あだなからみる明終末期の陝西流賊(六)

投稿者: | 2021年9月15日
“虎”字をつけたあだな・上

佐藤 文俊

 

■中国と虎

 虎はライオン・豹とともに食肉目ネコ科に属す。その生息数は減少し続け、2010年の数字であるが、推定では世界でかろうじて3000頭である(2010.11.18、朝日新聞・夕刊)。本稿の対象となる虎はアモイ虎(華南虎)である。中国の有史以来、虎は山獣の王であり、人とは緊張関係にあった。この長い虎との交渉史にあって、人は虎をどのように解釈してきたのだろうか。人に危害を加える単なる猛獣を超えた畏怖の念と一種の霊性または独特の愛着をもっていた。こうした交渉史の豊富な事例紹介と分類は、澤田瑞穂『中国動物譚』(弘文堂、1978)、西村康彦『天怪地奇の中国』(新潮社、1994)等でなされている。アモイ虎について上田信『トラが語る中国史──エコロジカル・ヒストリーの可能性』(山川出版社、2002)は、生態環境史(人口の歴史、開発の歴史、自然認識の歴史)の方法を駆使して、人の開発により生活の場である常緑広葉樹林が減少した結果、虎が人の生活領域に侵入し人との接触が多くなり、人を襲いまたは人が虎を捕獲する機会が増加し、ついにはアモイ虎の激減につながった、という。また上田は、虎と人の交渉史から伝えられた様々な問題につき歴史的解釈を試みている。

■中国史における人と虎

 中国の長い歴史の中で、山野で生活する木こり・農民等は虎の害から身を護るために守護神としての山神や土地神を祀る。この問題は澤田前掲書所収の「山の神と虎」で論じられている。
 虎は山の神そのものとする考え方があり、これは山中の神霊への畏怖、おそるべき動物を山神とする古信仰に基づき、山王たる虎に一種の霊性を認める。廟に虎を祀り、守護神としての山神とする。これとは別に虎を山の子とし、山神または土地神の管理下にあると考える流れもある。次項の駆虎文のところで触れる。
 20世紀前半河北省昌黎県の調査事例であるが、ここの土地廟には土地神、農神、山神等が祀られており、山神は「狼・豹・のろ」を防ぐ神と考えられていたという(1)。同県は北戴河と同様に渤海に沿う丘陵地帯でかつて虎が生息していたかは定かでないが、虎の生息地帯の土地神、山神には虎の駆除が期待されていたであろう。
 人と虎の長い敵対関係の歴史のなかでは、錯綜した興味深い話が語り伝えられてきた。中国史上では龍は人に化さないが、人と虎は相互変身する変身譚が伝えられる。中国での変身譚多数派は動物から人間への変身で(虎変身譚)、これと逆の人間が虎に変身する事例(化虎譚)も伝えられている(2)。後者では、中島敦により人間が虎に変身する唐代の伝承を題材とした短編小説『山月記』が有名である。
 虎が人を用心深く大胆に襲う理由を、人々はいろいろと解釈した。かねて天に指定され殺される運命にあるとする定命論の他、虎に殺された人の霊が虎に次の人を襲う手引きをするという考えもあり、この霊を「虎倀」「倀鬼」といった。あるいは守護神たる土地神が次に襲う人を指定・許可すると考え、その土地神に憤慨する話も多い。
 人と虎の交渉事例中には、虎に襲われるも殺されなかった場合も生じる。これを人間の側でいろいろと解釈する。人の願いを入れて殺さない例、棘を抜いてあげた恩返し等、義虎としてその「道義的な行為」(3)を称賛する。あるいは虎が男女の仲立ちをする虎媒譚等も伝えられている。
 いずれにしろ強い虎を退治するのは、武力における人の権威の象徴であった。河南省安陽市で発掘された墓が曹操の高陵であるとの特定につながったのは、埋葬されていた石碑「魏の武王(曹操)愛用の虎をも倒す大戟」であるが、武の権威の象徴として虎をも倒すとの表現に注目したい。その他よく知られているのが、素手で格闘し虎を倒した『水滸伝』中の豪傑武松である。

