あだなからみる明終末期の陝西流賊(十)

投稿者: | 2022年2月15日

宇宙:“天” “星”等、及び自然現象を含んだあだな・上

佐藤 文俊


 本項目に関連するあだなをまず網羅して記してみよう。

〈天〉字を含むあだな例(第四回「“闖”をつけたあだな」で挙げた闖天王等は省略)
 大天王、射塌天、震天王、奪天王、過天王、過天星、新天王、四天王、九天聖、十天王、衝(擎)天王、斉天王、代天王、飛天王、飛天聖、飛上天、飛天師、飛天夜叉、飛天聖、上天王、爬天王、托天王、托塔天王、争天王、撞天王、横天王、登天王、鎮天王、哄天王、過天飛、混天星、混天飛、混天王、混天猴、撲天飛、普天王、頂破天、横天一字王、貼天飛、括天飛、乱天軍、鉆天哨、揺天動、靖天王、可天飛、満天飛、満天星、通天王、登天王、上得天、順天王、尊天王、登天王、順天仁義王等。
 
〈星〉(〈天〉字中に含まれた星のあだなは省略)
 九梁星、紫微星、中斗星、北斗奎、大星宿、観星子、二十八宿、等。
 
〈雲〉
 雲交月、一朶雲、一塊雲、雲裏飛等。
 
《自然現象》
〈風〉
 黒旋風、小旋風、一陣風、順風王、潑皮風、一撮風。
〈火〉
 火炎班
〈雷〉
 雷公

 上記の特に天に関するあだなの傾向として、熟語となっている用語を含めて混・奪・闖・塌・鎮・横・翻等の語が冠されているものが多く、乱参加者の天に対する不信感が表明されているといえよう。この中国の「天」についていささか触れておきたい。

■中国の「天」

 上空に広がる広大な空間・天は、中国史ではどのように解釈されてきたであろうか。
 政治を天と結びつける政治思想は中国で独自に発達した。まず儒教における「天」について溝口雄三の見解をみよう(1)。皇帝や朝廷は公なる存在であるが、もう一つ上の天や天下から見ると一姓一家の私であり、その公の最高位に位するのが天であって、その天の公(天理の公)には皇帝さえ随従しなければならない。中国の政治史における天の観念は多義的であるが、1、自然運行の天 2、主催・根拠の天 3、生成・調和の天 4、道徳・理法の天の四つに分類できる。2・3・4はいずれも条理を根底とする。2は人格的・主宰的な天ともいい、3は中国の天観中、最も独自の内容で人の生存の均等な成就を含み、4は道教の道の観念――人為を越えた自然的秩序と結ぶ。
 こうした発想は殷から周への易姓革命を正当化するにあたり、有徳の周室に対する天命の授受という上帝信仰と結びついた天命の観念が生じた。前漢の文帝以降、皇帝は都の郊外に天壇を築き拝天の祭儀を行うことによって天命の受命者と位置付けられるようになり、唐以降、皇帝の即位儀礼として慣習化した。
 中国社会に大きな影響力を持つ道教の「天」について神塚淑子の研究を引用する(2)。道教では天は神々(神仙)の住む場所であるが、天は人間世界を支配する至上神という人格神的意味合いから、自然界の法則や自然の摂理というような哲学的・抽象的意味合いに到るまで幅広い内容を持つという。道教思想の根源を問う概念の「道」(人間の作為を排除した、人為を超えた自然的天観)、「氣」(氣から万物生成が始まった)は、先の溝口のいう4の道徳・理法の天にも影響を与えた。道教と仏教および、道教と儒教の相互交渉と融合に基づき、中国社会では儒仏道「三教帰一」の思潮が創り出された。
 本稿の課題である天字を含んだあだなを検討するにあたり、兵士を含めた民衆にとって、「天」はどのように意識されていたのか見ておこう。
 一般民衆にとって、仏教・道教間の小さな差異よりも両者の共通性・連続性が重要で、長い中国史の中で両者を同じようなものとみていた。象徴的な事例は道仏併存した造像(様式や銘文の近似性)を拝む、両者の諸神が混然一体となった信仰の在り方である(3)
 三教融合、なかんずく道教・仏教の融合は通俗文学中に顕著に表れている。例えば『西遊記』では道教の最高神・玉帝と釈迦が共存し、各々その所を得ている。孫悟空が天界で大暴れしたのを鎮圧する体制は玉帝が天界の最高神として宰領するが、実際に悟空を五行山に閉じ込めるのは釈迦如来の法力であった(4)。  
 『封神演義』でも同様の傾向がみられる。殷周革命の際、地上の戦いに参戦した道教側も闡教と截教に分かれて戦うが、仏教側も西方教として闡教につき周を支援する。
 『水滸伝』は、本来の仏教説話を基礎としながらも民間で語られていた道教的ファンタジーをとりこむことにより完成した『西遊記』と、共通の性格をもっているという(5)。  
 玉皇は宋代以後道教の最高神となり、地上の最高権威者である皇帝と対比され、政治と直接結びつけられて、中国歴代皇帝による祭祀の対象にもなった(6)。民衆にとって道教の最高神である玉皇上帝(玉帝)は、儒教の最高神の上帝とほとんど同一の存在であった。

