あだなからみる明終末期の陝西流賊(二十二)

投稿者: | 2025年11月14日

連載終了にあたって

佐藤 文俊

1、お詫び

 本連載では明終末期の陝西流賊構成員のつけたあだな(流動した地域の土賊も含む)について検討を重ねてきた。闖字を含むあだな(『東方』480号/WEB東方〈四〉、龍字を含むあだな(『東方』481号/WEB東方〈五〉、虎字を含むあだな(WEB東方〈六〉〈七〉、その他の動物名を含むあだな(WEB東方〈八〉〈九〉、宇宙(天・星等)及び自然現象を含んだあだな(WEB東方〈十〉〈十一〉、現世(“世”・“地”・“山”等)の地上に関するものを含んだあだな(WEB東方〈十二〉〈十三〉、神仏・民間信仰に関する名を含んだあだな(WEB東方〈十四〉〈十五〉、歴史上・伝承上の人名を含んだあだな(WEB東方〈十六〉〈二十〉の如くである。
 予告(『東方』478号/WEB東方〈二〉では本連載の最後に「分類不詳のあだな」を論じる予定であったが、項目があまりにも多方面にわたりしかも一つ一つについて史料が極端に不足していたため、記述をあきらめざるを得なくなったことをお詫びしたい。当初予定していたのは、軍関係のあだな、例えば一隊・二隊…八隊のような所属部隊や、老将軍・二将軍・領兵王・五軍都督府・夜不収等の軍職を含むあだなである。さらに軍と関連する兵器や道具名をあだなとする多数の事例も見られる。例えば薛紅旗・小紅旗等の軍旗、一杅槍・破剛錐・開山斧・馬鉄扛・梅鉄塊等の如くである。
 身体能力或いは身体的特徴を示すあだなも多い。飛行十里・雲里飛身・飛浪・隔溝飛・草上飛・馬上飛・括点飛・穿山滑・善隠身、張胖子・宋孩子・養箭瘡、隔(革)里眼・屹烈眼・格楞眼、石千斤・靴底光等である。
 その他、行十万・邢十万・混十万・整十万等のような「十万」をつけたあだな、一字王・新一字王・横天一字王のごとく「一字王」をつけたあだな、さらに一斗穀・一斗粟・一斗麻・一斗金・一条葱・一根柴・一盞灯等の量詞を冠したあだながあり、これら以外にも適当な分類ができないが由来を含めて興味のつきないものが多い。残念ながらこれらのあだなをつけた人に関する消息はほとんど不明でありこれ以上の言及が難しい(1)

2、あだなの選択状況

 天啓末から崇禎初年にかけて連続する天災と厳しい飢饉で、生産力の低い陝西西北部地域は生命の維持すら難しい危機的状況に陥っていた。その上、農民・牧民等の良民は賦役の徴収で破産する者が続出し、万里の長城に展開する多数の兵士は給料の未払いや上官のピンハネ、満洲族の北京侵入に対する救援が重なり、兵変を含めて原隊を脱出する者が続出した。こうした飢民や脱走兵士、或いは回民等の少数民族は、山岳に拠って流賊や土賊となって生存をはかった。
 『東方』477号WEB東方〈一〉で述べたように、彼らは親族への累の波及を警戒して、乱に参加した自身の出自を隠すためにあだなを使用して活動したが、そのあだなには現状に異をとなえる意も含まれていた。なお『東方』・WEB『東方』で取り上げたあだなはほとんどが流賊組織(掌盤子)の賊首と幹部、正構成員のあだなであり、一部各地の土賊も含まれる。
 延安府を中心とする陝北の大衆(農民・牧民・駅卒・兵士等)がつけた或いはつけられたあだなは、彼らの知りえた文化環境の範囲内にある。その文化環境についていささか触れてみたい。話は1930年代の内容であるが、日中戦争中の国・共対立時期、中国共産党は根拠地作りの柱である農民対策のため、農村調査を実施した。その一つに1930年に実施された尋烏県(現在の江西省贛州市)の調査がある。その第9項目の「尋烏の文化」によると、尋烏県で文字を知らない者が60パーセント、文字を知っている者40パーセントとあり、文字を知っている者の内『三国志演義』が読める者は5パーセントで、手紙や文章を書ける者と合わせても10パーセントに満たない。ほとんどの人々は『三国志演義』や『水滸伝』を本を読んで知っているのではなくて、芝居とか「説書」や「評書」のような語りものを見聞きして知ったのである。大衆に人気のある四大奇書等(『水滸伝』『三国志演義』『西遊記』『金瓶梅』)は「つい最近まで読むものではなく、見るもの聞くもの」であった(2)

