尚平尾のこの旅には、一つのおまけ話が付いてくる。それは1891年ロシアのニコライ皇太子(後の最後の皇帝ニコライ二世)が来日した際、「西郷(隆盛)帰朝」との説があったことだ。「西郷はロシアで生きている」、その目撃者として「平尾がシベリア(クラスノヤルスク)の兵舎で西郷を目撃した」との新聞記事が出たという。平尾自身はそれを否定しているが、まさかこんな歴史に登場するとは面白い。
更に1899年磚茶貿易の可能性調査のためシベリアに出張、茶業組合ウラジオストク出張所の業務を九州製茶輸出に委託している。そして1901年には漢口、福州でも磚茶製造法の調査を行っているが、この時同行したのが熊本の可徳乾三であり、ウラジオストク事務所もこの可徳が開設するなど、シベリア磚茶ビジネスを切り開いた男だった。
尚可徳はハバロフスクに磚茶を商う可徳商店を設立しているが、実はこの店、対露諜報活動の拠点だったとの話も残っている。当時諜報活動に当たっていた陸軍の石光真清は『曠野の花』の中で、同行していた、後に熊本県茶業組合長になる阿部野利恭を「可徳商会の茶の輸出商人」と紹介しているのは実に興味深い。
茶業組合、平尾、そして可徳の目指した磚茶輸出は、その後日露戦争で一時的に中断され、可徳は破産し、台湾に渡って紅茶を作り、その地で生涯を閉じた。そして平尾喜寿も明治が終わるその時に、その役目を終えたように没した。平尾の墓は高知の五台山中にひっそりと建っているとのことだったが、まだ訪ね当ててはいない。
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