■流賊発生・展開地域と虎

 アモイ虎(華南虎)の活動は中国東南地域が主であるが、秦嶺山脈以南の陝西南部・森林地域の哺乳類はほとんどが華南西南区と同じで、明清時代には虎が生息していた(4)。秦嶺以北でも清の康煕十二年編纂の『延綏鎮志』巻二獣属の項目には「虎・豹」等の記述が見られる。特に本稿の対象地域における明終末期の虎の害に関する顕著な事例として、流賊と虎、双方と戦った知県左懋第をあげる。
 ぼうだい(山東萊陽県の人、1601~1645)は崇禎四年進士合格後、人材不足の遠方の陝西の県知事として西安府韓城県に派遣される。1632(崇禎五)年末に赴任して以後、退任する1636年まで大車輪の活躍をする。韓城県は延安府に近接した西安府の東北に位置し、黄河沿いにあった。崇禎三年頃から明軍に追われた流賊の一部は黄河を渡河し山西に入り、また陝西に戻るという往来を繰り返した。西北の延安府との境には伝統的に賊の巣窟であった黄龍山があり、流賊の往来の通路でもあった。
 崇禎三年から六年にかけて流賊は韓城県城内への侵入の機会をうかがい、周辺の主な山地は流賊に占拠されていた。特に黄龍山に連なる西北の草木豊かな丘陵地帯には農夫の足跡がなくなり、流賊と虎が山中を分けて住む状況が作り出された。左懋第は文官であったが自ら義兵を組織し、明軍の支援を受けて山頂にいる流賊を激しく攻撃したため、闖将(李自成)・満天星等の大頭目が逃げた後、残っていた流賊全員の生存を許したので山中に人が住むようになった。
 とりあえず一時的に流賊を駆逐したものの、虎が時々出没し人を害する事態には改善が見られず対応を迫られた。力で駆除する準備とともに陰界の山神(土地神)に叱責気味の駆虎文たる「山神を祭り、虎をらう文」を奏した。
 左懋第は祈願文中で、山神は「霊」力があるのだから、虎を異境に追い出すか、命じて人を襲わないようにさせるべきだ。そうでなければ神ではなくただの物だ。やってくれないなら、知県の自分が怒りをもって流賊だけでなく虎と争って人民を守るとまでいう。最後に、山神は上帝の命を奉じて虎を「陰」に伏せしめ、県令の自分は県の力を結集して「陽」界で駆逐する。流賊は情をもって赦すこともあるが、虎は必ず殲滅すると述べる。もし山神が虎を制するなら、自分が人民を率いて山神に感謝の意として供物(「血食」)を捧げたいと結ぶ(左懋第『左忠貞公集』巻二)
 なお、駆虎文の背景についていささか触れたい。儒教では天の最高神の天帝を昊天上帝と呼び、北宋の頃からさらなる権威付けのために道教最高神の玉帝を取り入れ、昊天玉皇上帝と呼称するようになり、国家的祭祀としての郊祀が盛大になった。明清時代、陽界(現世)に平行して陰界(霊的世界)が整備された体系では、上帝(玉皇)―城隍神―土地神(村)の序列となり、神々は玉帝から任命されるポストであるとのイメージが定着する。民間信仰・道教的世界観で秩序付けられたといえよう。皇帝から任命された地方長官は陽界と陰界双方に仕える任務が生じた(前掲上田著『トラが語る中国史』)
 18世紀に入った清の康煕年代でも、陝西の山中には虎が多く、その害が記録されている。陝南の漢水に沿う漢中府西郷県の県知事王穆が、同県の虎退治の生々しい記録「射虎亭記」を残している(道光『西郷県志』巻五)。これによると彼はかつて友人数人と山西省五台山を周遊した際、虎に遭遇したため鳥銃を持参した同行の二人が発砲し虎を追い払った。この体験と比べて西郷県の虎の害は甚だしいという。日常的に虎を目にするのみならず、深夜に入城し人を襲い、家畜を害する。知県の役目としてどうしても「悪獣」を駆逐しなければと、高価な懸賞金を懸けて虎退治の要員数十人を募集し、虎の通り道に踏めば毒矢が発射される仕掛けを設置した。この結果1713(康煕五十二)年~1715(康煕五十四)年の2年間に64頭の虎を射殺、その他の方法でも多数の虎を駆逐し、こうした成果を西門外の亭脇の石碑に刻んだ。 (続)

 

【註】

(1)山本斌『中国の民間伝承』Ⅱ「農村の寺廟と神仏」太平出版、1975。

(2)中野美代子『中国の妖怪』岩波新書、1983。

(3)澤田瑞穂「義虎亭由来」『中国動物譚』弘文堂、1978、136頁。

(4)聶樹人編著『陝西自然地理』陝西人民出版社、1981。

(さとう・ふみとし 元筑波大学)

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