あだなからみる明終末期の陝西流賊(十四)

投稿者: | 2022年10月14日

道教・仏教・民間信仰等の神に関する名を含んだあだな・上

佐藤 文俊

 中国の神々は道教系、仏教系、民間信仰系に分類されるが長期の歴史経過の中で混然一体化して継承されてきた(1)。すでに本連載で述べてきたあだなの中にも例えば二十八宿の亢金龍(第五回)・奎木狼(第八回)等が含まれる。
 以下収集した事例を列挙する。
 八金剛、賽金剛、雨里金剛、活閻羅、閻王鼻、閻王総、五閻王、老神仙、険道神・顕道神、竇阿婆、鬼子母神、山神、黒殺(煞)神、紅殺神、福寿王、二郎神、托塔李天王。

事例研究〈険(顕)道神〉
■イメージ
 前代から引き続き近代中国でも行われていた葬式の遺風に、出棺の時、棺に先行して悪鬼を捕らえる役目を担ったのが開路神で、またの名を方相氏・険道神・顕道神・阡陌将軍という。儒教経典の一つ『周礼』夏官の方相氏が起源で、方相氏は黄金作りの四つ目の仮面をつけ悪疫を追い払ったという。死者のためばかりでなく、生者のためにも厄払いする(2)。明末に刊行された『三教源流捜神大全』巻7「開路神君」では、開路神君(険道神)は赤ら顔で紅の戦袍(よろい)をつけて棺の前を進み悪鬼を捕らえたとし「吉神」と表記される。

図「開路神君」(『絵図三教源流捜神大全』7巻)

 『西遊記』での開路神は第29回の八戒に関する描写箇所に表れる。宝象国国王の妖魔(黄袍怪)を退治して欲しいとの要請に応えて、八戒が名乗り出た。自分の前身は天の天蓬元帥であったが天のおきてに背いたため下界に落とされたと経歴を述べ、したがって妖魔退治は得意といった。国王はその技量を確かめたいから変化の術で、大きくなってほしいと注文した。八戒は印を結んで呪文を唱え、腰をちょいと曲げると「たちまち八丈か九丈もの背丈にまで伸びたのです。まるで開路神そっくりです」と開路神のイメ-ジを伝える。
 『封神演義』では第46回の、方弼・方相兄弟が登場する場面で表れる。殷周革命の際、地上の戦いに仙界も二つ(闡教、截教)に分かれて戦う。方弼、方相兄弟は当初殷側の鎮殿大将軍であったが、最終的には暴政を続ける殷から周の武王側についた上司の黄飛虎(殷の鎮国武成王から周の開国武成王となる)の説得で周側の人となる。これに対抗して殷側につく数少ない闡教の道士・申公豹の依頼で、十人(十天君)の道士が殷側に参加し、十絶陣を敷く。
 兄弟二人は命を受けて十絶陣に立ち向かう。兄の方弼は風吼陣を破るべく突進するも落命する(第46回)。弟の方相も落魂陣で落命する(第48回)。二人とも命運により死後封神されることが決まっていたので、方弼は顕道神、方相は開路神として「封神榜」に登録された(第99回)。『周礼』以来の伝承と慣習では顕道神は険道神・方相氏・開路神と同一神の意で呼称されていたが、『封神演義』では別神の二神とされている。通常伝えられている険(顕)道の容貌等のイメージは兄の方弼の方に描写されている(3)
 『水滸伝』にも険道神が見られる。これをあだなとしたのは、いくほうである。身の丈一丈(2メートル余)で青州の人。青州で盗賊稼業をしていたが、梁山泊が買い付けた駿馬をすべて奪い山東の曽頭市に持っていき、そこの部将におさまる。曽頭市と梁山泊の戦いで梁山泊側に寝返り、曽頭市を破る。梁山泊108人の領将中では105位にあり、「旗さし物管理」を担当する。招安を受けて梁山泊軍が官軍になった後も「替天行道」と書かれた杏黄色の旗を守っていた(『水滸伝』68、69、71、82等の各回による)
 大柄で険道神のイメージにはあうが、その活動は旗持ち或は旗の守備という地味な活動に終始していた。流賊の頭領たちは、あだなを称する際に『水滸伝』の険道神をイメージの対象としていたのであろうか。

