あだなからみる明終末期の陝西流賊(四)

投稿者: | 2021年8月16日

“闖”をつけたあだな

佐藤 文俊

 

■“闖”字について

 清代、陝西えんすい鎮地方では“ちん”字を「馬が門に入るなり、又は勇んで進む貌なり。故に李自成のあだなは闖将という」と解釈していたという(康煕『延綏鎮志』巻六の四「方言字義」)。諸橋轍次『大漢和辞典』でも「馬が門を出るさま、頭を出すさま、うかがう、突然に入る」という解釈例を述べ、解字・会意として「門と馬とを合わせて、馬が門を出るさまの意を表す」という。司馬遼太郎は闖王の呼称について「王を自称することはともかく、わざわざ闖という文字を冠するなど、当時の流民の首領の気分や気概、荒っぽさがどういうものであったかが察せられる」と述べている(「『叛旗』と李自成のこと(姚雪垠著『叛旗』)」、『司馬遼太郎が考えたこと11 エッセイ1981.7~1983.5』新潮社、2005)

■“闖”字をつけた事例

 次にこうした“闖”字を付けたあだなを紹介しよう(かっこ内は本名)。闖王(高迎祥、李自成)、闖将(李自成)、小闖将(張雲飛。後、金龍と改号)、刑家米闖将(米進善)、闖とう(劉国能)、胡闖(蘭養成)、闖食王、闖拾王、闖世王(郝希才)、闖天王、闖天鷂、闖天虎または賽闖王等があげられ、流賊と敵対した側の明の猛将にも黄闖子(黄得功)(1)、李闖子(李栩)(2)等がみられる。これらは勇敢さと無謀さという明終末期の社会風潮を反映している。以上の事例から数例を選んで考えてみよう。

■事例研究

〈闖王(高迎祥)
 まず流賊の大流動期を代表する大掌盤子、闖王(高迎祥)をあげる。高迎祥の乱参加前後の状況はあまりよくわかっていない。延安府安塞県の人で厳しい飢饉に見舞われていた1628(崇禎元)年、飢民王大梁等とともに陝西東路の王嘉胤集団に呼応して蜂起したといわれる。その際闖王と名乗ったのは彼が元馬賊であったからという(呉偉業『綏寇紀略』巻九)。王嘉胤、紫金梁と連携しつつ有力掌盤子の一人となり、流賊の軸となっていく。1634(崇禎七)年から1636(崇禎九)年にかけては、洪承疇・孫伝庭等の率いる明軍の戦力が強大であったので、流賊は長江以北の広大な地域を、単独であるいは複数掌盤子で分散・流動し、明側の戦力の弱い時には大連合して戦った。高迎祥はこうした分散した流賊時代の象徴的存在であった。
 当時の有力流賊・掌盤子90人のなかで、闖王軍団は最強で「その下には(明軍の)降丁が多く、甲杖は精整され、歩伍は乱れず」と兵科都給事中常自裕が報告している(『懐陵流寇始終録』巻十一)。不定期に開催される掌盤子間の軍事会議でも、意見の調整と方針の決定も適格で、信頼されていたようである。したがって明側では闖王(高迎祥)の消滅をはかる一環として破格の懸賞金をかけていた。1636(崇禎九)年に長江以北の広大な地域を流動していた流賊を、崇禎八年、明の五省(河南・山西・陝西・湖広・保定)軍務総理に昇格した洪承疇と同九年七月、陝西巡撫に昇格した孫伝庭等の明軍は、河南から陝西の西安府に属する山中に深く追い込み、激戦の末、病に冒されていた高迎祥の捕捉に成功した。この報告を受けた崇禎帝は狂喜し、厳重な警護のもとに高迎祥と彼の二人の幹部を北京に護送させ、公開処刑に処した。当然のことながら、軸を失った流賊側では大混乱に陥る(3)

