アジアを茶旅して 第13回

投稿者: | 2021年9月30日

益田孝、團琢磨と日東紅茶

 

旧幕臣から大実業家になった人物といえば、渋沢栄一らと並んで三井物産初代社長でグループの基礎を築いた益田孝がいる。益田は戦前の大茶人の一人として茶の湯の世界でも知られおり、茶とは深いかかわりがある。茶号「鈍翁」(鈍太郎と呼ばれた茶碗から名付けた)と号し、1914年に三井を退くと茶の湯三昧の晩年を過ごしたとも言われ、小田原の別邸掃雲台は多くの数寄者たちの交流の舞台ともなったという。だが今回のテーマは茶の湯ではなく、紅茶とする。

益田孝が寄贈した応挙館(東京国立博物館内)

その益田の回想録『自叙益田孝翁伝』(中公文庫)の一節に「紅茶の献上」という項がある。それによれば、益田は明治初期にインドで修行してきた人達から紅茶の製造法を教わり、晩年まで自ら紅茶を製造していたらしい。このインドで修行してきた人達が、誰であるかは書かれていないが、あるいはあの多田元吉(第9回第10回参照)であったかもしれない。

益田は大正天皇の「国産奨励の思し召しから今後一切輸入茶を廃し、代わりに台湾の烏龍茶を召し上がる」とした新聞記事を読んで、それ以降自製の紅茶を献上したと書いている。自分たちの飲む紅茶を天皇に献上したのもすごいが、大正天皇が台湾烏龍茶を飲んでいた方に強い興味を抱く。

三井の茶業は明治初期の紅茶から始まった。社長が自分で紅茶製法を学んだぐらいだから、三井が紅茶を作らない筈がない。1878年三井は時の政府より三重産紅茶の販売を委託されたが、これは損失を出して終わってしまったらしい。

日清戦争後台湾へ進出すると、樟脳生産のために広大な土地を入手したが、樟の植樹が思わしくなく、茶園に転用したのも、益田の意向だったのではと思ってしまう。先ずは烏龍茶作りに着手しており、天皇が飲んだのも三井製だっただろうか。だが益田時代、台湾三井の茶業は振るわなかった。

益田孝胸像(護国寺内)

三井財閥2代目團琢磨は、三池鉱山を軌道に乗せて大抜擢された人物だが、若い頃にアメリカに留学するなど、紅茶にも親しんでいたのだろう。團の時代には台湾烏龍茶に紅茶を混ぜた烏龍紅茶から、本格的なインド風紅茶へと生産が移り、評判となっていく。これが今も販売されている日東紅茶(今の日本人で日東紅茶が台湾発祥だと知る人は少ない)であるが、そこには相当の生みの苦しみがあったという。

團は三井の最高会議の席上「紅茶は私の道楽として、もう少しやらせてもらいたい」と何度も発言したとの証言が残っている。そして1926年には自ら台湾現地の工場と茶園を丹念に視察して「烏龍茶製造を全て紅茶に切り替える。失敗したら自分が全責任を負う」と宣言したといい、これが翌年の三井紅茶の発売に繋がっていく。当時の雑誌にも「團琢磨は利益を度外視して国産紅茶を完成させた」と書かれており、商品が売れるようになっても、莫大な投資に対して、採算は合っていなかったらしい。

まさに三井紅茶、いや国産紅茶の生みの親は團であり、育ての親でもある。どこへ行くにも三井紅茶を携帯して他人にも配っていたとの話もある。その團琢磨は日東紅茶が認知された1932年には三井合名会社理事長、日本工業倶楽部初代理事長等の要職に付いており、日本財界のトップにまで上り詰めていたが、折からの金融恐慌、財閥批判の中、血盟団事件で暗殺されてしまう。團を三井の総帥に引き上げた益田の胸中は如何ばかりだったろうか。

團琢磨像(新大牟田駅前)

團琢磨を主人公とした西村健の小説『光陰の刃』(講談社文庫)の巻末、榎本了壱氏による解説の中に「ミスター・ティーって呼ばれていたのよ、團さんは」という益田素子さん(益田孝のひ孫)の言葉が掲載され、紅茶文化を日本に根付かせた人物として紹介されているのは興味深い。因みに現在益田と團は仲良く東京護国寺の墓地に眠っている。

ロンドンでも名を挙げた三井紅茶。台湾では1920-30年代に日東紅茶の茶工場が次々に作られ、生産は順調に進み、世界に向けて輸出されていく。1938年には東京日比谷に「日東コーナーハウス」が開店し、台湾産紅茶の内地還流も本格化、おそらくは昭和天皇も飲まれたことだろう。それはまさに益田孝が没した年だった。三井の紅茶はこのまま順調に拡大すると思われたが、戦争により全てが夢と消えた。

旧三井大渓茶廠

敗戦で台湾の茶工場、茶園などの資産を全て失った三井農林は、国内に残っていた紅茶を買い集め、GHQ払い下げのセイロン紅茶なども使ってブレンド茶を作り、日本で「日東紅茶」の生産を続けた。一時は小田原に残っていた益田農場の工場を借り受けて生産したこともあったというから、益田、團の流れは続いていた。

また台湾から引き揚げた三井の茶業関係者の中には、鹿児島県枕崎に日東茶業を立ち上げ、台湾における日東紅茶の技術を伝承し、紅茶生産を続けた人々もいた。更には地元三重に帰り紅茶製造に傾注した川戸勉氏などもおり、日東紅茶の流れは戦後も脈々と国産紅茶に繋がっていた。だがちょうど50年前の1971年、国策による紅茶輸入自由化により、国産紅茶製造は終焉を迎えた。

鹿児島枕崎 紅茶母樹園

 

 

▼今回のおすすめ本

『磯淵猛が歩いた イギリスが見つけた紅茶の国』
ロンドン、福建、雲南、ミャンマー、アッサム、セイロン島など、紅茶にまつわる“伝説の地”を訪ねて歩き、その謎を探求した、書き下ろし紅茶エッセイ。

 

 

 

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須賀 努(すが つとむ)
1961年東京生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。コラムニスト/アジアンウオッチャー。金融機関で上海留学1年、台湾出向2年、香港9年、北京5年の駐在経験あり。現在はアジア各地をほっつき歩き、コラム執筆中。お茶をキーワードにした「茶旅」も敢行。
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