■険(顕)道神をあだなとした事例
1、高加討
 顕道神をあだなとした高加討なる人物は、後述するように崇禎8(1635)年、明軍に殺害されたが、当時山西の三大寇(「晋中三大寇」)の中心的存在であった。出身と経歴は不明であるが、陝西から黄河を渡河した流賊集団の一つに所属していた可能性が強い。以下、山西巡撫で山西の諸反乱掃討と招撫の責任者であった呉甡の上奏文を中心に検討してみたい(4)
 呉甡(1589~?)は江蘇揚州興化県の人で、1613年の進士。崇禎3(1630)年より崇禎帝の命で、延綏鎮(延安府)の飢饉救済に向かい、まもなく陝西巡按御史を兼務した。崇禎7年から山西巡撫となり山西の反乱対策の責任者となった。
 呉甡の分析によると崇禎8年正月当時、山西には三種類の賊が跋扈していたという。一つ目は土賊と呼ばれる山西各地の地域的反乱集団、二つ目は山西軍の逃亡兵が主力の流賊で、山西内の山地を拠点に流動した。三つ目が「已撫の賊」といわれ、陝西からやってきた流賊の内、明の招撫政策に応じて投降し山西に残留した流賊で「晋中三大寇」といわれた。
 この「已撫の賊」・三大寇とは顕道神(本名、高加討、2000人の集団。以下同じ)、香里人(劉浩然、4000人)、禾地草(賀宗漢、5~6000人)を指した。投降したといっても、兵は明軍に編成されず、集団と武装力は維持されたままであった。明の現地の官僚も集団の解体と明の支配下への編成が難しいので、反乱状態の停止を成果として中央への報告を急いだと思われる。
 顕道神(高加討)等の投降の実態について触れておこう。三大寇の就撫地はいずれも汾州府に置かれ、高加討集団は永寧州地方、劉浩然集団は臨県地方、賀宗漢集団は石楼県地方である。いずれも黄河の東側にあり、崇禎初年の流賊の発生地である陝西の延安府所属の延川県、清澗県と対峙する。彼ら三大寇は「その伙党は亦秦人たり」とあって陝西の人間が主力であり、撫地に汾州を選択したのは故郷の延安府に近く舟による往来も可能なためであった。呉甡の前任の巡撫が招撫を急ぐあまり、兵糧を与え集団を解体しないまま希望された汾州を就撫地として認めたと思われる。その結果これらの就撫地は数年間、明の介入ができない強力な独立地域の様相(「若一敵国」)を示していた。
 この三大寇の中心が高加討であった(「原流賊中最凶猪者」)。彼の率いる就撫地での生活実態について触れてみよう。例えば、多人数の食料を確保するため支給される規定額以外に様々な収奪を行った。崇禎7(1634)年9月、汾州府臨県の農民が収穫する予定の冬麦・粟等(「秋禾」)を勝手に刈り取り、時には部下を周辺地域に派遣して収穫した穀物を強奪(「劫掠」)した。汾州の各地ではこうした状況が常態化し、民衆は顕道神(高加討)を極悪な神として畏れ、恨み骨髄に徹していた。
 崇禎8年正月、高加討集団は拠点としていた汾州府の永寧地方の山地を離れ、忻州・代州山地に移動しつつ明軍と戦った。最後に高加討は棗木棍をひっさげ馬上に仁王立ちし「俺は顕道神だ。勝負しよう」と叫んだ。平陽参将虎大威等が放った矢が彼の喉に命中し落馬した。瀕死の重傷を負った高加討は、沂州に駐屯し指揮を執っていた巡撫呉甡の前に担がれてきた。その容貌は凶悪、身長は七尺(約2メートル10センチ)、振り回していた棗木棍は重さ30余斤(約20キログラム)長さ九尺(約2メートル70センチ)であった。明軍兵士が呉甡に話した内容によると、いつも馬上で舞いながら猛獣が人を倒すような鋭さでとても太刀打ちできず、討ち殺された兵士も非常に多かったという。
 呉甡は瀕死の顕道神(高加討)の処置について、民衆と兵士の怒りを解消するために、沂州の市街地でさらし首(「梟斬」)の刑に処することを決定した。実施当日、民衆(「市人」)は彼の死体を切り取り食べ尽した(「市人皆臠食其肉殆尽」)という(5)。集団所属者にとっては生存を保証してくれる善神、一般の山西人にとっては悪神という存在であった。

