あだなからみる明終末期の陝西流賊(九)

投稿者: | 2021年12月15日

その他の動物名をつけたあだな(付植物等)・下

佐藤 文俊

■鵬(雕)(大鳥、鷲)

こんちょう(雕)
 「金翅鳥」のイメ-ジ伝承は豊富である。もともとは仏教経典の(空想上の巨鳥ガル-ダ)を指す。身体は人間で鷹の羽とくちばし、脚・爪をもち、仏教に帰依しない悪龍・悪蛇を喰ったという(1)

図1 金翅鳥(『西遊記』77回)

 仏教が中国に伝えられた後、この金翅鳥は講談や雑劇等を通して様々なイメ-ジで伝えられ、元末明初に『西遊記』等の台本が文字化(「全相平話」)され、さらに講談・雑劇・歌謡等を通して民衆のイメ-ジに定着・豊富化していく。
 典型的と思われるのは『西遊記』に登場する「金翅鳥」である。『西遊記』74回から77回にかけて、三蔵法師一行が獅駄国で三匹の魔王に襲われ難儀する様子が活写される。三匹の魔王とは大魔王(青獅子)、二魔王(白象)、三魔王(雲程万里鵬、大鵬金翅鳥)を指し、確実に不老長寿が得られるという唐僧三蔵法師の肉を食すため、強敵である孫悟空に備えて三魔王を軸に義兄弟の契りを結んだ。特に三魔王は「風を切って海を越え、北に南に自由自在」に飛び、五百年前、獅駄国の国王以下すべての民を食べつくし、自ら国王として君臨してきた。孫悟空は何回も戦うも特に三魔王に勝てず、三蔵法師がその餌食となるのも現実味を帯びてきた。孫悟空は万策尽きてついに空を飛び、釈迦如来に「わたしめ、天を鬧がし、大聖と名のって、人となりまして以来、ついぞ負けたことはございません。しかし、今度という今度ばかりは、まったく手も足も出ないのです」(77回)と直訴する。そこで如来は、大魔王と二魔王の各々の師である文殊菩薩と普賢菩薩を呼び、自らも縁のある三魔王を降伏させるためそろって出動する。大魔王と二魔王はなんなく降伏するも、三魔王だけは降伏せず悟空に襲い掛かり、如来に捕まって大口をたたくも、如来の気遣いでやっと降伏する。『西遊記』の金翅鳥は大空を自由に飛び、孫悟空さえも打ち負かし、釈迦如来にも抵抗する傍若無人の強さを示す。
 『封神演義』で描かれる羽翼仙の正体は大鵬金翅鵰である。人間界の殷と周の戦いに対応し仙人界も分裂する。大鵬金翅鵰は周に対抗し殷を助けるため活躍し、「翼を拡げて空高く舞い上がると、空の半分を遮った」(62回)等と表現される。文中の羽翼仙讃歌には「曽て四海をぎて倶に底をあらわし、龍王と海内の魚を吃べ尽くせり」(62回)とあって仏典の迦楼羅の龍を喰う痕跡が見られる。もっとも『封神演義』の金翅鵰は師匠の燃灯道人の叱責と懲らしめにあい、正道に帰って二度と姜子牙の紂王放伐のじゃまをせず、道人に帰依して修業するという条件を受け入れる(63回)。儒教的な正道論に基づき周を正、殷を邪とする放伐論で統一されている。
 『水滸伝』では梁山泊第48位の欧鵬が、この意のあだな「摩雲金翅」(空高く飛ぶ大鳥)を名乗る。彼自身は軍卒で鉄槍の使い手であったが、上官ににくまれ脱走し、盗賊になる。その後梁山泊に仲間入りし、童貫軍と戦い、宋に帰順後は命じられるまま宋江等とともに、遼、田虎、王慶討伐に参加し、最後は方臘討伐の最中、相手の弓の名手龐万春が放った第二矢が命中し落馬して死す(2)。武芸一流の欧鵬は、歩く速さは飛ぶがごとく並外れていたと表現されているところからこのあだながついたと思われる。
 このような多様なイメ-ジを持つ架空の鳥は民衆に人気があったようで、現在までのこのあだなを冠した流賊は四名確認できる。第一例は崇禎四(1631)年、総兵王承恩に投降した流賊首王子順の甥、王成功(『明史紀事本末』巻七十五中原群盗)、二例は崇禎六年、明軍三辺総督陳奇瑜に殺害された氏名不詳の流賊(『明史』巻二百六十七)、三例は同年、総兵楊嘉謨に殺された黄九峨(「兵部題為恭報誅剿渠魁等事」『起義史料』)である。四例目は劉希原である。再蜂起した張献忠と、曹操(羅汝才)を盟主とする八掌盤子(「九賊」)は明軍との戦いで四川に追い込まれた。盟主の曹操が張献忠と直接行動を共にしたため、他の八掌盤子は独自の対応を迫られた。この間、八掌盤子であり曹操の腹心でもある金翅鵬(劉希原)は、曹操による組織的併合の危機感を抱くようになり、崇禎十三(1640)年7月、楊嗣昌率いる明軍との厳しい戦闘中に小秦王(白貴)と共に投降した(『明史』巻二百五十二楊嗣昌伝。『明史紀事本末』巻七十五中原群盗)

