あだなからみる明終末期の陝西流賊(三)

投稿者: | 2021年7月15日

あだなの具体的な考察の前に

佐藤 文俊

 

■大衆の思想・文化状況の一端

 あだなの具体的考察にはいる前に、陝西から始まり展開された流賊の構成員が名乗った或いは名乗らされたあだなの背景を理解するためには、この地域における大衆の思想・文化状況の一端を知る必要がある。明代、一般大衆の識字率は低く、文盲に近い。陝西省の北部地域は半砂漠の畑作地帯で、最も生産力の低い軍・民雑居の地域であった。そうした彼らのあだなの選択基準となる文化・思想の日常を知るために、まず明代までのこうした問題に関する研究の一端を見ておきたい。
 文字を媒介としない口頭伝承を考える場合、“視る”“聞く”“歌う”“話す”とこれらが実現される場が重要となる。これらの要素が発揮されるのは、古来より自然を神格化した神を祀る祭祀、民間信仰の場であった。長い時間を経てこれが「説唱」(古くは講史といい説話に含まれる。講談)と「演劇」に発展する。北宋の首都・汴京(開封)、および金に圧迫され南遷した首都・臨安(杭州)は政治都市であるとともに商業活動を反映した経済都市でもあり、定住者(商工業者)以外に多くの人々が往来した。盛り場(「瓦市」)には常設された娯楽施設(「勾欄」)があり、様々な芸能が専門の芸能人によって演じられ、人気を博した。小唄・人形芝居・影絵芝居・サーカス・相撲等様々な演芸の中で中心をなしたのは「説話」と「演劇」であった。

 「説話」には講史と小説等四種がある。講史には歴史物・軍談物があり、章回小説のスタイルで完結まで長期にわたって語られた。一方、小説は一日で語り終わる読み切り講談であった。これらは講釈師(「説話人」)が長期にわたり聴衆の反応を見ながら修正を加えて、口頭で伝承されてきた。「演劇」は(唱、科、白)を伴う一種の歌劇ともいえ、説話と同様に口頭で、水滸戯(元曲)等の雑劇として伝承された。
 これらは次の元代にも継承されたが、ある時期から明初にかけて民間のテキストとして、全頁挿絵いりの台本の文字化がなされるようになった(『全相平話』)。内容は大衆好みの荒っぽい内容がめだった。演劇における台本の文字化も同様であった。明末の嘉靖(1522―1566)以降、科挙一辺倒の知識人(読書人)の中から話しことばで記述する小説(近世白話小説)を専門とする人々が現れた。元来盛り場育ちの講史・小説、演劇は文学ジャンルで最も価値が低いとされてきたが、これらの読書人作家によって高級化・体系化(物語文学化)がなされ、読書人層向けの作品に仕上げられた。明末、特に万暦時代(1573―1615)以降はこうした読書人作家の生活が成り立つ販路(市場)があり、出版技術も進歩していた。だがこのような作品はもともと低級の部門であったため、複数の作者で分担・執筆され(書会)、実名が明記されることは少なく、売れれば同一名が各処で使用された。こうして講史から『三国志演義』等が、説教から『西遊記』等が、小説から『水滸伝』等が、さらに『隋唐演義』、『楊家将演義』等が執筆・出版された(1)
 なお民衆が得ていたイメージはこうした講史・演劇を軸に、ここから派生した役者の服装・しぐさ、或いは南宋末の画家龔聖与による盗賊宋江等36人の肖像画と賛、元から明初に製作された絵入り本の人物像、明中期に現れていた『水滸伝』の人物を描いた賭博用のカルタ(陸容『菽園雑記』)等様々な媒体があるが、ここではこれ以上触れない。
 本稿のような大衆文化の一端を知るには、『封神演義』の役割の理解も欠かせない。すでに二階堂善弘により明らかにされているとおり、文学作品としては二流で登場人物の配置も歴史的に見ればでたらめな場合が多いが、しかし宗教文化としては非常に重要で、民間の信仰や哲学感・宇宙感などを知るにはまたとない作品という(2)
 以上、流賊参加者のあだなの由来を考える前提の一端について触れてきた。その中でもあだなの背景にある人物等の状況を知るのに筆者が頻繁に参照した小説(翻訳本)は注のごとく(3)で、以後特にこれらの小説を引用する場合は、翻訳者の名を掲げない。

