『文学の力、語りの挑戦』評 田中雄大

投稿者: | 2021年9月15日

『文学の力、語りの挑戦』

文学の力、語りの挑戦
中国近現代文学論集


宮尾正樹教授退休記念論集刊行会 編
出版社:東方書店
出版年:2021年03月
価格 7,150円

中国語圏近現代文学・文化の多様性を示す論文集

田中 雄大

 

 本書は、お茶の水女子大学で34年間にわたり中国近現代文学の研究および教育に携わってこられた宮尾正樹さんの退休を記念した、同氏の教え子たちによる論文集である。副題は「中国近現代文学論集」となっているが、実際には「中国」や「文学」の枠を超えて、様々な地域やジャンルが扱われており、そのことを端的に示した「本書概観「空間と時間の見取図」」と題された地図および年表が付録として巻末に収録されている。本書は「1917年~1949年 中国現代文学の誕生」、「1949年~1999年 探究する作家たち」、「2000年~ 近現代を超えて」の三篇より構成されており、総勢21名の論考が収められている。本書の醍醐味は何と言ってもまずその取り上げられる対象の豊富さにあり、柳田国男・佐々木喜善・周作人(子安加余子論文)から始まり陳千武・郭強生・楊双子(赤松美和子論文)によって締めくくられる一連の論考は、さながら中国語圏近現代文学・文化のお祭りとも言うべき賑わいを見せている。しかもそれはいわゆる文学史・文化史上の主流作品を繫ぎ合わせる類の教科書的なものではなく、有名な作品からつい見落とされがちな作品までを取り揃えた一風変わったアンソロジー的なものであり、それゆえに本書はこれから中国語圏近現代文学・文化に触れようと考えている人からその道の専門家に至るまで、誰もが楽しめる一冊となっている。
 石井洋美「葉霊鳳が描いた男女に見られる「椿姫」の影響──1932年以降の作品を中心に」は、葉霊鳳の小説が劉吶鷗や穆時英といった新感覚派の小説との類似性を見せながらもそれとは異なる印象を与えることに着目し、葉が愛好した『椿姫』および『椿姫』型の物語が小説中の女性主人公の性格や男性主人公の視線、男女関係などに影響を与えたことを示している。一言で新感覚派といってもその人物造形は作家により差があること、そして翻訳小説のはしりである『椿姫』が葉小説の人物形象に大きな影響をもたらしたことが、いずれも具体的なテクストを参照しつつ論じられており説得力がある。
 宮本めぐみ「中山樵夫訳『苦悶する支那』を探る──日中戦争下に中国人の実相を伝えた翻訳者」ではやや時代が下り、1942年に日本で刊行された中国現代文学作品の翻訳集『苦悶する支那』が詳しく紹介される。中国への蔑視と侮辱に満ちた「訳者序」や口絵とは対照的に、抗戦中の中国人が実際にどのような生活を送り、日本や日本人をどのように見ているのかを日本の読者に伝えようとすることが同書の主眼となっていることに着目し、そうした工夫を惜しまずに高い中国語力を以て収録諸篇を翻訳した「中山樵夫」なる人物の正体が実は中国文学研究会の同人であった魚返善雄の筆名であったことを突き止めている。その筆名と本名の対照作業のスリリングさもさることながら、1942年という時代にこのような良心的な試みがあったという事実に驚かされる。
 同様に日中文学者の交流について描き出しているのが、河村昌子「巴金と芹沢光治良──文学者の交流」である。同論は1961年における巴金との面会をきっかけにして書かれた芹沢の長篇小説『愛と知と悲しみと』、およびそれに対する巴金の応答「致芹沢光治良先生」を取り上げ、芹沢の同書が両者の共通の知人であるジャック・ルクリュをキーパーソンとして日中戦争を反省的に捉えた作品であること、そして巴金もまたそうした芹沢の反省の姿勢に対して応答を見せ、同じく「遠くの光」を追い求める同志としての友愛と連帯感を示したことなどが事細かに記されている。またそうした両者の交流が主にテクストを媒介とするものであり、「作家同士であればこそ可能な、文学的交流であったと言えるだろう」という指摘には、文学研究の面白さを改めて教えてもらった。
 文学の持つそうした力について、作者間の交流ではなく作品テクストの内容から迫ったのが、迫田博子「笑いに託されたもの──葉石濤「晴天和陰天」論」である。同論は従来ブラックユーモアの作品として理解されてきた「晴天和陰天」のテクストを丁寧に読みながら、そこに潜む喜劇的・悲劇的要素を拾い上げ、その小説世界を構成する「笑い」と「かなしみ」、そしてその主題と思惟性を論じたものである。何が笑いやかなしみを生み出しているのかを具体的に検討しつつ、登場人物の生のありように寄り添うことで「不確かで困難な生をいかに生きるべきか、という普遍的かつ根源的な問いがテーマとして伏流している」ことを明らかにする同論は、葉石濤文学の持つ奥深さと温かみを我々読者に伝えてくれる。