 本稿の取り扱う時代は17世紀前半の明終末期で地域も陝西北部と上記の調査地と異なるが、その傾向はさらに著しいと思われる。『東方』479号WEB東方〈三〉で紹介した写真のうち、李自成等の掌盤子を生んだ米脂県では20世紀末でも盲目の講釈師による説書に聴きほれる聴衆の姿にそうした文化伝播の伝統が看取される。確かに明末には庶民的な荒っぽさのあった『全相平話』本が士大夫向きに物語文学として整理され、出版技術の進歩と市場の拡大で四大奇書等の読者層は士大夫や上級武官にも拡大したが、人口の圧倒的多数を占める農民(陝北では兵士等を含む)の大衆は、講談・演劇・歌謡等の口頭伝承によって知識を得ていたといえよう(3)

(1)あだなの対象として多い名称
 今まで述べてきた分類項目の種類で、あだなによく用いられる名称について触れておこう。収集した中で断トツに多いのが、動物では虎の115種WEB東方〈七〉では90例、その後新たに収集した25種を加える)、次いで龍の35種(『東方』481号/WEB東方〈五〉では26種)、狼の9種、はいたかの8種等である。又、〈天〉字を含むあだなの名称が非常に多いのも注目される。混天星とか奪天王、過天王の如く現在時点で55種WEB東方〈十〉では51種、但し龍の項目で挙げた混天龍等と重複して数えるような例も含む)の多きを数える。        
 次に同じあだなを複数人がつけた事例について述べる。これは当時の人々の人気度の反映ともいえよう。現在まで収集した事例の中から多いものをいくつか掲げてみよう。掃地王をあだなとした事例は7名(流賊4、土賊3。WEB東方〈十二〉、次いで5名の事例は飛虎WEB東方〈七〉、九条龍(『東方』481号/WEB東方〈五〉、混天星WEB東方〈十〉、黒殺神WEB東方〈十四〉、それに『水滸伝』関連の黒旋風WEB東方〈十九〉、張飛等である。4名の場合は奎木狼WEB東方〈八〉、混天王、金翅鳥WEB東方〈九〉、過天星・満天星(いずれもWEB東方〈十〉、老虎WEB東方〈七〉、『水滸伝』関連の関索・燕青WEB東方〈二十〉等である。3名は闖踏天(『東方』480号/WEB東方〈四〉、宋江WEB東方〈十九〉、薛仁貴WEB東方〈十八〉、混世王WEB東方〈十〉等である。

