アジアを茶旅して 第14回

投稿者: | 2021年12月1日

千家を守った男 蒲生氏郷

 

会津と蒲生氏郷

千利休については既に第7回第8回で少し触れた。やはり日本茶の歴史上、その存在はあまりにも大きい。だが、利休は時の権力者に切腹を命じられたのに、なぜその後その子供や孫は生き延びて千家が茶道の本流となっていったのかには、ちょっと疑問が残る。今回は利休の子を庇護した蒲生氏郷について書いてみたい。

何となく会津の街を歩いてみた。やはり戊辰戦争の歴史が思い出され、鶴ヶ城や白虎隊が自刃した飯盛山、更には新鮮組の近藤勇や斎藤一の墓などを巡り始めた。会津及び会津人の悲惨な運命については、後に陸軍大将となった柴五郎の遺書『ある明治人の記録』(石光真人編著)に詳しい。柴五郎は1900年義和団事件の北京籠城戦で各国軍と共同して活躍、名を成した人物であり(映画『北京の五十五日』にも登場)、その後の日英同盟の陰の立役者ではないかとも目されている。

そんな街の真ん中に、戦国武将の墓を見出した時は、正直ホッとした。商店街の裏側にひっそりと建つ臨済宗興徳寺。墓は空風火水地の五文字を刻した五輪塔で、京都大徳寺の本墓から分骨したものと言われている。キリシタン大名としても名高い蒲生氏郷の墓ではあるが、キリスト教的要素は見られなかった。

会津若松 蒲生氏郷の墓

蒲生氏郷は1556年近江の国日野で生まれ、その才を見込まれ、織田信長の娘婿となる。信長・秀吉時代に数々の武功を挙げ、1590年の小田原征伐後、伊達政宗の抑えとして会津を与えられ、会津若松城の基礎を築き、後年の戊辰戦争でもその鉄壁の守りは威力を発揮した。戦国最強の武将とも呼ばれ、秀吉の信頼が厚かったとも、恐れられていたとも語られている。しかし病魔に侵され、この文武に秀でた、僅か6万石から92万石の大大名に出世した武将は40歳の若さで早世している。

さて、この氏郷も茶人であった。しかも千利休に師事し、利休七哲の筆頭に数えられており、利休からは「文武二道の御大将」と評されたという。利休が秀吉の勘気を被り、堺に蟄居を命ぜられた際、淀の渡しまで見送ったのが、細川忠興と古田織部の二人だけで、氏郷は会津に居て、事の仔細を知らなかったことを悔やんでいたと言われている。

それもあってか、利休切腹後、秀吉の許しを得て、利休の次男小庵を引き取って会津に住まわせている(長男道庵は細川忠興が匿う)。氏郷の求めによって小庵が建てたのが、『麟閣』と呼ばれる茶室であり、江戸時代は鶴ヶ城内にあったが、戊辰戦争で取り壊されるところ、それを惜しんだ茶人の森川善兵衛が自宅に移築したという。1990年に若松城内に再び移築され、雰囲気の良い庭と共にその姿を今に残しており、茶を喫しながら眺めることもできる。

会津若松 麟閣

氏郷は朝鮮出兵の頃から体調が優れなかったといわれ、武将としての活躍は見られなくなったが、一方秀吉に対して千家再興を願い出ており、1594年頃にはそれが認められ、小庵は京都へ帰り千家を再興。その子宗旦に引き継がれ、更にその子らによって、表千家、裏千家、武者小路千家が興され、現在の千家の基を作ったというから、言ってみれば、蒲生氏郷は「茶道の大恩人」ということもできるのではないだろうか。

だが氏郷の名がそれほど知られていないのは、若くしてこの世を去ってしまい、その後の関ケ原の戦い、そして徳川の世を見ることがなかったせいであろうか。利休七哲の筆頭というのも、茶道の力量ばかりでなく、細川と共に利休の子を匿って、千家再興に努めたことが評価されたと説明する人もある。七哲のメンバーについては様々な意見があるというが、必ず入っている二人とは氏郷と忠興であることからも何となくそれは伝わる。

 

近江日野と伊勢松坂

氏郷の人柄は如何にして育まれたのか。故郷近江国日野へ行ってみると、氏郷産湯の井戸はあったが、中野城(日野城)は石垣の一部を残すだけだった。日野には茶に関連するものも見られず、氏郷の銅像が建ち、供養塔が見られる程度だ。ただ周囲には日野商人の屋敷跡などが記念館になっており、氏郷が松阪へ転封後、江戸初期から商人の街として栄えている。

滋賀県日野 蒲生氏郷像

松阪城を作ったのも氏郷だと知り、三重県松阪へも行った。本能寺の変後、氏郷は秀吉に見込まれ松阪へ。当初の松が谷城を捨て、松阪城を築城、同時に新しい自由都市を作ろうとした。故郷日野の商人も呼び寄せて、今でも日野町などの地名が残されている。天正3年創業という菓子屋があり、信長の茶会の菓子作りを命じていた商人が松阪に移住したらしい。松阪商人を作り上げたのも氏郷とも言え、その才覚が見える。因みに前回取り上げた三井財閥の三井家も松阪が発祥の地。

松阪 老舗和菓子屋

最後に京都百万遍に知恩寺を訪ねた。ここに氏郷の正室、織田信長の娘である冬姫(通称)が眠っていた。冬姫が亡くなったのは氏郷死去の46年後。時代は秀吉から徳川に移り、既に蒲生家も断絶。氏郷亡き激変の世を彼女がどのように眺めていたのか気になるところだ。

京都 知恩寺 冬姫の墓

 

▼今回のおすすめ本
『東京で台湾さんぽ』
東京とその近郊で見つけた、台湾を感じられるスポット98件。台湾茶の買えるお店、喫茶店なども紹介しています。

 

 

 

 

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須賀 努(すが つとむ)
1961年東京生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。コラムニスト/アジアンウオッチャー。金融機関で上海留学1年、台湾出向2年、香港9年、北京5年の駐在経験あり。現在はアジア各地をほっつき歩き、コラム執筆中。お茶をキーワードにした「茶旅」も敢行。
blog[アジア茶縁の旅]

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