 不確かで困難な生を扱うことは、何も狭義の文学の特権ではない。尹鳳先「亦舒『我的前半生』にみる「全職太太」」は、「全職太太」、即ち女性の憧れのモデル像としての専業主婦の表象が、亦舒の恋愛小説『我的前半生』、同作を原作とした同名のテレビドラマ、および同小説の主人公「涓生」・「子君」の名前の出処である魯迅の小説「傷逝」という三つの作品において如何に変化していったのかを辿ることで、女性の経済的・精神的自立という今でもアクチュアルな問題にアプローチした重要な論考である。同論では、小説およびテレビドラマ『我的前半生』における女性主人公たちの精神的自立意識の弱さが、社会に見捨てられるのではないかという危機意識や一度専業主婦となった後の職場復帰の困難さといった現実の専業主婦が抱える苦境の反映であることが示されているが、それは中国語圏のみならず現代の日本社会においても喫緊の課題となっている。
 同じく喫緊の課題に焦点を当てているのが、小林さつき「李碧華「50年」へのまなざし──『胭脂扣』『覇王別姫』及び香港反政府運動における「不変」へのアプローチをめぐって」である。同論では「1国2制度」のもとでの「50年不変」の自治や自由を守るべく自ら筆を執って政府を批判し続けている作家、李碧華が取り上げられる。李碧華は『蘋果日報』のコラム「礦泉水」にて「50年不変」に対して一貫して懐疑的まなざしを向けているほか、『胭脂扣』では1932年から1982年までの50年にわたる「純愛物語」と「古きよき香港像」の、『覇王別姫』では1929年から1984年までの「50年変わらぬ神話的な愛」の虚構性と不確かさを提示することで、読者に対して香港の主体性を立ち上げることの重要性を訴えているという。特に二作の長篇小説に対するこのような見解は新鮮で迫りくるものがあり、読者の目を覚ますこと間違いなしである。
 以上の六篇のほかにも、師である呉宓に対する銭鍾書の複雑な思いを丹念に論じる杉村安幾子「銭鍾書と呉宓」、1965年に老舎が仙台で講演した際の言葉に耳を傾ける布施直子「1965年の老舎の“声”」、呉祖光の代表作である『風雪夜帰人』の上演史を整理し考察する鈴木直子「呉祖光の『風雪夜帰人』」といった著名な作家や作品のあまり知られていない側面に光を当てた力作に加え、郁達夫を論じた范文玲および新沼雅代の論考、映像作品の立ち上がる過程に注目した西端彩および大塚ゆう美の論考、也斯を取り上げた西野由希子の論考が本書には収録されているのだが、中でもとりわけ目を引くのは、凌叔華(阿部沙織論文)・寧瀛(舘けさみ論文)・翟永明(但継紅論文)・欧陽子(天神裕子論文)・趙濤(木谷富士子論文)といった女性の表現者を扱う論考の数の多さである。
 そしてそれは偶然そうなったというよりも、寧ろ本書の核心を直接的に示しているように思われる。本書のまえがきに書かれているように、宮尾正樹さんがお茶の水女子大学で教鞭を執ったのは、「日本における女性の社会進出が進んでいった時代」である。そうした時代を背景に、同氏のもとに様々なキャリアやバックグラウンドをもつ女性たちが集まって中国語圏近現代文学・文化の研究を推進していったのであり、本書はまさにそのような34年間の結晶にほかならない。もちろんここで言う「女性」とは、2020年にお茶の水女子大学がトランスジェンダーの学生に対して門戸を開いたことが象徴するように、狭義の「女性」に限定されるべきものではない。そして依然として女性に対する公然の差別がまかり通り、研究者になる、研究者として食べていくにも狭義の男性であることが圧倒的な優位性を持つ2021年において、多様なバックグラウンドを持つ女性研究者たちによってこれだけの興味深い諸論考を収めた一冊の論文集が刊行されたという事実は、特にこれから研究者を目指すあらゆる人々の背中を、力強く押してくれるだろう。現に書評者も力を貰った。もちろん冒頭で述べたように、本書はあらゆる読者に開かれている。だがそれでもやはり、様々な読者に対して中国語圏近現代文学・文化の豊かな面白さを示してみせることによって、本書がまずは女性たちの挑戦を後押しし、その希望の力とならんことを切に願う。

(たなか・ゆうた 東京大学大学院)

※2021年9月28日 「本書概観「空間と時間の見取図」」の画像を追加公開いたしました。

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