あだなからみる明終末期の陝西流賊(二)

投稿者: | 2021年7月15日

あだなの分布と分類、個別集団と全体

佐藤 文俊

 

■あだなの分布と分類

 本稿では「あだな」と平仮名表記をしているが、史料上では本名(「真名」「名」「的名」)に対し、「渾名」「綽名」「混名」「妖名」「外号」「化名」「線名」等と非常に多くのあだなの漢字表記が散見する。
 明朝側の史料から採取したあだなの概数は350以上(1)で、さらに丹念に収集していけばどれくらいの数になるか想像もつかない。なにしろ第一回で紹介したように1631(崇禎四)年、紫金梁(王自用)を中心に会合した流賊は三六営、衆二〇万とある。各集団の正構成員のあだなだけでも膨大なものになろう(2)

 つぎに賊首たる多数のしょうばんに率いられた個々の集団内のあだなの分布の一端をみたい。但し政府の軍事情報の性格上、前回にも記した掌盤子組織の各指揮官(老管隊〈大嗩頭〉→小管隊〈嗩頭・領嗩〉→管隊)のあだなが多数を占める。下の表は1638(崇禎十一)年に投降した、流賊の各級幹部のあだなの一部である。崇禎十一年は、前回述べた「流賊史の時期区分」の第三期にあたり、明軍の集中攻撃で有力流賊が敗れ、張献忠、羅汝才等も投降し、李自成等を軸にした流賊が抵抗するのみとなった低調期である。
 事例1のけつかいは初期より活動してきた有力流賊集団で、ちん王高迎祥に直属した有力掌盤子であったが高迎祥の死後分裂した。その一部は金龍に率いられて闖将(李自成)に従っていたが、混乱の中で次々と明軍に投降した。投降者のあだな・本名・出身地が記録された数少ない例である。この集団の幹部は、ほぼすべてが延安府出身者であることがわかる。
 事例2は同年5月、陝西三水県山中での陝西巡撫孫伝庭に率いられた明軍との戦闘で敗れた二つの大掌盤子、混天星・米闖将等を中心にまとまって投降した際の状況である。
 流賊は明軍と郷村の戦力が強力な時には分散し、弱まれば合営する分・合を基本とした。各掌盤子は自立して行動し、その集団も明軍の攻勢が激しくなれば、小管隊(領嗩)と管隊の組み合わせで分散した。したがってあだなでの呼称は最小行動組織内で通用すればよく、流賊全体でのあだなの管理という側面は全くない。また、流賊の軍の階級間であだな自体の尊卑はなく、当然あだなの重複が想定される。下の二つの事例からも、飛龍・隨虎・跟虎・存孝・奎木狼の呼称が、二名に重複しているのがわかる。あだな跟虎の場合、同一掌盤子、米闖将内の幹部である領嗩と管隊にその名が見出される。

 

1638(崇禎十一)年 投降した流賊幹部のあだな

事例1  蠍子塊の残存部隊の投降(崇禎十一年四月)
(「兵科抄出陝西三辺総督洪承疇題本」『明清史料』乙・九)
投降日 掌盤子内階級 あだな(本名、出身〈延安府〉州県)
4月
18日
領哨(賊頭) 金龍(趙雲飛、宜川県)
老管隊8人 一頂盔(王南芳、延川県) 飛龍(正進菴、延川県)
慢虎(王艾、宜川県)   四虎(李成柤、葭州)
小黄鷹(干満川、清澗県) 黄巣(王黄柤、延川県)
存孝(李自法、呉堡)   三跳澗(張興、宜川県)
4月
19日
老管隊4人 巡山虎(華成光、清澗県) 穿山虎(高順、清澗県)
黒鷹(程光先、宜川県)  五虎(蔚守王行、綏徳州)
4月
21日
領哨 奎木狼(劉王封、清澗県) 就地飛(張応華、延川県)
四龍(王加伏、綏徳州)

 

