中国古版画散策 第七十八回

投稿者: | 2022年2月15日

『耕織図』和刻本の周辺③
―焦秉貞のゆかりの宣教師の人々―

瀧本 弘之

 焦秉貞は、山東済南の人という。清代の画家で天文学に通じていた。というのも、彼は宣教師の湯若望の弟子で、欽天監の五官正という官名を持っていた。つまり天文台に勤務していた技術者だったのだろう。古代は暦法を司るのは皇帝の役割で、その直属の機関はきわめて重要な部署だった。そこの長官が西洋人だったということも驚きだが、これは技術者としてのみ採用する清朝の方針に教会サイドも納得ずくで協力していたわけだ。康熙から乾隆時代の当時、清は世界で最も進んだ国とされていたから、フランスなどからも尊敬を伴った扱いを受けていたのだ。
 「湯若望」は中国名で、本名はアダム・フォン・シャール(1591―1666)。ケルンに生まれてイエズス会に入り、科学者としての訓練を受けて明末に渡来した。イエズス会とは宣教師の「組合」で、辞書によると「16世紀にイグナティウス・デ・ロヨラによって創立された、カトリック教会に属する男子修道会。ジェスイット教団、耶蘇(ヤソ)会ともいう」とされる。私は、そのイエズス会関連の大学に学んだが、東京外語大から来ていたある非常勤の講師が「皆さん、フランス語で『ジュズイット』という単語を辞書で引くと、意味が二つあるのを知っていますか」「ひとつはイエズス会ですが……」、とここで一休みすると、意味ありげに微笑を浮かべながらこう付け加える。「もうひとつは“偽善者”という意味があるのですよ」と素知らぬ顔で述べる(基本はフランス語だが、英語でも同じようだ)。ここでクラスの多くが失笑するのだが、これほどにJusuiteを的確に示す話はないらしい。理由はまた話すときがあるだろう。
 閑話休題。ともあれ、マテオ・リッチのよき協力者たる中国人高官・徐光啓らの協力によって『崇禎暦書』(『西洋新法暦書』)が完成し、中国にも西洋暦法に基づく暦『時憲暦』が導入された。入清してからは、イエズス会の宣教師らは順治帝の篤い庇護を受けていたが、帝が亡くなると宣教師らの新暦派は忽ち弾圧された。しかし最後は、死後に冤罪が晴らされた。図1は非常に有名な三人の宣教師を描いたもので、左からマテオ・リッチ、アダム・シャール、そしてフェルディナント・フェルビーストである。三人のイエズス会巨頭のそろい踏みだ。

図1 マテオ・リッチ、アダム・シャール、フェルディナント・フェルビースト(デュ・アルド『シナ帝国全誌』)

 マテオ・リッチは明末に渡来したあまりにも有名な宣教師で、中国名は利瑪竇、イタリア人。中央が湯若望、右は南懐仁、オランダ人(フランドル)である。この図は、デュ・アルドというフランス人の学者が著わした『シナ帝国全誌』にある。デュ・アルドは中国に来ることはなかったが、宣教師たちの著作などを博捜してこうした著述を発表した。この書は、フランス語(原書)のほか、ドイツ語・オランダ語・英語などに翻訳されて広く普及したという。この本の別の箇所には、順治帝の肖像なども掲げられている。
 焦秉貞は、図1の中央にいるドイツ人(ケルン出身)の宣教師、アダム・シャール(湯若望)の部下だったから、しぜんと西洋暦法にも通じ、ある程度の外国語も出来ただろうし、幾何学・天文学などの知識があれば、その作品は当然遠近法なども応用出来たろう。シャールの懇願で北京には教会が創設されており、西洋技術の書籍も多数あったはずだ。ちなみにこの教会は、数回の破壊を経て現在も北京にある「南堂」で、現役で使われている。

図2 アダム・シャールの肖像(パプリック・ドメイン)

 図2はアタナシウス・キルヒャー(1602-1680)の『シナ図説』に掲載のアダム・シャールの肖像画だが(銅版画。あとから彩色されている)、これを見ると右手にはコンパスを握り、テーブルの上には定規が並び、左手に何かを提げている(天体観測に使うものか)。足下には地球儀(何か動物が描かれている)、後ろには世界地図、右側の本棚には分厚い書籍(洋書だ)が詰まっている。胸には高い官位を示す鳥の胸当てを付けている。白皙で長い白ひげをたくわえた老人は見るからに学識豊かだが、やや疲れたような表情で、相当な高齢とみえる。シャールは中国で没しているから(73歳。墓も北京にある)、これは北京の欽天監の居室をうつしたものだろうか。教会か、それとも故宮の中かは不明だ。
 ながながと西洋人宣教師の話をしたが、これは焦秉貞の活躍した時代にいかに多くの「大鼻子」が北京に、とくに故宮周辺にいたのかを知ってもらうためで、こうした環境の中で西洋絵画が皇帝のお気に入りになり、また世を挙げてこれを模倣した時期があったことを知ってほしかったからだ。
 『耕織図』の元絵は焦秉貞が描き、康熙帝に献上した。その出来栄えに満足した帝は、これの各図に自分の賛を付け加えて、版刻を命じたのである。そのときにどんな要望があったかは分からないが、出来栄えは素晴らしかった。西洋銅版画に近いタッチの作品46図、耕と織各23図全てに皇帝の賛が付き、そして全体にも皇帝の序文を付けた。

