あだなからみる明終末期の陝西流賊(十八)

投稿者: | 2024年8月15日

歴史上、伝承上の人名をつけたあだな・その3

佐藤 文俊

事例研究
B 薛仁貴をあだなとした事例
■薛仁貴のイメージ
 薛仁貴は唐初(614-683)の人で、白袍将軍と呼ばれ、『旧唐書』や『新唐書』にも彼の伝がある。『新唐書』巻111の伝によると、絳州龍門(今の山西河津)の人で「わかきとき貧にして賤、田を以って業となす」とあるように貧農の生活をおくっていた。当時唐の高宗は朝鮮や契丹征伐に軍人を募集していたが、彼も妻の勧めで応募し高麗との闘いで目覚ましい活躍をした。「仁貴は驍悍に恃み、奇功を立てんと欲し、乃ち白衣を著して自ら標顕し、戟を持し腰に両弓をれ、・・・」白衣の装束で縦横無尽に振る舞うさまが高所から望見していた高宗の目にとまり側近に「先鋒の白衣の者は誰か」と尋ね、それが薛仁貴とわかると召見した。以後朝鮮から中央アジアにかけての非漢民族との闘いの戦果で武将として出世を重ねる。
 この白袍将軍、薛仁貴の征遼故事は、後代の講談や雑劇で大衆受けする恰好の題材となった。宋・元代、歴史物の講談テキストである講史話本に取り入られ、明初には『薛仁貴征遼事略』(明『文淵閣書目』巻6、雑史類)としてまとめられている。1976年に発見された明中期の成化年代刊本『説唱詞話』13種の中にも、薛仁貴に関する2種の話本が含まれている。雑劇の方面でも薛仁貴ものは南宋の杭州の繁栄を伝える『武林旧事』巻10でも伝えられ、元では「薛仁貴衣絹還郷」等数種が盛んに演じられ明に継承された(1)

事例(1)氏名不詳
 崇禎6(1633)年5月、右簽都御史で延綏巡撫となった陳奇瑜から派遣された遊撃将軍常懐徳に斬られた薛仁貴がいる(『明史』巻260、陳奇瑜伝)

事例(2)氏名不詳
 『明季北略』巻12〈左良玉鄢陵之捷〉にある事例である。同書の著者、計六奇(江蘇省無錫県の人)が崇禎末の当時河南に居住し直接見聞きした友人から、後に聞いた内容である。
 崇禎9(1636)年秋、流賊の象徴的存在、闖王(高迎祥)等の主力は陝西へ移動し、高迎祥は明軍との戦いで犠牲となった。一方老回回等は河南中部で勢力を伸長させ、郷野を掠奪したという。この集団に含まれる賊首の一人にあだな薛仁貴がいた。当時河南の流賊に対抗する明軍の総指揮官は総兵左良玉で、丁度病が癒えて兵三千を率い開封府鄢陵県に出動して流賊と対峙していた。この時賊の諜報者を捕らえて尋問し、次のような流賊の習慣に関する情報を得た。
 流賊は「連営七十里」のごとく、大小の賊首が広範囲に分かれて駐屯するが、小賊頭は夜間に必ず大賊頭にその日の戦果、つまり日中に殺した兵・民、掠奪した子女・金幣がどれくらいかを報告に行き、大賊頭は営門を開き検納する。漆黒の闇の中、大賊頭の所在を知らせる方法は火の燃やし方にあった。当地方で収獲した豆(「叔豆」)のもみ殻を各野営地で燃やしたが、その焔の大小で大賊頭の所在を知る。又通常は赤白二旗で連絡しあう。
 この情報を得た左良玉は自身の営に、旗幟を張り広く営門を開き、武装した兵士を営内に潜ませ、豆草を盛大に燃やした。大賊頭駐屯地と思い献納を急いだ28人の小賊頭からの納品を審査・受納し終わった左良玉の合図で、隠れていた兵士が各賊頭を斬り、それぞれの営を襲って壊滅させた。この事件であだな薛仁貴に関するエピソ-ドが登場する。以下意訳して紹介してみたい。

 時に一婦人を獲た。美しく色っぽい。首に金珠がまかれ甚だ目立つ。服は白色のうす絹で靴は白いあや絹である。左良玉は「おまえはどこの人か」と問うと婦人は「山西平陽の人」と答えた。左良玉が「いくつだ」と問うと「32才」と答えた。また「夫は何といい、今どこにいるか」の問いに「夫は薛仁貴といい、すでに練司地方で死んだ。夫はいつも白衣で銀冑かぶとを被り、部下の旗甲はすべて白色で、遠方から見ると雲のようであったので薛仁貴と号した。驍勇で善戦したので軍中では白袍将軍と呼んだ」とこたえた。良玉の尋問が終わると引き出して斬った。肌の色は玉のようであったが、尻の下が黒く堅くなっていたのは乗馬歴3年のためであろう。兵等は彼女の珠宝を分け、その腹をき、心肺を炙って食した。