■植物

〈一枝花〉
 このあだなを付けたのは現在のところ、李自成を王に推薦したという流賊賊首の一人、王千子(出身、前職不明)(計六奇『明季北略』巻二十三、「群賊推自成為王」)と崇禎十二年十二月に捕捉された賊首の一人「一枝花」(「四川巡撫傅宗龍題為塘報残寇犯辺等事」『起義史料』)の二例のみであるが、あだなのあり様については興味深いので取り上げてみたい。
 唐代(中唐)に成立した伝奇小説に、白行簡(白居易の弟)の『李娃伝』がある。都の長安に科挙の受験にきた名門(常州刺史滎陽公)の御曹司鄭生は、長安の妓女李亜(旧名一枝花)に入れあげて持ち金を使い果たし受験にも失敗、父親から絶縁され乞食になる。偶然その惨状を目にした李娃は同居し支援した結果、鄭生は科挙に合格し官僚となり父親との復縁も果たした。正妻となることを辞退する李娃を父親は息子の嫁とし、後日鄭生は大出世した。
 これと前後して当時すでに民間で、『李娃伝』故事をもとにした「一枝花話」と呼ばれる語り物芸能があり、宋元代に盛行した。

 この「一枝花話」に関連して興味深いのが、『水滸伝』に登場しあだなを「一枝花」とする蔡慶である。兄の蔡福が責任者で弟の蔡慶が補佐役を担当する、牢獄の役人兼死刑執行の首切り人である。二人とも北京土着の人物で、兄蔡福(後梁山泊に参加、94位)は腕っぷしが強くあだなを「てつはく」、弟蔡慶(95位)は「一枝花」といった。蔡慶について『水滸伝』62回には次のようにいう。

眉は濃く 眼は大きく 性格は屈強・・・・・・
金の環をあしらってキラキラ輝く頭巾は小ぶりで、花を一本 鬢のかたわらに挿している。

 『水滸伝』はこれを解説して「生まれつき一枝の花を身に着けるのが好きで、河北の人は語呂がいいので、みな彼を”一枝花”蔡慶と呼んでいた」という。恰好付けて鬢に花を挿すいかつい牢役人を、「一枝花」と河北の人々が呼ぶ背景には『李娃伝』や、語り物芸能の「一枝花話」の影響もあったと考えられる。もっとも蔡慶は『水滸伝』中では活躍は目立たず、方臘の乱後、官を辞して大名府に帰り余生を過ごした。

図2 左の人物が蔡慶
明、杜菫 絵『水滸人物図伝』(広西美術出版社、1994、黄格勝 代序)

 

【註】

(1)笠間良彦『図説 龍とドラゴンの世界』遊子館、2008。

(2)第118回。駒田信二訳『水滸伝』〈120回本〉平凡社、1964。

(さとう・ふみとし 元筑波大学)

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2021年12月17日:誤字を修正いたしました。

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