図3 和刻本『耕織図』最後の部分(東京国立博物館)

 図3は「織」の部分の23番目で一番最後の図だが、「成衣」と題した南宋・楼璹の詩が、画面の右下に小さく彫られている。そして四角い画面の上には、康熙帝が和した賛が並ぶ。これは草書で達筆だから簡単には読み下せず、また読み下した資料もなかったが、近年『康熙雍正御製耕織詩図』(安徽人民出版社、2013年)という便利な本が出たので、それによれば「已成束帛又縫紉、始得衣裳可庇身。自昔宮廷多澣濯総憐蚕線重労人」とある。「束帛」は束ねた絹のことで最も貴重とされる。「縫紉」は裁縫、「澣濯」は洗濯と読み替えれば、だいたいの意味は分かるだろう。
 上には「淵鑑斎」の斎館別号印を捺した康熙帝の賛が付いていて、「成衣」には絹が織りあがって、その布を用いて衣服を縫う有様を描いている。部屋の中で三人の人物が鋏や針を用いて、縫製に勤しんでいる様が描かれる。部屋の外には、ひとりが巻き上がった布を抱えて、窓辺のふたりと話している。なぜか部屋の中の人物は全て男性で、ほかの三人が女性だ。これまで「織」の絵画には女性しか登場していなかったのに、一番最後の良いところで男が仕上げている。もちろん「耕」の部分は全て男性だ。いわゆる職業としての裁縫師は、おとこ・・・に限ったのかも知れない。そのあたりの事情は服飾専門の人に任せたい。

図4 図3の部分拡大図

 既述したが、この右下の部分に「成衣」と題した南宋・楼璹の原詩が小さく彫られている。そして一行離れて「欽天監五官臣焦秉貞画」とある。ただしこの和刻本では焦秉貞の「秉」の字が少しおかしい。刻工が間違えたらしい。

 焦秉貞の原本の『耕織図』を彫ったのは朱圭という刻工で、この人はかつて蘇州で『凌煙閣功臣図』を彫って名を挙げた人物である。(『凌煙閣功臣図』については中国古版画散策 第51回「谷文晁が翻刻した「陳洪綬画」の『凌煙閣功臣図』―「日本向け」……謎の書物の正体―」をご参照ください〔『東方』2019年4月号〕)
 康熙帝は生涯六回も「南巡」(江南地方への視察)をした皇帝で、南方がことのほかお気に入りだった。その温和な気候や優雅な文化を育んだ風土が、厳しい北方の自然に耐えてきた満洲族から見ると羨ましかったのだろう。とりわけ「地上の天国」と言われた蘇州・杭州には愛着があった。帝が到るとなれば、山のような献上物が殺到し、その中から優れた人材も選ばれて故宮に行ったのだろう。朱圭はのちに『六旬萬壽盛典図』(殿版、かつて私が『清朝北京都市大図典』として遊子館から影印した)などの刻工としても名を挙げた。『萬壽盛典図』は木版画で「六旬」と「八旬」があり、前者は康熙時代のもの、後者は乾隆時代のもので、それぞれ北京の街中を練り歩く祝典の行列を描いて間然するところがない。しかし、その出来栄えは前者が断然素晴らしく、また同じ光景を描いた絹本も知られている。絹本は彩色された長巻のもので、かつて日本にも来て陳列され、また展覧図録も出版された。『萬壽盛典図』についてはいずれ詳しく紹介したい。

図5 東陽堂版『佩文齋耕織図』(1892年、国会図書館)

 最後に我が日本の明治時代に刊行された『耕織図』をお目にかける。比較のために、同じ場面を掲載しよう。康熙版を忠実に移しているが、上の賛の所が異なっている。もちろん、姫路版(桜井絢が模写して刻させたもの。第七十六回をご参照ください)に比べると、やはり時代が出ていて風格が劣るような気がする。これは木版ではなく、どうも石版でつくられたようだ。というのも、私の所蔵するものは、上の文字の欄が赤の飾り罫になっているのである。さらに文字は、一段落目にある賛は雍正帝のもの、二段落目も三段落目も康熙帝のものらしい。つまりもっとも清朝が栄えた二代の皇帝の文字を添えているということだ。いかに『耕織図』が貴重視されていたかを理解出来るだろう。この出版は明治の代表的な書肆の東陽堂が手がけ、明治25年(1892)に出されている。東陽堂は『風俗画報』などを出して有名な大手出版社だった。ちなみに明治33年刊行の『日本之名勝』には東陽堂の紹介があり、「二十有余年前より銅石版彫刻印刷術の業務を開き斯術に貢献すること尠からざる老舗なり。発行の書籍……風俗画報……佩文斎耕織図……云々」とあり、著名な出版社だったことは見て取れる。いま神保町にある古書店とは無関係らしい。日清戦争以前だから、中国文明に対する尊崇の念も充分にあったはずである。私はこの書籍をかつて古書展で入手したことがあるが、いまヤフオクなどでときどき見かけると、目の玉が飛び出る値段が付けられている。この石版の「明治もの」にしてである。国会図書館もデジタル化しているが、残念ながらモノクロである。

(たきもと・ひろゆき 著述家、中国版画研究家)

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