宝順洋行の買弁たち
宝順洋行(デント商会)に関しては「第23回 台湾烏龍茶を初めてアメリカに直輸出した李春生の謎」でジョン・ドッドが宝順から台湾へ派遣され、その破綻後独自の会社として宝順洋行(ドッド商会)を設立した様子を書いた。
宝順洋行は元々イギリス商人トーマス・デントによって1824年に広州で設立され、その後上海で有力外国商会となり、ジャーディン、ラッセルと並んで三大アヘン商とも呼ばれ、茶貿易に特に強い企業として知られていた。あの「紅茶スパイ」とも呼ばれたロバート・フォーチュンも、中国で茶種を入手する際は宝順洋行に世話になったようだ。因みに日本人漂流民音吉も上海の宝順で働いていたという話がある。
今回はマカオ、珠海で偶々見付けた宝順の買弁たちについて少し調べてみた。ある意味で李春生と同じような道を辿っている人々が中国にもいることが分かってきたので、簡単に紹介してみたい。
▼マカオの鄭観応
マカオでは20年ほど前に「マカオ歴史散歩」という活動をしていたことがあり、マカオの名の由来となった媽祖廟など、随分と歴史的な場所を歩いた。その中に16世紀にポルトガル人が最初に住み始めた地区のリラウ広場(亞婆井戸) があった。特に何があるわけでもないが、何となく安らげる場所として地元民にも親しまれていた。
その公園の前に「鄭家家屋」という文字が見えた。マカオにはポルトガル様式の素晴らしい歴史的建造物は沢山あるが、中国式邸宅は見たことがなかったので、フラッと入ってみた。そこは実に奥行きがあり、きれいに改修された大邸宅であった。一体誰がこんな建築物を建てたのか興味を持つと、敷地内に鄭観応記念館があり、詳しい展示が見られるようになっている。

鄭家家屋
鄭観応は1842年広東省香山県の生まれ。17歳頃上海に出て語学などを学び、宝順洋行で働き始めた。科挙に合格できず、買弁の道を選んだということらしい。彼が宝順でどのような業務を担っていたのかは分からないが、語学やビジネス手法などを身に着け、同時にかなりの財を成したことは間違いなく、茶業にも確実に触れていたと思われる。

鄭観応像
その後1873年、英商の太古輪船公司(スワイヤー)の創業に参画、李鴻章の洋務運動にも共鳴し、1878年に上海機器織布局、1881年に電報局に投資して経営に参画する。1882年 太古洋行を脱退後は洋務企業の経営を行ったが、トラブルに巻き込まれ、その後は思想家として著書を出している。台湾で茶業から身を起こし、実業家として財を成し、最後は思想家になった李春生に近いものがある。李の茶業も最初のアメリカ直輸出だけが有名で、後は闇に包まれている。茶業から身を起こし、歴史に名を残した人物は興味深い。
▼珠海の徐潤
マカオから珠海へ歩いて入り、特にやることもなくフラフラっと歩いていたら「愚園」という文字が見えた。入口はレストラン街かと思われたが、奥には広い公園があり、像が建っていた。そこに刻まれていたのが徐潤という名。説明書きを読んで驚いたのは、彼も鄭観応同様買弁であり、しかも宝順洋行に勤めて、そこから成り上がったと書かれていたことだ。

徐潤像
徐潤は1838年に鄭と同じく、広東省香山県(現在の珠海市北嶺村)に生まれた。この香山県は前述の鄭や唐延枢(ジャーディン)など、多くの買弁を輩出している。1840年代上海が開港されると、宝順など外国商会は上海に進出したが、その際マカオで商業に従事していた徐の叔父、徐鈺亭が初代上海買弁となり、その後その弟の徐栄村、ついで徐潤も14歳で上海へ向かったという。
徐潤はアヘン戦争後の1860年頃には宝順の総買弁となった(前述の鄭は徐の下で働いていたことになる)。因みに宝順は特に広東との関係が深く、漢口、天津など中国9か所に設けた買弁全てが広東出身者だったと言われているが、その理由は広東一行体制時代から、茶葉貿易の経験が豊富だったことが挙げられている。
恐らく徐潤も茶業に見識があり、1860年に個人で「潤立生茶号」という茶葉買付会社を温州に設立、更に60年代後半宝順が破綻する頃、徐潤は宝順を離れ、宝源祥茶棧を開設、茶業で大いに財を成したという。中国で徐潤は「近代中国茶王」とも呼ばれ、買弁の中でももっとも茶業に精通し、成功した人物となった。
その後は茶業のみならず、金融、不動産、鉱山などへ投資、更には李鴻章の要請もあり、中国初の近代的汽船運輸会社である招商局の経営にも参画するなど隆盛を極めた。ただ1880年代の経済不振の際、不動産投資などが裏目に出て、巨額の損失を被り、一時の勢いを失った。

文革で破壊された徐潤邸宅跡(珠海)
今回鄭や徐が働いていた宝順洋行上海があった場所へ行ってみた。史料によれば外灘14₋15号にあったようだが、現在その時代の建物はなく、その後に建てられた銀行の名前で説明書きがあるだけ。ジャーディンなど後世まで残って名を成した洋行と違い、今やその面影を追うことは出来ないが、茶業の現代史上重要な存在だったことに違いはない。

上海 外灘 宝順洋行跡付近
▼今回のおすすめ本
中国茶エキスパートが、中国古代から現代に至る思想家、詩人・文士、皇帝や政治家などの「人」「思想」に及ぼした茶の力、それをもたらした茶酔の境地などを体験を駆使して綴る。
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須賀 努(すが つとむ)
1961年東京生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。コラムニスト/アジアンウオッチャー。金融機関で上海留学1年、台湾出向2年、香港9年、北京5年の駐在経験あり。現在はアジア各地をほっつき歩き、コラム執筆中。お茶をキーワードにした「茶旅」も敢行。
blog[アジア茶縁の旅]