 彼女の夫は直近の戦いで死亡したようで、その後を継いで集団を率いていたと思われる。薛仁貴をあだなとした夫の、驍勇で善戦する白袍将軍のイメージが、雑劇・講談、『隋唐演義』等で語り継がれてきた人口に膾炙する内容だったからといえよう。

事例(3)焦得
 延安府鄜州の人。崇禎9(1636)年、流賊のリーダーであった闖王(高迎祥)が犠牲になった後、彼の側近の掌盤子であった蠍子塊集団は分裂し、他の掌盤子と連営する者や、明軍に投降する者もいた。蠍子塊の頭目の一人であった薛仁貴(焦徳)は、闖将(李自成)と行動を共に(「合営」)していたが、崇禎11年4月、先に投降した流賊の頭目巡山虎(本名、華成光。延安府清澗県の人)や明軍の招安使等の説得で投降した(2)
 以上薛仁貴をあだなとした三事例であるが、(2)の事例からも驍勇の白袍将軍のイメージは講談や雑劇等の伝承を通して人気があったことがわかる。

事例研究
C 『水滸伝』関連のあだな
■明終末期、『水滸伝』の政治・社会への浸透
 前述したように、流賊があだなとした人名は『水滸伝』中の人物が多い(3)。今日見られる小説『水滸伝』は明の嘉靖(1522~1566)の初めかその少し前に完成したと考えられる(4)
 『水滸伝』は、迫られて108人が順次、梁山泊に集結する盗賊の物語から、宋江念願の宋朝の招案を受けて官軍として活躍する物語である。遼国討伐に成功し、さらに多くの犠牲を伴った方臘討伐を扱った100回本がまず現れ、ついで河北の田虎、淮西の王慶討伐を加えた120回本が続く。
 『水滸伝』の原型の一つ『大宋宣和遺事』は講談師の種本として伝えられたといわれる。こうした小説はずっと知識層から軽んじられてきたが、明末近くなって主に科挙試をあきらめた知識人層により加筆・整理され読み応えのある書に変えられた。さらに出版技術の進歩により文章のみの文繁本以外に絵入り本である文簡本、絵入り紙牌等が現れ、読者層の拡大に伴い、市場も拡大した。
 このような現象を作り出した一つの要因に李卓吾(1527~1602)の存在がある。彼は「童心」(欲望を含んだ生身の人間の赤裸々な心)の立場から明末の小説『水滸伝』を高く評価した。賊書を評価するような李卓吾の言説は、儒教的徳目を社会秩序の根底に考える儒者層から反撃され、明朝からも禁書とされた。天啓5(1625)年には四川道御史の王雅量の上奏で、李卓吾の書物は二度目の禁書に指定されるも、「而るに士大夫、多く其の書を喜び往々収蔵して今に至るも滅びず」(顧炎武『日知録』上)のような状況で再度の禁止令も効き目がなかった(5)
 李卓吾が評価し注釈した『水滸伝』は明末の社会に浸透していくが、こうした傾向に対する反発も激化した。彼は「忠義水滸伝序」(『焚書』巻3)で宋江等108人の盗賊集団を「忠義の烈」と評価し、特に宋江は梁山泊にいる頃から心は朝廷にあり、官軍となってからは大きな功績をあげ、最後は奸臣の策謀による毒酒をあおいで死についたのは「忠義の烈」と評価した(6)
 これに対し士大夫の主流は社会秩序を乱す盗賊首の宋江及びその仲間を評価するのは許せないときびしく反論した。しかしこうした状況にもかかわらず李卓吾評と銘打った『水滸伝』の売れ行きは良く、各層に小説『水滸伝』は浸透していった。士大夫層にも「縉紳文人に到るも亦間ひそかにこれを好む者有り」と伝える(胡応麟『少室山房筆叢』巻41)
 さらに注目すべきは、禁書指定以前のことであるが、王朝の権力機関の一つである都察院(監察機関)の出版書籍中にも『三国志』とともにこの『水滸伝』が含まれており、万暦帝もこれを好んで読んだという(7)
 万暦前半の政治をリードした宰相張居正が万暦10(1582)年に死去して以降、親政時期は皇帝自身の私欲の実現が全面に出て政治が混乱し、次の光宗は在位一年未満で死去し、次に即位した天啓帝は政治に関心がなく、帝に代わって宦官魏忠賢と官僚の一部が結託し、政治の独裁化が強化された。こうした状況に対し伝統的な皇帝支配の復帰を目指したのが、東林派の官僚達であった。魏忠賢時代はその対立がピークに達し、魏忠賢派は東林派の官僚の肉体的抹殺を含む徹底的排除を実行した。 
 魏忠賢を補佐する官僚達は起用すべき自派の人名簿(首輔の顧秉謙『縉紳便覧』等)、排除すべき様々な東林派人士の名簿(吏部尚書を務めた王紹徽『東林点将録』等)を作成し魏忠賢に提出した。特に後者の『東林点将録』は本稿との関係で注目に値する。魏忠賢は無頼出身で文盲だったが記憶力が良く、世間一般に流通していた小説『水滸伝』に関心を有していた。そこに目を付けた王紹徽は魏忠賢の理解を容易にし、東林派弾圧をスムーズに行うため108人の東林党人を選び、各人を梁山泊の108人にあてはめ、しかも軍団編成内の役割も明記した。例えば魏忠賢批判の先頭にたって「魏忠賢の二十四大罪を劾する疏」等を提出して厳しく批判した楊漣を『水滸伝』の関勝に、軍団内の役割を同書の「馬軍の五虎将五員の一位」(戦闘部隊の最高位)に比定した。宮廷内で宦官等の武装集団を組織し、軍事訓練を熱心に指揮していた魏忠賢にとってこうした比定は大変理解しやすかったと思われる。事実王紹徽が『東林点将録』を提出し説明すると、満面に喜びを表し「真に吾が魏家の珍品である」と言ったという(8)