〈闖塌天(劉国能)
 “闖”字を冠した第二例として闖塌天をあげる。“闖”字の会意は先述したとおりだが、“塌”は崩れ落ちる意、“闖塌天”で地上を支配する天に突入して突き崩すという、想像を絶する激しい心情を内包するあだなであり、現状の体制に対する不信感を表明している。このあだなを付けた賊首は、韓国基、李万慶、張(名は不明)、劉国能の四名がいる(4)
 あだな闖塌天を付けた中で最も著名なのが、劉国能である。彼は初期流賊に参加した例外的な下層知識人であるが、反乱参加時の情報は少なく「掠えられて賊に入る」(『懐陵流寇始終録』巻十一)といわれ、強制的に参加させられたといったほうが真実にちかい。延安府属の延川県の人でしょうせい(生員)身分を有していた。明代は科挙試(郷試・会試・殿試)を受験するためには、童試に合格して入学資格の生員身分を取得し学校に所属して学習しなければならない。強制的に参加させられたとはいえ、崩壊に近い郷里の現状、あるいは難関な科挙試等への不満もあったと考えられ、流賊参加後は独立した自身の集団を率い「智と勇を以って名を著す」(前掲『懐陵流寇始終録』巻十一)の如く、流賊内で重きをおく大掌盤子の一人となった。
 前述のとおり闖王(高迎祥)亡き後、流賊側は混乱が拡大した。崇禎帝はこの期に流賊の全滅を図るべくようしょうを兵部尚書に、彼の戦略の実行責任者としての軍務総理にゆうぶんさんを任命した。1638(崇禎十一)年から翌年の初めにかけて、洪承疇、孫伝庭等の奮闘もあって流賊の有力掌盤子が次々と投降した。明朝にとってその最初の注目すべき成果が同年一月、闖塌天(劉国能)の投降であった。
 彼の投降は長い間の盟友、張献忠に自身の軍団が併合される恐れからの不信感、明軍の主力左良玉との戦闘での敗北、総理熊文燦の招撫政策等の要因が重なったが、決定的だったのは一緒に連れて行動していたと思われる母親の、投降して明の正道に帰れという「命」だという。後続で投降(「偽降」)した張献忠、羅汝才とことなり、自身についてきた軍団を明軍に編入し、左良玉の指揮下に入り、積極的にかつての仲間の流賊と戦い成果をあげた。最初は軍職としての守備に、まもなく戦績著しく副総兵(副司令官)に昇格した。なお注目すべきは、彼に従った軍団5000人の家族を葉県内に定着(「あんそう」)させるという投降の条件を実現させていることである。流賊が家族連れで、定住を目指していた側面をみることができる。
 流賊への積極的戦闘行為は、彼のかつての仲間、李自成等の怒りをかった。1641(崇禎十四)年九月、かつての盟友李自成、羅汝才等によって、守備を命じられていた葉県城が四方から攻められ陥落し、彼も捕らわれた。李自成等は彼に投降し、もとのように仲間に戻るよう勧めたが、自分は現在「王臣」でどうしてお前たち「賊」に降れようかと怒鳴りつけたという。こうして劉国能は李自成等に殺された(『明史』巻二百六十九)。天と現状への不信感を闖塌天のあだなに込めた劉国能は、長期の流賊活動の末、結局儒生としての原点に立ち戻り、明に投降(「正に帰す」)したのである(5)

〈闖食王、争食王〉
 事例の最後に闖食(拾)王、争食王をあげよう。食を漁る、食料を奪うのように飢民・流民の心情を代弁するあだなをつけた掌盤子である。この両者は揺(姚)・黄十三家といわれる掌盤子の中に含まれる。この十三家は1633(崇禎六)年頃より四川の東北部を中心に1645(清の順治二)年まで活動した(6)