■事例研究

〈過天星〉
 過天とは天をよぎるという意以外に、「改天」の意味があり、社会を改造し徹底的に旧態を改めるという世直しの意の「改天換地」も含まれていると考えられる。
 過天星をあだなとする複数の掌盤子は、明終末期の流賊史の最終局面で敵対する立場で、各々重要な役割を担う。明に投降し(「反正」正しきにかえる)反流賊の重要な戦力になる過天星と、最後まで李自成に忠誠をつくす過天星という、過天星同士が戦う局面が想定される。
 この過天星をあだなとした事例は四名が数えられる。
1、徐世福
 鄭達輯『野史無文』巻十四「羣賊名目」にこの名が載せられているが、出身地や活動については不明である。
2、恵登相
 初期からの代表的な流賊首の一人で、その軌跡は明から清への激動期において一つの典型的行動形態を示す。過天星をあだなとする掌盤子の中で最も有名だが、清代編纂の史書でも他の過天星をあだなとする掌盤子と誤認している場合がある。恵登相は陝西延安府清澗県の人で、崇禎4(1631)年、黄河を山西に渡河した流賊首の一人。その後闖王(高迎祥)や張献忠・羅汝才等と主に潼関以東の河南、湖北等で行動し、羅汝才(あだな曹操)を盟主とする九営に属した。崇禎12(1639)年5月、再蜂起した張献忠に呼応した羅汝才と九営は行動を共にするが、明軍の厳しい攻撃にさらされ四川山中に逃れる。羅汝才はこの危機に際し張献忠と直接行動を共にしたが、羅汝才に次ぐ有力掌盤子であった恵登相は張献忠による組織的吸収を警戒して彼に対する不信感があったため、翌13年7月、過天星等八営は次々に明の総兵で軍閥化の著しい左良玉に投降し、以後左良玉軍の部将として忠誠を尽くした(『明史』列伝161、左良玉。以下の記述は主に同書による)。その指揮下で過天星は投降仲間の王光恩(あだな関索)等と軍事上の要地である鄖陽の守備を任され、かつての仲間である流賊と戦うことになった。崇禎16年5月、流賊集団を統一し大順政権樹立を目指す李自成は、かつての盟主羅汝才軍を切り崩す彼らの動きに激怒し、腹心の劉宗敏に大軍を率いさせて鄖陽を70日かけて攻めるも落とすことができなかった。
 崇禎17(1644)年、明朝倒壊の直前の3月、崇禎帝は残存する明軍の有力武将四人に伯爵位を授与したがその内の一人、平賊将軍左良玉には寧南伯が授与された。3月19日、崇禎帝の自殺で明朝は滅び、5月にはドルゴンが清軍を率いて紫禁城に入城し華北の統治を開始すると、江南では混乱の末、崇禎14年李自成軍に殺害された福王の子由崧が即位し、弘光帝を名乗った。しかしこの小王朝を牛耳った、明終末期の天啓朝(1621~1627)を支配した宦官魏忠賢の系統である馬士英・阮大鋮は、これに対立する東林派との党争を再燃させ、混乱が拡大した。この小王朝の東林派の軍事的後ろ盾になったのが、弘光王朝の最大の軍事勢力であった左良玉であった。左良玉はその軍事的功績により明朝から武昌の世守を命じられ、弘光朝からは侯爵位に進封され南京以西の長江流域を守備した。当時の左良玉軍の規模は「兵八十万、百万と号」し、前五営が左良玉の親軍、後五営は投降軍で恵登相が指揮した。明の最大軍閥に占める投降した流賊の比重の大きさが示されている。
 順治2(1645)年3月、陝西を追われた李自成軍が武昌に迫る状況下、左良玉は「君側を清くする」と宣言して弘光朝を牛耳る馬士英・阮大鋮を除くため南京に向け軍事行動を開始し九江に到るが、病状が悪化し大吐血して死去するに至った。左良玉は軍と後継者である自身の息子左夢庚を恵登相に託していた。しかし左夢庚には軍の統率ができず、部下の放火・掠奪を静止できないのを見て、恵登相はかつての自身の流賊時代と変わらないと絶望して軍団をさった(7)
3、張五
 張五は延安府清澗県出身。崇禎4(1631)年、明軍に追われて山西に渡河した賊首の一人で、兄弟5人に率いられた馬・歩兵300人の勢力であったという(8)
 過天星(張五)は闖王(高迎祥)等の流賊の主力が黄河以南の河南・湖北・安徽等を流動している間、陝西を中心に流動し有力な掌盤子に成長した。崇禎9(1636)年高迎祥が明軍との戦闘で犠牲になり流賊が混乱におちいった時期も陝西・四川等を軸に流動し、満天星(趙応挙)・混天星(郭汝磐)・六隊等の掌盤子と連動して闖将(李自成)と行動を共にしていた。崇禎9年から10年にかけて、崇禎帝は兵部尚書に楊嗣昌を抜擢し、彼の立案した流賊殲滅戦略の担当責任者として広東巡撫の熊文燦を五省軍務総理に推薦し鄖陽に駐屯させ、従前より流賊対策総責任者で陝西三辺総督を兼任する五省軍務総理の洪承疇と陝西巡撫の孫伝庭を指揮する体制をつくりあげた。崇禎11年から12年にかけては、闖王(高迎祥)の側近の掌盤子をはじめ第四回に記した闖塌天(劉国能)等有力掌盤子が敗れ投降者が続出し、李自成と並ぶ流賊首張献忠も羅汝才等と共に招撫をあせる熊文燦に有利な条件を得て偽降した。このため陝西を軸に戦闘を続ける李自成に攻撃が集中し、崇禎11年10月、潼関の戦いで洪承疇率いる明軍に手痛い敗北を喫し、わずか18騎で商落山中に逃げ込んだ。