(2)現状に対する認識を表したと思われるあだな
 多方面にわたり述べてきたあだなの内容のなかには、現状に対する不信・不満・怒り等の認識を表したと思われるあだなが散見される。
 具体的には、混天王・混天星・混天龍・混天猴・混天狼・混天飛等の如く「混天」を冠した一群である。WEB東方〈十〉では混天星とは天上を攪乱する星宿であり、人間世界でもお騒がせ人間の意で使われ、陝西の民歌でも歌われるお馴染みの用語であったことに触れた。「混天」を冠したその他の用語も天に不満があることを示しているものと考える。
 過天王・過天星・過天飛等の如く「過天」を冠した一群もある。WEB東方〈十〉で過天星には天地を改める世直しの意が含まれていることを述べたが、他の「過天」を冠した語もおおもとの天に対する不信を表していると考える。
 さらに闖字を含む語群もある。闖塌天・闖天王・闖天鶏等の如き天に突入する意を冠した語群である(『東方』480号/WEB東方〈四〉。その他、天を崩壊する意を持つ射塌天(4)、天を揺さぶる意の揺天動をはじめ、天を突き破る意の奪天王や震天王・鎮天王・頂破天等が挙げられる。
 天に対するものとおなじく現状に強い不満を表したと思われるあだなの一群がある。混世王・乱世王・治世王・平世王・争世王・闖世王・哄世王等の如く現状を意味する「世」を含む語群である。WEB東方〈十三〉では混世王(混世魔王)と治世王に言及した。前者は『西遊記』や『水滸伝』に登場し、講談や歌謡に歌われ民衆にもよく知られた武勇の人であった。後者の治世王の「治世」には、太平の世を実現するという意を含んでいる(WEB東方〈十三〉)。他の乱世、争世、闖世にも現世に対する不満を表出していると思われる。
 人々が生活している「地」字を含んだあだなの状況は如何であろうか。掃地王をあだなとした者が7名いたことは先述した。これも地上の秩序に対する不信を表明していると思われる。類似のあだなと思われる名称に、掃地虎・掠地虎・抓地虎・扒地虎等がある。
 このようにあだなに、“天”・“地”・“世”を含む語を用いることで現状への不信・不満を表明できた背景について考えてみたい。文字の読み書きができる知識人層はどうか。天と地を祭る義務のある天子(皇帝)が実施する科挙及第を目指す儒教徒からは、天と地を批判する意識は生まれにくい。ただ伝統支配層にも、陽明学の主観唯心論、李卓吾の童心説や『水滸伝』評価を通した道教や仏教との相互交渉・融合により、儒仏道三教帰一の方向が形成されたWEB東方〈十〉
 一方、文字の読み書きが不十分か、或いは全くできない兵士や大衆はどうか。「ありがたみのない孔子」は崇拝の対象にはならない(5)。彼らにとって三教帰一はあたりまえで、道仏諸神混淆し道仏の塑像を同時に祭っていた(6)
 大衆に影響のある宗教としての道教では、天を司るのは三清の内、玉清元始天尊が隋唐以後の最高神だが、北宋の真宗・徽宗以後は天の政務を担当する四柱神の一人、玉皇上帝(玉帝)が最高神として奉じられるようになる(7)。玉帝が天を代表する内容から、儒教の最高神の上帝とほとんど同一の存在であるため、人間界でも皇帝の祭祀の対象になった(8)
 天と地を批判できた背景として、小説や講談等を通し民間信仰・道教信仰に馴染んでいた兵士や大衆は、天地の主催者である玉皇上帝(玉帝、天公)に畏敬とともに親近感をもっていたことが考えられる。