■陝西延安府米脂県の文化状況の一端

 次に本稿の主舞台である陝西の文化状況の一端に触れておこう。最終的に明終末期の流賊を代表したのはいずれも延安府出身の李自成(米脂県)と張献忠県)であった。米脂県では中華人民共和国成立後も、伝統的説書と村戯(村芝居)が大衆の娯楽の中心として継続していた。説書(うたいもの文学)は盲目の芸人(講釈師)が三弦を弾きながら歌い語ったが、その伝統曲目の多くは宋元話本と明清小説が基本で、『水滸伝』・『西遊記』等によった。これらの「唱詞」は先輩芸人から伝授され、不断に大衆受けする内容が加えられ、祖先・天地鬼神の祭り、誕生日・新年の祝い等、あらゆる機会に上演され、僻地・農村における文盲の人々の一種の文化伝播の手段であった(4)。米脂県の各村にある古廟では縁日に、芝居の一座が招請され三日連続で上演され市もたった。こうした村戯も説書も農民大衆にとって文化伝播の重要な機会であり、前近代ではより一層重要であった。

 

盲目の講釈師による説書と聴衆(黄復主編『闖王故郷行』陝西旅游出版社、2000)。

 米脂県の現代における日常生活のおう(插秧〈苗を植え付ける〉歌。もともと陝西・山西・河北省やチャハル等の豊年祭りや農民に親しまれていた単純な歌と踊り)の中にもこうした文化伝播の様子がうかがえる。秧歌は古代の祭祀や軍の戦勝祝い、農民の豊作祝いに起源があるといわれる。祭祀の中で秧歌歌手は神の役を演じ、手に持つ“傘頭”は太陽、これに従う28名の歌手は二十八星宿を意味する宇宙観を表す。またある地方では“傘頭”を人々が最も信奉・崇拝する道教の神(「黒虎霊官」)や関羽(“関公”)のシンボルとした
 なお陝西北部は古代統一国家成立以来、非漢民族との闘いの前線に位置する場合が多く、明代でも対モンゴルに備える万里の長城沿いの九辺鎮の内、四辺鎮が置かれ、軍・民雑居の状態であった。そのため農民の日常生活にも軍人の生活の影響が看取される。先の秧歌の動きの種類に、槍をあやつる兵団の操練の様子をあらわした“覇王鞭”、軍隊の戦鼓が淵源の“腰鼓”等がある(5)

 

秧歌。右手の人物が手で回しているのが傘頭(同上)。

【註】

(1)以上の記述の主要な参考文献。大木康『中国近世小説への招待──才子と佳人と豪傑と』(日本放送出版協会、2001)、同『馮夢龍『山歌』の研究 中国明代の通俗歌謡』(勁草書房、2003)序章。高島俊男「講釈から芝居まで」(『水滸伝の世界』大修館書店、1987)、佐竹靖彦『梁山泊 水滸伝・108人の豪傑たち』(中央公論社、1992)、澤田瑞穂『中国の庶民文藝──歌謡・説唱・演劇』(東方書店、1986)等。

(2)二階堂善弘『封神演義の世界──中国の戦う神々』(大修館書店、1998)。なお『封神演義』の翻訳は、二階堂善弘監訳、山下一夫・中塚亮・二ノ宮聡訳『全訳 封神演義』1~4(勉誠出版、2017・2018)を使用する。

(3)中野美代子訳『西遊記』10冊(岩波書店、2005)。井波律子訳『水滸伝』5冊(百回本。講談社学術文庫、2017)、駒田信二訳『水滸伝』上下(百二十回本。平凡社、第三版1964、初版1961)。なお『水滸伝』に描かれる人物の概要と正確な登場箇所の検索は、高島俊男『水滸伝人物事典』(講談社、1999)を参照した。

(4)1930年代、劉志丹等陝西の共産党員は陝甘省境地帯に根拠地づくりのため、窮民・飢民の組織化をおこなった。その一手段として、劉志丹が作詞、説書の講釈師・朱子清が三弦琴を手に村々を回り歌った。その歌の一つに「李闖王、蜂起して北京の玉座に坐る」があった(福本勝清『中国革命を駆け抜けたアウトローたち 土匪と流氓の世界』中央公論社、1998)。

(5)黄復主編『闖王故郷行』(陝西旅游出版社、2000)。

(さとう・ふみとし 元筑波大学)

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