■動乱状況と『水滸伝』禁書の要請

 天啓(1621~1627)年間は満洲族の侵攻下、中央政治の混乱以外に地方でも様々な反乱が勃発した。『水滸伝』の舞台となった山東省の梁山周辺でも、白蓮教系の聞香教の幹部徐鴻儒の指揮する反乱が起こった。
 崇禎帝の即位によって、宦官魏忠賢政治は終止符が打たれたものの、満洲族の侵攻が強化され、連続する天災飢饉、徴税の強化等で生産現場を離脱する小農民、任務を離脱した兵士、失業した駅卒等が発生した。陝西から始まった流賊は華北から華中へ流動し、各地に地方反乱集団が誕生した。山東でも各地に大小の地方反乱集団(土賊・土寇)が跋扈するようになった。
 梁山周辺でも複数の土賊が盤踞した。特に本稿との関係でいえば、崇禎14(1641)から15年にかけての李青山の乱が注目される。李青山は当該地域の出身で犬の屠殺を職とする「屠人」であったといわれる。兗州府西部はこの時期破産に瀕した里甲制下の農民が土賊集団を構成しており、李青山集団もその中の有力土賊の一つであった。明朝はこの山東の反乱集団を掃討する他に、賊をもって賊を制する作戦も取り入れて李青山等に投降を呼びかけた。李青山はこれに応じ明軍とともに対立する他の土賊を倒し梁山周辺の支配を確実にした。その後、崇禎14年11月の再反乱後、東平州や鄆城県等を落とし漕運に大打撃を与えた(9)
 左懋第(1601~1645)は、山東登州府萊陽県の地主の家に生まれた。崇禎4(1631)年進士に合格し翌5年、流賊・土賊の発生で混乱するも陝西西安府の韓城県知県として赴任した。文官でありながら兵力を組織して明軍と共に李自成を含む流賊と戦い、さらに虎の害に直面したことはすでに触れた本連載第六回参照)。この李青山の乱の時期、彼は昇進して中央で刑科給仕中の要職にあったため、山東の李青山の乱鎮圧と農村秩序再建に危機意識をもって以下のような積極的な発言をした。
 明代梁山は、すでに『水滸伝』の背景となるような宋代の地理的条件から大きく変貌し(10)、梁山泊といわれるような湖沼地帯はすでになくなっていた。左懋第自身も漕運の会通河を何度も舟で往復したが、梁山は単なる小高い丘にすぎないことを確認している。それにもかかわらず梁山が、元以後も大小の反乱拠点となっている主な要因は、元以降、特に明代において経済の発展した江南の物資を北京に輸送する漕運河である会通河が重視されていたためである。梁山近くの会通河では、「河流の落差が大きいために水量調節の必要がある所」に閘が設けられ、水面が同じ高さになるまで船は梁山側で待機せねばならなかった。徐鴻儒も李青山等も、この近辺の運河を制し漕運関係をはじめとした船から多くの利益をあげた。明にとっては流通経路を抑えられることになったのである。
 左懋第は李青山を始めとした梁山を拠点とする諸反乱は、『水滸伝』を行動の指針としていると考えた。もともと下層民(「隷・傭・瞽・工」)の好む小説であったのが、李贄(李卓吾)がこの書を推奨した結果広く人々に好まれ流通するようになり、「世害」となった。「街市小民」は宋江等の賊名が画かれた紙牌を博打の手段となし、破産するまで財物を賭け、盗賊化した。
 左懋第はこうした状況を作り出す『水滸伝』を、妖書を所持するという罪と同等に禁止して欲しいと要請する。書店での販売禁止、士大夫・小民の家での所持禁止、紙牌の売買と使用禁止等を含む。そうして周敦頤や朱子等の道学の書で「一世の人心」を正す。梁山の名を変え石に刻んで山頂に置き、人々に賊となってはならないとの認識を持たせるという内容であった。また同時期、兵部からも『水滸伝』を禁書とすべしとの上奏がなされた。こうして崇禎15年6月、上奏は裁可され、『水滸伝』は禁書とされた。しかし民間における実態は、明朝の統治がますます悪化するのに比例して、『水滸伝』禁書は無きに等しかった(11)
 明朝が倒壊する3年前の崇禎14(1641)年、金聖嘆『水滸伝』70回本が出版された。金聖嘆(万暦35〈1607〉又は38年~順治18〈1661〉年)は蘇州の人、官途に就かず文学批評家として活動した。彼は宋江以下の梁山泊盗賊集団が官軍となって遼・方臘討伐を行う100回本、これに田虎・王慶討伐を加える120回本の設定を許せないとして、招安を受ける前の梁山泊に盗賊集団が結集したところで打ち切り、その首領である宋江を大悪党として書き換えた。この『水滸伝』の大胆な腰斬は商業的に大成功し、100回本、120回本は市場から姿を消した(12)
 この崇禎14年以降離合集散を繰り返してきた流賊は、次第に明軍と対等以上に戦うことが多くなり、李自成、張献忠の勢力の二極化する方向で統一されつつあった。金聖嘆は『水滸伝』を賊の書として強調するつもりで70回以降を腰斬した。一般大衆は逆に、梁山泊に結集した108人は各人が宋朝の権力や不正と戦って梁山に結集せざるを得なくなった正義の士ととらえるようになったと思われる。人々は紙牌を用いた馬吊の勝負を通じて、明の倒潰の危機状況を緊張感をもって注視していた(『東方』480号、本連載第四回参照)