(3)軍隊関連のあだな
 崇禎初年の反乱の軸の一つは明軍の逃卒であった。崇禎元(1628)年に陝西東路で蜂起した王嘉胤(9)は延綏鎮定辺営の兵卒であったし、同3年陝西西路で蜂起したのも延綏営の逃卒の神一元・神一魁兄弟であった。かれらの呼称は本名のみであだなは伝えられていない。大勢力となった王嘉胤等は明軍との戦いで、黄河を渡河して山西に移動するが、神兄弟は陝西西部を移動する。
 西路の神兄弟が次々と犠牲になった後、その部下の連合集団が延安府と慶陽府の境界の山中にある鉄角城一帯に盤踞し、農業・牧畜による持久をはかろうとしたがこの機をとらえて、明軍は八方面からの山上攻撃で彼らを敗北せしめた。この戦闘における明軍の功績簿の記録によると、殺害された幹部級のあだなに軍の階級名(太字)が散見する(10)。以下列挙してみる。張総兵(本名、張守都。以下同じ)、王副将(王九敖)、高参将(高両河)、張千総(張成順)等の如くである。明末における明の将軍(上級指揮官)は、総兵・副総兵(副将)・参将・遊撃である。上記の階級呼称はもともとの明軍での階級か、それとも流賊に参加後に与えられたのか、或いは自称なのか当時の軍籍簿(「衛選簿」)を見ることができないので判定は難しい。
 この時期の兵士はほとんどが文盲であったと考えられるので、彼らが選んだ或いは与えられた呼称としてのあだなの文化的背景は農民等の大衆と同様であろう。講談・演劇・歌謡等の口頭伝承で知る『西遊記』等の他、『三国志演義』『水滸伝』は戦術書としても軍隊内で話題にされていたので彼らは内容を熟知していたと思われる。又日常生活における祭祀・民間信仰・道教等の価値観・宇宙観(『三教源流捜神大全』『封神演義』)、或いは儒・仏・道三教帰一のような考え方も共通である。
 文字による作戦・戦闘指令が不可能なので、彼らの知る文化・思想・宇宙観に基づく可視化された表現で理解させる必要があった。その一つが軍旗を使用した作戦行動(所属する隊の持ち場、行動する方向と方位)の指示である。所属する部隊の軍旗には28の星座(28宿)にたとえた禽獣(亢金龍・奎木狼等)、道教の符、星象、指揮官の名が描かれ、兵士の理解できる民間信仰、道教的思想を取り入れている。軍隊の移動(東・西・南・北・中央)を指示する大五方旗、五方旗にもこうした傾向が看取できる。前者は東方を示す藍色の旗に青龍を描き、西方を示す白色の旗には白虎を描いた。後者の五方旗では東方に温元帥、西方に馬元帥等の如き民間信仰・道教の元帥神が描かれている(11)
 なお明軍の脱走兵士は多かったが、大頭目の掌盤子中、史料上で明軍兵士と確認できるのは現在の所、混世王(3名の内1名、氏名は武自強)、治世王(氏名、劉希堯)、上天龍(5名の内1名、氏名不詳)等少数である。
 明軍内で使用されている用語には、あだなの由来となっている用語も非常に多い(以下の文章の太字)。軍の展開の合図に使用される門旗としての〈飛虎〉旗があり、編隊訓練方法(八陣)の一つに〈飛龍〉なるものがあり、戦術の攻撃法を示す〈九龍〉噴水法や満天星、武器の名称中にも〈九龍〉帯(弾薬帯)・〈九龍〉槍等がある(12)

