着した狭山茶の歴史について、振り返ってみたい。

 

▼佐藤百太郎のその後

佐藤百太郎は1875年に一時帰国して、米国商法を学ぶ商業実習生を募集し、森村豊(森村組)、新井領一郎(生糸)、伊達忠七(三井物産)、鈴木東一郎(丸善)、増田林三郎(狭山茶)を連れ米国に戻った。この辺りは『国際ビジネスマンの誕生』(阪田安雄編著、東京堂出版)に詳しい。

1876年ニューヨークに到着した新井領一郎や森村豊は早々に百太郎と合同事業を設立して貿易を開始したが、事業は当初より上手くいかず、百太郎は多額の借金を負ったらしい。共同経営は直ぐに破綻し、その後アメリカで大成功した新井とは対照的に、百太郎は失意の帰国となった。

帰国した1891年以降は大蔵省に出仕したらしいが、その後京都に隠棲したという。ニューヨークで京都の物産を商ったのが縁だったのかもしれない。1910年に京都で57年の生涯を閉じ、京都伏見の桃山善光寺に葬られているが、住職に聞いても、なぜここに葬られたか、その経緯は不明だという。

佐藤百太郎の墓(京都 善光寺)

 

▼狭山会社の繁田と増田

百太郎がニューヨークに連れて行った実習生の中に、狭山の増田林三郎という若者がおり、狭山茶の米国輸出を託されていた。狭山では1875年狭山茶を直輸出するために狭山製茶会社(狭山会社)が設立される。地域の豪農30人が参加、社長は繁田満義で、姻戚関係にあった榎本武揚や赤松則良から、茶業が有望であることを聞き、中心となって有志を集め、茶輸出を目論んだという。

繁田満義

なぜ明治初期に狭山会社は設立されたのか。茶貿易の主戦場が横浜であった時代、輸送が便利な関東は一大茶産地となり、また生糸と並ぶ輸出品であった茶の直輸出には官民挙げて機運が高まり(狭山に次いで各地で直輸出会社が設立される)、当時の熊谷県権令楫取素彦(吉田松陰の妹と結婚、群馬県令として富岡製糸場の発展に貢献)は、政府から狭山会社に対する勧業資金無利子貸与を得ている。また狭山茶業振興策として、会社が茶農家に資金を融資して生産を活発化させる目的もあった。

狭山会社と百太郎を直接結びつけたのは赤松則良(咸臨丸で勝海舟と渡米、日本造船の父とも呼ばれる)だったらしい。則良は実は繁田満義の甥であった。そして則良の妻は林洞海(妻は百太郎の伯母)の娘である貞(榎本の妻も貞と姉妹の多津)であり、ガチガチの姻戚関係にあった。更に言えば赤松、林研海(林洞海長男)、榎本は1862年幕府派遣でオランダに留学した仲間だった。これらの縁で佐藤家と繁田家は強く結びついており、繁田が茶の輸出を思い立つきっかけが、榎本、赤松からの情報というのも頷ける。

繁田家は満義の父、満該の時代に茶業を家業の中核に据え、満義、翠軒の三代に渡り、戦前の狭山茶の中心的存在であった。現在入間市黒須を訪ねると、満義が渋沢栄一と共に創設に関わった黒須銀行の建物が残されており、その横には繁田家本家の立派な門とお屋敷があり、向かいには繁田園が今もお茶を商っていた。繁田家の子孫の方にお話を伺うと、「繁田園は長きに渡って、皇居茶園の摘み取りから製茶を任される、所謂宮内庁御用達であった」といい、繁田家が満義の茶輸出以降も地元の名士であったことが窺える。

繁田園(埼玉県入間市)

狭山会社の株主の中には、実は繁田を凌ぐかと思われる資産家がいた。それが狭山の大地主、増田忠順だった。そして増田家当主忠順の弟が林三郎であり、彼は増田家及び狭山会社の代理として、茶業目的で渡米したと考えられる。そして初の日本茶直輸出が狭山会社と百太郎の間で行われ、その歴史的な場面には林三郎も立ち会っていた筈だ。

ただこの画期的な直輸出は長くは続かなかった。佐藤の会社は既に経営危機に瀕しており、また元々その売掛金回収に時間が掛かったこと及び絶対的な資金不足のため、狭山会社は結局1882年に倒産、その損失の多くを繁田満義が個人で賄ったという。やはり日本人の手による茶の直輸出は簡単ではなく、更にこの時代、直輸出を実施するための金融サポートがなかったことも、失敗の大きな要因だったと考えられている。

ところでニューヨークに渡った増田林三郎は2年後には帰国したらしいが、その後、世に名前が出て来ることはなく、何をしていたのか、消息は全く分からない。兄の増田忠順が入間銀行頭取、川越鉄道取締役など、多くの事業でこの地域の名士の位置にあったのだから、ニューヨークにまで留学させた弟に、茶業以外でも活躍の場はあったに違なく、他のほぼ全ての実習生がその後ビジネス上で名を残しているだけに、何とも不可解な気持ちに襲われる。狭山茶輸出の挫折が大きなダメージとなったのだろうか。狭山市の常楽寺墓所には今も増田家の墓が連なり、忠順の墓も静かに建っているが、林三郎の名をそこに見つけることができないのは何とも寂しい。

繁田満義墓所にある赤松名の墓

増田忠順の墓(狭山市 常楽寺)

 

 

▼今回のおすすめ本

急須でお茶を 宜興・常滑・急須めぐり
中国の宜興の茶壺が日本の常滑に伝わり、赤い素焼きの急須となった。その変遷を、江戸から明治にかけての代表作品とともにたどる。

 

 

 

 

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須賀 努(すが つとむ)

1961年東京生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。コラムニスト/アジアンウオッチャー。金融機関で上海留学1年、台湾出向2年、香港9年、北京5年の駐在経験あり。現在はアジア各地をほっつき歩き、コラム執筆中。お茶をキーワードにした「茶旅」も敢行。
blog[アジア茶縁の旅]

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