 この流賊側の劣勢の中で李自成と陝西・四川で行動を共にしてきた過天星(張五)は崇禎11年5月、明軍へ投降する。この過天星を投降させた洪承疇等明側の戦術に触れておこう。それは、掌盤子過天星集団の中核を担っていた親族への対応である。崇禎11年4月、澄城(西安府同州)の戦いで張五の姉張氏が捕獲され、同年6月の戦いでは張氏の夫、二虎(本名不詳)、二人の子大星宿(本名不詳)が捕らえられた。 
 この親子は張五の有能な側近(「皆彼得力之人」)であった。又この戦いでは張五の肉親の甥・大黄鷹(本名不詳)も捕捉された。明側ではこれらの張五の親族を殺さず保護していたので、ただでさえ動揺していた張五に投降を決断させる切り札となった。こうして過天星集団のほぼ大部分が投降した(9)
4、張天琳
 過天星(張五)と共に行動していた人物に張天琳がいる。上記の3、張五の時期、過天星を名乗ったのが張天琳と考える研究者もいる(10)が、筆者は方福仁(11)と同様、崇禎11年に明軍に投降するまでの史料上にあらわれる掌盤子過天星は張五と考える。
 流賊側の軍事力が明軍に対して優勢となり、崇禎17(1644)年1月、李自成は西安で大順国の樹立を宣言したあと、北京占領に向けて破竹の勢いで進軍を開始する。北京の隣の山西省では一部の抵抗があったものの、大同総兵姜瓖、宣府総兵王承胤、居庸関総兵唐通が投降したため北京占領が容易になった。
 過天星をあだなとした張天琳の名が現れるのは、北京陥落直前の崇禎17(1644)年3月1日である(12)。山西総兵官王えつの上奏文を要約すると、次のような内容が記されている。去年(崇禎17、順治元年)3月1日、李自成軍本隊が破竹の勢いで大同に入城した。李自成軍は陝西と北京を結ぶル-トの確保のため、宣府に権将軍(李自成大順政権の武職の第一位)の黄応選、そして大同には制将軍(権将軍に次ぐ武職第二位)の過天星(張天琳)を置き、両者の指揮のもと北京西方の重要防衛拠点である保安、懐来等の確保が命じられた。明にとってもともと九辺鎮の中の宣府、大同、山西(寧武関)三鎮は、蒙古族・満洲族に対する首都北京防衛の重要地域でありこれらを統括する宣大総督が置かれていたが、明末には流賊に備える役割も持った。
 李自成側の大同防衛は、投降した明の大同総兵姜瓖と共に制将軍である過天星(張天琳)が担当した。北京進軍の直前、3月1日から7日間、李自成本隊の膨大な軍隊が大同に駐屯した。明中期以降、諸王府は分封地の民衆からきらわれ、李自成・張献忠の乱でも各地で組織的・継続的に諸王攻撃がなされ、これが流賊発展の一因となった。本隊滞在中、その食料、滞在先の確保、及び北京にむけ進軍に必要な物資の補給は、大同府に封建されていた代王の朱氏一族(13)の財産が充てられた。このため宗姓四千余名を「屠戮」し「宗屋1,060所」、「土地370余頃」、「金銀等の財産」が収奪された。この張天琳の行為が非常に残酷であったので、李自成が呉三桂・清連合軍に敗れ北京から撤退し、清朝支配が北京、山西に及んでくると新たに任命された山西総兵官等の指揮下、大同を中心にした支配層が密かに連絡を取り合って、順治元年5月10日、張天琳を殺害するにいたる。李自成軍に投降した明の姜瓖も、この殺害計画を支持していた。
 しかし大同周辺に配置された李自成軍を全面的に攻撃するにはいたらなかった。大同から北京に至る軍事上の要地、宣府・保安・懐来等に李自成軍の留守部隊が駐屯していたためである。順治元年12月から翌2年1月にかけて、呉三桂・清連合軍は陝西に侵入し李自成軍を陝西からの撤退に追い込み、また同時期華北各地が清の統治下に入り始め、かつて投降した旧明軍の投降武将も清に再投降して李自成・張献忠に敵対する。こうした新情勢を背景に、山西・河北の李自成武装勢力は劣勢となっていった。翌順治2(1645)年5月8日、宣大総督李鑑率いる清軍は、清への再投降を決意した大同総兵姜瓖等を中心とした鎮圧体制を組織し、各地で一斉に大順軍の残余を抵抗なく捕捉した。李鑑は「一兵を煩わさず、一矢も折らず」とその成果を誇っている(14)
 なお崇禎11年、明軍に投降したあだな過天星と17年に再び現れた過天星との関連をどう考えるか。筆者は投降した過天星(張五)に従わず、逃亡した少数の集団の中に張天琳がいて、あだな過天星を継承したと考えたい。