(4)その他の様々な基準 
 流賊(土賊も含む)構成者のあだなには、他にどのような由来があるであろうか。まず挙げられるのは武勇の人で極悪非道の強烈な「悪」のイメージの強い魔物、例えば混世(魔)王等である。他には『水滸伝』中に登場する死刑執行人の蔡兄弟の弟、蔡慶のような例がある。彼は「一枝花」(はなかんざし)を常に頭に挿していたが、死刑囚の処刑に際して手向けに一枝の花を髪に挿すという役割を象徴しており、恐怖感を人々に与えた(13)
 人間離れした霊力のある神仏、例えば道教修行の成果を示す老〈神仙〉も挙げられる。次に〈金翅鳥〉を挙げる。もともと仏教用語で中国の口頭文化を通して大衆に人気があった。特に『西遊記』では孫悟空を打ち負かし、師匠の釈迦如来にもたてつく傍若無人の強さを持つ乱暴者として描かれる。複数の道教神の要素を持つ辟邪神・武財神の黒殺神(趙玄壇)等も人気があった。また、民間信仰・道教的宇宙観の星象を説明するため、28の星宿において本来動物とは関係ない亢金龍・奎木狼のような表象も作り出され、やがてこれらは擬人化され口頭伝承で大衆に広まっていった。『周礼』夏官の方相氏が起源で、悪鬼を捕らえる大男の険(顕)道神WEB東方〈十四〉も人気があった。
 歴史・伝説上の人物では、乱暴者だが何らかの仁義も有した黒旋風(李逵)や張飛、強い上に名誉や恩賞に惑わされず冷静に先を見通した浪子(燕青)、本来関羽と関係なかったが、後に関羽の子とされて伝承された武勇の人関索等に人気があった。歴史上の人物の中でも、時代の先を見通す「姦雄と英雄」の両側面をもって語り伝えられた曹操には反乱指導者の畏敬の念が感じられる。
 口頭伝承中では、大衆受けしていた強くてかっこいい『隋唐演義』の薛仁貴(白袍将軍、WEB東方〈十八〉が挙げられる。彼は唐高宗の時、白装束で高麗の蒋と華々しく戦ったが、明末の姓名不詳の賊首薛仁貴も常に白衣で、部下の旗甲はすべて白色で統一していたという。
 さらに啖呵を切るかっこ良い台詞も継承されている。処刑される直前に爬山虎、爬天王WEB東方〈七〉が各々発した「天がわしを滅ぼすのであって、わしが戦いに弱いのではない」という言は項羽の「烏江の句」からであった。
 なお民間における武劇は『東方』479号WEB東方〈三〉で紹介したように、20世紀でも延安府米脂県では祖先や天地鬼神の祭り等の機会に『水滸伝』・『西遊記』等の演目が講釈師に演じられ人気があった。やはり20世紀末の貴州の農村でも正月とお盆に演じられる村芝居(「地戯」)の出し物が「ほとんどすべて『三国志』・『隋唐演義』・『楊家将演義』・『説学全伝』などの歴史物、武劇ばかり」であったという(14)
 性格の特徴を表したものでは、とてもずるい人間を意味する「油利滑」、または身体的特徴を呼称した事例では占い師で、李自成軍の軍師となった宋献策の宋のちびを意味する愛称「宋矮子」、肉体的自慢をした者には力もちを意味する「靴底光」(15)等がある。出身民族を呼称した者には回民を意味する「老回回」、自身の職業(或いは持ち場)をあだなにした例に、料理人の万全の「万厨子」があり、「任喇嘛」と呼ばれた任守正は喇嘛僧出身であり、民族も蒙古又はチベット族であったかもしれない。

3、終わりに

 呼称としてのあだなに関する22回にわたる連載を通して、陝西西北部から始まった流賊の動向から、華北西北部の人々、長城沿いに展開した明軍兵士、さらには長江以北の文盲に近い多くの人々が有した歴史・社会認識や文化状況の一端を垣間見ることができた。
 流動時期の掌盤子組織内でのあだなによる呼称の意義をどうとらえるか(16)。かつて筆者は戦闘時期の生死一体の共同組織の意を重視し、家という擬制を通して掌盤子を家父長とする(「老爺」「爺」の呼称)も、構成員とはフラットな関係であり、食料の均等分配といった生存保障等の農民的絶対平均主義の側面を重視した。行動のための簡素化として、直属する軍事指揮系列の掌盤子・老掌家(大哨頭)・老管隊(哨頭・領哨)を呼称し、反乱参加以前の姓名でなくあだなを用いて敵方からカムフラージュし、組織内の対等構成員意識を共有したと考えた(17)
 岸本美緒の研究によると「老爺」「爺」という呼称について、「家族的親密さの語感をもつこと、そして同時に、血縁的な尊卑長幼の関係に伴う直接的な支配従属の感覚を伴っている」「(もともとは)家長に対して血縁的卑属が、また擬制的卑属としての奴僕のもつ従属感覚と結びついている」「家族内の秩序と抵触し得る」「呼ぶ側の従属性・依存性が特に強調される場合である」等の重要な指摘がある(18)。流動時期の生死一体の戦闘組織である掌盤子を「老爺」「爺」と呼称する問題、構成員が戦闘組織の指揮系統の職名およびあだなで呼称する問題、流動から政権樹立にいたる掌盤子組織の継承と変化等を含めて、三大掌盤子の李自成・張献忠・羅汝才を軸に再検討したいと考えている。

【註】

(1)本連載のあだなの概要を知るのに、王綱『明末農民軍名号考録』(四川省社会科学院出版社、1984)、謝蒼霖編著『綽号異称辞典』(江西高校出版社、1999)の〈農民起義首領称号〉を参照させていただいた(『東方』478号/WEB東方〈二〉、註(1))。