事例2 大掌盤子(混天星、米闖将)の投降(崇禎十一年五月)
(孫伝庭「報三水捷功疏」『孫伝庭疏牘』巻二、浙江人民出版社、1983)
掌盤子と階級 あだな(本名)
(大)掌盤子 混天星(郭汝磐)
領哨4人 抓山虎(李玉傑)走山虎(郭応春)王龍(李望昇)普天飛(孫養教)
管隊23人 一条龍(張玉正)江虎(高政)過天飛(劉将)過天王(王守信)飛龍(李安)猛虎(楊秀)頭番山虎(田一秀)飛虎(張希雲)隨虎(李二)……以下略
(大)掌盤子 刑家・米闖将(米進善)
領哨5人 走口虎(景友倉) 跟虎(薛孟秋) 一盞燈(蘇孟秋) 三刀毛(王一節) ……あだな不明で略
管隊15人 捜山虎(楊守礼) 三要子(高自卓) 増虎(劉望軒) 存孝(馮守瑞) 笑虎(張士英) 宋虎(王景玉) 飛浪(高明) 跟虎(李可元) ……以下略
(小)掌盤子 火焰斑(高仁美)
領哨3人 隨虎(白養奇) 跑山虎(党丙友) 閻五(高宜普)
管隊14人 奎木狼(五小見) ……以下あだな不明で略

 

■あだなの継承

 明末流賊の流動期間は崇禎年代の17年間なので、あだなはほぼ一代限りの性格を持つといえるが、いくつかの例外現象も見られる。掌盤子の名跡の継承の場合である。回族出身の老回回の場合は以下の如くである。回族で延安府綏徳州出身の馬光玉率いる老回回集団は、初期より重要な流賊集団として活躍した。初代掌盤子の馬光玉は崇禎六年頃、明軍との戦いで死亡したため、老回回集団はその妻が継ぎ、後夫の馬守応が二代目老回回を名乗った。初代馬光玉を老回回(大)、二代馬守応を老回回(小)と区分する呼称もある。なお馬光玉の死については、明軍による「斬獲」説が主流であるが、病死説(『綏寇紀略』巻六)もある。
 闖王高迎祥が犠牲になった後、流賊の象徴としての闖王名跡は、身内の有力武将と周辺の掌盤子、李自成や張献忠等の勢力が拮抗混乱して決まらず、後日李自成が継承した(3)
 同一となるあだなを避けたと思われる例として、表の事例1の金龍(本名、趙雲飛)があげられる。彼は闖王高迎祥に直属した有力な幹部、大掌盤子蝎子塊の部下(大嗩頭)であったが、蝎子塊が明軍に殲滅・解体された後、自軍を率いて闖将李自成に従った。もともと「小闖将」と名乗っていたが、闖将李自成をおもんぱかって、金龍に「改号」したのではないかと思われる。

 以後記述にあたって、多数のあだなを便宜的に分類するが、項目によっては当然取り上げる視角で、分類項目間の重複は避けられない。そうした問題点を含みつつ、各項目から選択したいくつかのあだなについて触れていくことにしたい。項目を箇条書きに列挙すると以下のごとくなる。
 “闖”をつけたあだな
 “龍”をつけたあだな
 “虎”をつけたあだな
 その他の動物名をつけたあだな(少数の植物名も含む)
 宇宙:“天”“星”等、及び自然現象を含んだあだな
 現世:“世”“地”等、地上に関するものを含んだあだな
 神仏・民間信仰等に関するものを含んだあだな
 歴史上、伝承上の人名・呼称をつけたあだな
 分類不詳のあだな 等

 次回、明終末期における大衆の思想・文化状況を概観したうえで、あだなの考察に入りたい。

【註】

(1)350以上とする根拠について。王綱『明末農民軍名号考録』(四川省社会科学院出版社、1984)は明末の流賊のあだなと本名を収集し、出典を明記した書である。索引では本名とあだなが混在して633項目あり、単純に二つに割るとあだなは317となる。最も一人であだなが二つ以上の者もあり正確ではなく、あくまでも目安である。謝蒼霖編著『綽号異称辞典』(江西高校出版社、1999)中の「農民起義首領称号」内の明末流賊関係の項目によると、あだなの総数は312を数える。これら以外に筆者の収集した50弱を加えた。他に明末流賊集団のあだなをまとめたものには「附録三農民軍将領混名一覧表」(柳義南『李自成紀年附考』中華書局、1983)等がある。

(2)こうした流賊の数の多さの表現は、随所に見られる。一例を挙げる。「(崇禎九年六月)馬賊数万、……歩賊約四万、……係闖塌天、曹操、九条龍、馬超、闖王、順天王、賽曹操、混天星等営之賊。」(「兵部為飛報荊門大捷事」鄭天挺・孫鉞等編『明末農民起義史料』中華書局、1952。以下『起義史料』と略称)。

(3)佐藤文俊『明末農民反乱の研究』第一章一節、研文出版、1985。

(さとう・ふみとし 元筑波大学)

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