『私がクリスチャンになるまで』訳者まえがき

投稿者: | 2021年8月13日

私がクリスチャンになるまで 清末中国の女性とその暮らし(アデル・M・フィールド著/蒲豊彦訳、2021年9月刊行予定)より、「訳者まえがき」(抜粋)をお届けします。

 

訳者まえがき
――アデル・M・フィールドとバイブル・ウーマン

蒲豊彦

 

 本書はAdele M. Fielde, Pagoda Shadows: Studies from Life in China, W. G. Corthell, 1884 の全訳を基本にして(最終章「言語、文学、民話」のみ抄訳)、アメリカン・バプティストの機関誌Baptist Missionary Magazineに掲載されたフィールドの文章数編および、フィールドが編纂した民話集Chinese Nights’ Entertainment: Forty Stories Told by Almond-Eyed Folk, Actors in the Romance of the Strayed Arrow, G. P. Putnam’s Sons, 1893から民話を一篇補ったものである。さらに、日本の読者になじみのない単語や地名等に注を付けた(位置を確認することのできない地名には注釈を付けない)

 原著のPagoda Shadowsは中国の女性や女性クリスチャンの生活史と(本訳書第一部)、中国の社会や習慣について説明した部分に分かれるが(第二部)、全体として女性および女性をめぐる社会事情を主題としている。本訳書では以上に加えて、フィールドがどのように布教活動を行ったのかが分かるような文章を集め、第三部とした。

 著者のアデル・M・フィールド(一八三九~一九一六)は一八七三年から八九年まで中国広東省東部の潮州・すわとう地区で活動した、アメリカン・バプティスト・ミッションの独身女性宣教師である。現地中国人の女性伝道師であるバイブル・ウーマンの育成や方言辞書の編纂などに力を尽くしたのち、一八八九年にミッションを辞して母国のアメリカに戻ってからは、婦人参政権運動をはじめとする各種の社会活動に携わるかたわら、科学者として昆虫(アリ)研究の分野でも業績を残した、極めて特異な女性であった。

(略)

バイブル・ウーマンの育成
 フィールドも一八七三年に汕頭へ移る。この地で彼女が最も力を注いだのがバイブル・ウーマンの育成であった。バイブル・ウーマンとは、現地中国人のいわば女性伝道師であり、村々を巡回して女性たちに聖書の物語を語って聞かせる。これ以前に汕頭のアメリカン・バプティストにはすでにバイブル・ウーマンが数名存在していたが、フィールドはそれを組織的に教育しようと考えた。一八七四年に彼女が設立した学校は、中国で最初のバイブル・ウーマン学校だったともいわれる。

 バイブル・ウーマンには明確な役割があった。社会生活上、中国では男女が厳しく分けられており、たとえば教会を建てるときでも、その内部はしばしば左右ふたつに仕切られ、席が別々になっていた。男女の信者は正面の牧師を見ることはできるが、互いの席は見ることのできないような構造だ。しかも、大人の女性は家に閉じこもることが多く、見知らぬ男性が近づけるような社会ではなかった。つまり、人口の半分を占め、しかも母親として次世代の教育に大きな影響を及ぼす女性に布教するためには、女性の伝道者が不可欠だったのである。これがそもそもミッションで女性宣教師が必要とされ、さらにバイブル・ウーマンが雇われた主な理由である。

 では、バイブル・ウーマン自身は、教育を受けるために長く家を空けたり、布教のために村々を自由に歩きまわったりしてもよかったのだろうか。バイブル・ウーマンは、年齢が四〇歳から五〇歳ほどで、また寡婦が多かった。この年齢では、おそらく子どもはもう自立できている。しかも寡婦であれば夫の束縛もない。前近代の中国の女性と言えば、差別され、抑圧されているという側面がしばしば強調されるが、このように、中年、老年期に入ってからかなりの自由を享受できる場合があったようである。バイブル・ウーマンは、そのような社会事情を利用した制度でもあった。彼らは通常は二人ずつで行動し、たとえば一八七九年七月のフィールドの報告によれば、それまでの三ヵ月間に、一四人のバイブル・ウーマンが二人ずつ組みになって一二七の村を回ったという。