(その4に続く)

【註】

(1)「薛仁貴征遼事略」(『中国古代小説百科全書』〈中国大百科全書出版社〉1998)。徐子方「賢達婦龍門隠秀」(『明雑劇研究』文津出版社、1988)。

(2)「兵科抄出陝西三辺総督洪承疇題本」(『明清史料』乙・九)、『東方』478号:本連載第二回参照。

(3)『水滸伝』中に登場するあだなの分析の研究には以下のような論文がある。王利器「《水滸》英雄的綽号」(『新建設』1954、4-5合併号)、楊紹溥「《水滸》与明代農民起義」(『水滸研究論文集』中華書局、1994)、陳舜臣『水滸外号考』(『九点煙記――中国史十八景』講談社、1980)、高島俊男「豪傑たちのアダナ」(『水滸伝の世界』大修館書店、1987)等。

(4)以下の記述は〈高島俊男『水滸伝の世界』大修館書店、1987〉の成果によるところが多い。

(5)溝口雄三『李卓吾 正道を歩む異端』集英社、1985。

(6)溝口前注5。

(7)陳松柏『水滸伝源流考論』(人民文学出版社、2006)下編第一。

(8)小野和子『明季党社考-東林党と復社-』(同朋舎、1996)第六章。文秉『先発志始』巻上。

(9)詳細は拙著『明末農民反乱の研究』(研文出版、1985)第2章第1節を参照されたい。

(10)宮崎市定「水滸伝―虚構のなかの史実―」第九章 宋江に続く人々(『宮崎市定全集』12 水滸伝 岩波書店、1992)。

(11)左懋第は崇禎15(1642)年4月、李青山の乱に関して四本の上奏をしている(『明清史料』乙・十)。『水滸伝』との関連については、その第二本「兵科抄出刑科 右給事中左懋第題本」に、『水滸伝』の禁書こそ盗賊を治めるための重要な施策と再度述べる(「謹題為再陳息盗要着事」)。

(12)高島俊男「十五 水滸伝をチョン切った男」(『水滸伝の世界』大修館書店、1987)。

(さとう・ふみとし 元筑波大学)

掲載記事の無断転載をお断りいたします。

LINEで送る
Pocket