(2)福本勝清『中国革命を駆け抜けたアウトローたち 土匪と流氓の世界』(中央公論社、1998)第七章。『毛沢東文集』(中共中央文献研究室編、人民出版社、1993)第一巻。

(3)麻雀の祖といわれるカルタ(「葉子」)賭博「馬吊」は明終末期に大盛況となった。そのカルタには『水滸伝』中の人物像も描かれており、都市民衆はそうした人物像からも人物イメージを得ていたと考えられる。『東方』480号/WEB東方〈四〉及びWEB東方〈十九〉の註(3)を参照されたし。

(4)「射塌天」に意味の近い「射天」について触れておきたい。殷最後の王である紂王の三代前の王・いつは「無道」の行為が多く、その一つに「かわぶくろをつくり中に血を盛り、仰いでこれを射て〈天を射る〉と称した」(『史記』殷本記)。同じく『史記』微子世家も、戦国時代の暴虐な君主は自身の同様な行為を「天を射る」と称したことを伝える。このような支配者側の悪王が天に逆らった事例が後の講談や小説を通してどのように民衆に伝わったか定かではないが、流賊側がこの悪王に親近感をもったことも想定される。

(5)二階堂善弘『中国の信仰世界と道教 神・仏・仙人』(吉川弘文館、2024)「現代も生きる宗教文化 プロローグ」。

(6)神塚淑子『道教思想10講』(岩波書店、2020)、二階堂前註(5)。

(7)二階堂善弘『中国の神様 神仙人気者列伝』(平凡社、2002)。

(8)中野美代子『西遊記の秘密』(岩波書店、2003)。

(9)吉尾寛「初期流賊と反乱の発生―王嘉胤集団に即して―」(『明末の流賊反乱と地域社会』汲古書院、2001)。

(10)「兵部題為恭報誅勦渠魁等事」(『起義史料』五 公元一六三六〈明崇禎六年〉)。

(11)『東方』481号/WEB東方〈五〉WEB東方〈八〉。丸山宏「元帥」・「符」(坂出祥伸他編『道教事典』(平河出版社、1994)。

(12)何良俊選、陳秉才点注『陣紀注釈』(軍事科学出版社、1984)等。

(13)佐竹靖『梁山泊 水滸伝108人の豪傑たち』(中央公論社、1992)第五章。WEB東方〈九〉で紹介した一枝花と異なる興味深い指摘である。

(14)大木康『中国近世小説への招待 才子と佳人と豪傑と』(日本放送出版協会、2001)第三章。
 流賊の支配がおよばなかった江南での祭祀演劇における戯曲題材の分化について、田中一成『中国祭祀演劇研究』(東京大学出版会、1981)がある。同氏によると江南の祭祀演劇には、①郷居地主支配型、②城居地主型、③市場地商人、郷村貧下層民を主とする市場地演劇の三種がある。特に第③の社祭組織の担い手は商機を追う遊民や不逞無頼の徒(「遊手姦徒」)であった。ここで上演される戯曲は『水滸伝』『三国演義』『薛仁貴征東伝』『同征西伝』『説学全伝』『包公案』『隋唐演義』等のはい官野史から出た武劇が中心を占めていたという。

(15)山本斌『中国の民間伝承』(太平出版社、1975)Ⅳ英雄伝説。

(16)武装集団の指導者たちの大半が、自称他称のたくめいを持ち、民衆が互に綽名で呼び合う風習について、南北宋交替が中国綽名史上における画期との指摘がある(相田洋「〈紅巾〉と『水滸伝』」『中国中世の民衆文化 呪術・規範・反乱』中国書店、1994)。

(17)佐藤文俊「明末農民反乱と掌盤子」(『明末農民反乱の研究』研究出版、1985。第一章第一節)。

(18)岸本美緒「〈老爺〉と〈相公〉―呼称からみた地方社会の階層感覚―」(『風俗と時代感』明清史論集1 研文出版 2012)。

(さとう・ふみとし 元筑波大学)

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