■カルタ賭博「マーディアオ(弔)」

 この明終末期の状況を如実に反映した現象に、民間で盛行していた賭博のカルタ遊びがある。康煕年代の著作『寄園寄所寄』巻下には次のような記述がある。「万暦末年、民間ではカルタ遊び(「葉子戯」)が盛んであった。北宋末の水滸の賊の姓名を札に描き、崇禎の時に大盛況となった。その方法は百貫のやりとり(「滅活」)で勝負し、上がりの手を“闖”といい、“献”といい、“大順”といった。勝負の名は“馬吊”といったが、“馬吊”二字は意味不明であった」という。闖・献・大順といった上がりの掛け声は「その後みんなその通りの事実となった」という(彭遵泗、松枝茂夫訳『蜀碧』(『蜀碧・嘉定屠城紀略・揚州十日記』)平凡社、1965)。闖・献・大順は、闖王・大順が李自成、献は張献忠を指している。明末清初の三大思想家の一人、顧炎武は“馬吊”の勝負は天啓年間に到って「始めて“馬吊”の勝負が行われ、現在の朝廷でも、江南、山東のほとんどの人がこの勝負を行っている」(『日知録集釈』)と伝える。
 1627(天啓七)年、陝西から始まった流賊は長江以北を席捲し、1643(崇禎十六)年、李自成、張献忠が各自王を称し、翌崇禎十七年には李自成が西安で大順皇帝を、張献忠が成都で大西皇帝を称して政権を樹立しようとしていた。こうした切迫した情勢は、顧炎武の記述にもあるように未だ直接流賊の脅威にさらされていない経済や文化の中心地、江南や首都北京、江南と漕運でつながる山東地方でも緊張感をともなって人々の関心を集めていた。朝廷内でも多種多様な職業の人々が居住していたが、その人々の間でも盛んにこの賭博が行われていたことは興味深い。流賊に関する情報は正式には文官・武官の報告であるが、多くの軍人、民間人である商人、輸送に従事する労働者、流動する人々等から口頭による伝聞が入り乱れて伝えられ、人々は王朝倒壊を予感しつつ、緊張感をもってそうした情報に接していたのであろう。
 “馬吊”は『寄園寄所寄』で意味不明とされていたが、これは「馬に逢えば必ず吊るされる(7)」の意を連想させ、清代の統治者は王朝倒壊を含意するこの遊びを危険視し厳しく禁止したため、乾隆年間には消滅したという(王直・王定璋『猜拳・博戯・対舞――中国民間遊戯賭博活動』(中国民族文化系列)四川人民出版社、1993)。付言すると馬吊に代わって出現し、後世、世界の多くの人々に好まれたのが麻雀である(8)

 

【註】

(1)黄得功(1594~1645)は開原衛(今の遼寧省開原)所属の一兵卒、黄闖子と号す。戦功を重ね総兵官となり、明滅亡直前に崇禎帝より靖南伯に封じられた。南明の福王政権の時期に、江北四鎮の一つとして清と戦い戦死した。

(2)宦官魏忠賢派に属した李精白の子。本人は武勇の人で、郷里防衛の中心として明軍と提携し土賊や流賊と戦った。しかしなぜか李自成軍の参謀李公子と誤伝された。拙著『李公子の謎―明の終末から現在まで―』(汲古書院、2010)。

(3)一般的な伝記として「高迎祥小伝」(南炳文『明清史蠡測』天津教育出版社、1996)がある。なお、高迎祥や李自成等の生い立ちや家族に関する事実は不明のことが多い。主に江南の文人が残した著述には誤った伝聞も多い。

(4)かつて闖塌天を名乗ったのは劉国能一名と考えられていたが、趙儷生が劉国能を含む二名の存在(趙儷生「弁両“闖塌天”」『趙儷生文集第一巻』蘭州大学出版、2002)を明らかにし、現在では計四名(謝蒼霖編著『綽号異称辞典』)が指摘されている。

(5)1960年代から80年代にかけて、中国での明末農民戦争研究の理論と実証をリードした一人である顧誠は、庠生の劉国能が「起義参加後はかつて農民革命事業のために、一定の貢献をなした前期の著名な首領の一人となった。しかし、封建的な忠孝思想の規範に縛られていたので、階級間の衝突が激化した段階で統治者側に落ちた」と論評している(顧誠『明末農民戦争史』中国社会科学出版社、1984)。

(6)この両者のあだなを記しているのは『荒書』で、『客滇述』にはない。両書の一三人を比較してみると、闖食王は揺(姚)天動、争食王は黄鷂子に該当する。

(7)一六四三年三月、紫禁城が李自成軍に占拠された現実を煤山(景山)から目の当たりにした崇禎帝は、ふもとのえんじゅくびれた。この句はこの史実を指すと思われる。

(8)馬吊から麻雀についての歴史は大谷通順『麻雀の誕生』(大修館書店、2016)を参照。

(さとう・ふみとし 元筑波大学)

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