(略)

庶民にかんする記録
 中国では古くから大量の文献を蓄積してきているにもかかわらず、そこには大きな偏りがあり、庶民のことはあまり書かれていない。その点を補うひとつの史料が、外国人による記録である。日本を例に挙げれば、古い時期についてはザビエルやフロイス、ケンペル、近代ではオールコック、モース、イザベラ・バードなどの著作がよく知られている。これらの著作でとりわけ有用なのは、あまりにありふれているために本国人の意識に上りにくく、したがって通常は書き留められることのないこまごまとした事実が記録されている点である。Pagoda Shadowsは、西洋人によって書かれた非西洋世界のそうした見聞録のひとつと言えよう。

 たとえば本訳書第一部の「竹で出来た龍」に登場する若い女性「快」は、幼いころ、キリスト教に入信するために遠くの町へ出掛ける父親に、ミカン畑の見張りをするように言い付けられた。その三日間、藁葺きの小さな小屋に一人で寝泊まりして父の帰りを待ったものの、三日目の夜、恐くなってついに我慢し切れず、母の待つ家へ駆け戻る。そのころ、「宣教師が心臓と目玉を取り出して薬を作り、それを同胞の外国人に売る」といううわさがあったのだ。家に帰った父は「快」を叱ることもなく、その晩、二人は一緒にまたミカン畑の見張りに出掛けた。

 これは幼い少女の生活のひとコマに過ぎないが、一九世紀後半の中国語(漢文)史料をどれほど精査してみても、どきどきしながら父親の帰りを待つ農村少女の心情をこの一文ほど丁寧に描写したものは、おそらく皆無だろう。

 ただしPagoda Shadowsで描かれる女性の姿とその社会的境遇は、おおむね悲しいものであり、悲惨としか言いようのない話もいくつか見られる。たとえば四歳のとき父の知人の息子と婚約させられた女性は、美しく成長して一六歳になったとき、長年音信のなかった婚家に入った。ところがいつまでたっても夫が姿を見せない。召使いに尋ねると、大きなカゴで運ばれてきた。手足を動かすことができず、しゃべることもできなかった。急いで呼び寄せられた父親はそれを一眼見るや、「娘よ、これがおまえの運命だ」と書き付けを残し、そのまま立ち去った。婚約したときは賢くて元気な男の子であり、婚家に落ち度はなかったのだ。そののち娘は次第にやつれ、三年後に死んだ。

 前近代の女性の境遇がかなり厳しいものであったことは、これまでもよく知られている。だが、ほんとうにそれだけだったのかと言えば、若干疑問が残る。本書に収録した民話「アリの起源」には、妻に頭の上がらないかわいそうな夫が登場する。これもまた、おそらく事実の断片を伝えていよう。こうした理由からこの民話を収録した。

 フィールドが中国で過ごした一九世紀後半は、古い中国がまさに近代へ向けて胎動を始める時期にあたっていた。一八四〇年のアヘン戦争を契機として西洋諸国が中国へ進出しはじめ、キリスト教の宣教師も活動を本格化させる。さらに一八九四、九五年の日清戦争によって、それまで東アジアの小国にすぎなかった日本に打ち負かされ、一九一一年にはついに辛亥革命が伝統的な王朝体制に終止符を打つ。

 このように、まさに大きな変化が起こりつつある中で、最底辺の農村部にそれでも色濃く残る伝統社会の様相を、フィールドは主に女性の眼を通して捉えた。そして、厳しい境遇に耐えてきた女性たちの一部はキリスト教を知り、女性伝道師となり、そこに一筋の生きる望みを見出す。ここに、「近代」との接点のひとつが現れる。自分自身そこに深く関わったフィールドは、中国の女性にたいする深い共感とともに、世紀転換期前夜の庶民の暮らしを詳細に書き留めたのであった。
(以下略)

 

 私がクリスチャンになるまで 清末中国の女性とその暮らし
  アデル・M・フィールド著/蒲豊彦訳
  2021年9月上旬刊行予定
  四六判/256頁/税込2970円978-4-497-22111-7

 

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