 

【註】

(1)溝口雄三『〈中国思想〉再発見』(放送大学叢書、左右社、2010)第一章中国の「天」。

(2)神塚淑子『道教思想10講』(岩波書店、2020)第4講宇宙論等。第8講道教と仏教――三教併存社会の中で。

(3)前註2、神塚淑子第8講。

(4)中野美代子『西遊記の秘密──タオと煉丹術のシンボリズム』(岩波書店、2003)Ⅲ-2。

(5)佐竹靖彦『梁山泊 水滸伝・108人の豪傑たち』(中央公論社、1992)第九章。

(6)前註4、中野美代子Ⅲ-2。

(7)恵登相の最期については「辞絶江去、不知所終」(『懐陵流寇始終録』甲申封事)や、「(順治2年)総兵恵登相七月病故」(「総督八省軍門佟掲帖 順治二年十月初十日到」『明清史料』甲二)などと言われる。

(8)この記事は河北の道臣(兵備道)曹応秋の記した内容で、『懐陵流寇始終録』巻四・六、『明季北略』巻八、『明季遺聞』巻一等に採用されている。但し曹応秋はこの過天星は張五でなく恵登相と注釈しているが、これは誤りであろう。

(9)投降にいたる記述は『孫伝庭疏牘』巻二「報澄城捷功疏」、同書巻三「報収発甘兵晋兵日期疏」・「恭報過賊投降疏」、「兵科抄出陝西三辺総督洪承疇題本」(『明清史料』乙・九)等を参照。

(10)「関於過天星問題」(柳義南『李自成紀年附考』中華書局、1983)、顧誠『明末農民戦争史』(中国史社会科学出版社)81~82頁。

(11)「還李自成史事以本来面」(方福仁『李自成史事新証』浙江古籍出版社、1985)。

(12)張天琳に関する本文の記述は主に次の史料によった。
「原任署鎮守山西総兵王鉞啓(順治2年2月25日)」(明清史料・甲二)。「宣大山西総督李鑑啓本」(明清史料丙・五)。「姜瓖為処理被農民軍査分的明宗室房産事啓本(順治元年8月初6日)」(『清代檔案史料叢編』六、中華書局1980。なお本史料集の表題は編者が便宜上つけている)。

(13)明代の諸王封建については拙著『明代の王府』(研文出版、1999)を参照されたし。代王は太祖朱元璋の第13子朱桂(1374-1446)が洪武25年、大同に分封されて以来、11世孫傳が大同を落とした李自成軍の将軍、過天星(張天琳)に殺害されるまで存続した。なお親王の長子に次ぐ諸子には郡王の爵位が付与され継承された。通常王府は封建された行政府の府城内におかれ各府が財源等を保証することになっていたが、生産力の低い華北等の地域ではその補償が難しく、一部の郡王を各省の州に居住させた。これを「別城」という。明終末の代王府には24の郡王があったが、その内6郡王が山西6州に別城された(拙著、第一部第三章)。

(14)『清実録』巻五では順治元年5月已酉(10日)では大順側の権将軍黄応選等15人を「捕斬」したとするが、本文に記したように史実は元年5月10日と2年5月8日の事件の二回であり、『清実録』は一回の事件としている。

(さとう・ふみとし 元筑波大学)

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