アジアを茶旅して 第25回

投稿者: | 2023年10月2日

国産烏龍茶の発祥地は大分?

 

最近日本国内でも烏龍茶が作られていることを知っているだろうか。8年ほど前、茨城県にさしま茶の見学に行った時、木村昇さんから「台湾に5回通ってその製造法を習得し、国産烏龍茶を作っている」という話を聞いた。その頃から国内各地で微発酵茶から東方美人茶まで、各種烏龍茶が作られ始め正直驚いた。「日本で烏龍茶を生産するのは難しい、気候も土壌も違うから」と台湾人茶業者から何度も聞いていたからだ。

ところで日本ではいつ烏龍茶が作られ始めたのだろうか。調べていくと一人の人物に突き当たる。静岡県森町出身の藤江勝太郎だ。藤江は台湾が日本領になる以前、1887年前後に台湾に3回も渡り、淡水付近で烏龍茶の製法を学んだ人物だった。そして帰国後、郷里森町に日本烏龍紅茶株式会社を設立(1889年)、烏龍茶生産を本格的に開始すると共に、その製法指導にも当たり、近隣の茶農家も烏龍茶作りへのチャレンジが始まった。

現在森町を訪ねると、レトロな旧周智郡役所を利用した歴史民俗資料館に藤江勝太郎のコーナーが設置され、茶に関する展示品が見られる。またその生家も保存されている。更には近年村松達雄氏らのご尽力で、藤江の顕彰が進められ、日本烏龍紅茶株式会社の所在地もほぼ特定された。藤江が当時もたらした新しい烏龍茶という商品は、ここで認知されたと言えるだろう。

藤江勝太郎 紹介(森町立歴史民俗資料館内)

ただ日本で良質の烏龍茶を作るのはやはり困難があった。烏龍茶生産は広がらず、1895年の内国勧業博覧会に設けられていた烏龍茶部門には二等賞に藤江の名前があるだけだった。しかもこの年、日本が台湾を領有し、主要産品である茶業振興・整備のため、藤江自身が台湾に赴くことになる。これ以降台湾で作られた烏龍茶も国産となり、台湾総督府は、日本国内に台湾烏龍茶の売り込みを図ったが、その愛飲者は多くはなかった。尚藤江は台湾初の製茶試験場を創設し、初代場長に就任、台湾茶業の基礎を築いた。

因みに現在の日本人が誰でも烏龍茶を知っているのは、1980年代伊藤園やサントリーが巻き起こした烏龍茶ブームによるもので、実は極めて新しい。中国福建省厦門の国有茶業者を訪ねた際、「烏龍茶が世界に広まったのは日本のお陰だ」と感謝の言葉を述べられたのは、強く印象に残っている。

厦門 国有茶業会社で

更に歴史を巻き戻していくと国産烏龍茶は明治時代初期に遡る。明治8年(1875年)大分県木浦では明治政府により紅茶伝習所が開設されたが、「(紅茶)試製伝習の際烏竜茶を試製す」と『紅茶百年史』(全日本紅茶振興会、1977年)に書かれており、奈良女子大学博士課程で国産烏龍茶の歴史を研究している樺島彩波さんも「これ以前の国産烏龍茶の記述は見付かっていない」と言うから、現時点で国産烏龍茶発祥地は木浦ということになるのではないか。

紅茶百年史

更にはその試製された烏龍茶を「同年多田元吉 支那へ出張の節携行す」とあるから興味深い。多田及び木浦伝習所については第10回で既に紹介しているが、試製された紅茶の評価が上海では散々だった一方、烏龍茶の評価はどうだったのか、そしてそもそもなぜここで烏龍茶が試製されたのかについては述べていなかった。

実は中国から招いた茶師には紅茶製造経験がなく、「この山茶で支那式に緑茶、ウーロン茶を作れば紅茶以上のものが出来る」と話したことから試製させたらしい。そして上海では「好評は得られず、売値は製造費をカバーするに足りず」とあるが、「試験的にも購入してみようとする者さえ出てこなかった」とある紅茶と比べればかなりマシだったのではないか。

いずれにしても製造され、それが少量でも外国で売値が付いたということは、この木浦産烏龍茶が日本初、と言えるようだ。2年ほど前紅茶伝習所の跡を追って、木浦に行ったことがあるが、そこは大分県南部の山深い場所で、なぜここに伝習所が開かれたのか、という問いに答えを見出すことは出来なかった。その場所は川沿いにあった(数年後のインド風紅茶伝習所の場所という説もある)と教えられたが、そこには今や何も見出すことは出来なかった。ましてやここで烏龍茶が作られていたなど、恐らく誰も知らない歴史なのだろう。近くには有名なジブリ映画『となりのトトロ』のバス停があったが、車は1台も通らなかった。

大分木浦 紅茶伝習所があった付近

そういえば、日本最初の紅茶伝習所は木浦へ行く前、熊本県山鹿に始まったとある。そこから茶業者一行は木浦に回ったようだが、それでは山鹿では烏龍茶は作られなかったのだろうか。残念ながら『紅茶百年史』にも記載はない。現地の資料には、烏龍茶ではなく、この年宇治製緑茶が作られ始めたとの記載が見られるのは興味深い。

これが何を意味するのかは一向に分からないが、この伝習所設置に尽力した勧業寮の役人の名が「上林茂」だったことと関連するかもしれない。上林と言えば京都茶業の名門であり、少なくとも緑茶生産には詳しかった。業務上の紅茶とは別に宇治茶を持ち込んだのか。いずれにしても紅茶生産の過程で生まれた烏龍茶はそれから150年、これから本格的な生産が始まるだろうか。

熊本山鹿 岳間茶発祥の碑

 

▼今回のおすすめ本

香りを訪ねて 台湾烏龍茶めぐり
海外生活中に茶芸を学び、帰国後に中国茶教室を開催し、台湾の茶芸館・茶農家・茶畑の視察を続ける著者が各種の台湾烏龍茶を紹介する。

 

 

 

 

――――――――――

須賀 努(すが つとむ)

1961年東京生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。コラムニスト/アジアンウオッチャー。金融機関で上海留学1年、台湾出向2年、香港9年、北京5年の駐在経験あり。現在はアジア各地をほっつき歩き、コラム執筆中。お茶をキーワードにした「茶旅」も敢行。
blog[アジア茶縁の旅]

LINEで送る
Pocket