事例研究〈黒殺(煞)神〉
■イメージ
 民間信仰より道教に取り入れられた北天の強力な辟邪神である。五行に配した北方の色である黒色により名付けられ、さらには財神のイメージまで持つ武財神でもある。黒殺神は一般的に財福を授ける神、黒面の財神・玄壇趙元帥として広がったが、玄壇趙元帥は別に趙元帥・趙玄郎・趙公明とも呼称され、「素性由来ともに不明な神」で「名称の上でも数種の伝承がいまぜになっていて、その端を見つけることが困難」といわれる(6)
 こうした黒殺神に関する幅広いイメージの形成は二階堂善弘によると「その性格が曖昧であるためか、後世他の神との混同をまねきやすい面もあった」という(7)
 まず黒殺神は五行に配した北方の辟邪神なので、「同じく民間信仰より萌芽した北天の辟邪神たる天蓬と結合しやすかった」。天蓬神は道教の神系中で北帝四将(天蓬・天猷・黒殺・玄武)の一つ、宋代以降は北極四聖(天蓬・天猷・真武・翊聖)の一つに数えられた。
 次に真武との混同も考えられる。もともと真武は北方守護の玄武に由来し、唐末五代に人格神に変容して真武となり、宋以降は玄天上帝として天を統括する北極紫微大帝(北極星)の役割を受け持つ道教の大神となった。特に明初の靖難の変(1399~1402)の際、真武の神助を受けて勝利したとし、永楽帝が真武修道の武当山を多額の資金をかけて復興したことで、真武は王室の守護神的地位を得た。
 趙玄壇=趙公明(趙元帥)と同一視された。趙玄壇に関する来歴の通説、『三教捜神大全』の玄壇称号起源説では、趙公明は秦代の人、鐘(終)南山で得道して張天師の道壇守護を命じられた。ところが語り物や芝居を通じて民間に広まった小説『封神演義』では、趙公明故事は全く改変され、秦代の人であったのが殷周交代期の人とされ、峨眉山の道士でその法力をもって殷の紂王側につき周側を圧倒するも結局呪殺され、「金龍如意正一玄壇真君」に封じられたとされる。これが趙公明の由来とされるようになった。 
 来歴はいろいろと複雑であるが、社会に広まった趙玄壇の容貌は頭に鉄冠をかぶり手に鉄鞭を持ち、顔色は黒くして口と顎にひげをたくわえ、虎に跨っている本連載〈七の図1、図2参照〉。「職能は多方面にわたり、悪霊追討、督鬼摂魂、風雨調整、‥‥‥治病禳災、駆虎納福などから裁判の厳正や商業の公平に関与し、財神にもなっている」とされる(8)
 このように民間信仰から道教神に組み込まれた黒殺神は様々な要素をもって民間に広まっていたので、黒殺神をあだなとした流賊参加者がこの神をどう受け取っていたのか、どの部分に関心をいだいていたのか興味深い。

■黒殺神をあだなとした事例
 黒殺神をあだなとした流賊は現在5名を数えるが、ほとんど詳細は不明である。崇禎元(1628)年、延安府鄜州に所属する洛川県で黒殺神をあだなとする人物(姓名不詳)が蜂起しているので、流賊初期よりこのあだなが見られる。
1、張ちょう
 初期陝西流賊の主力は黄河を渡河して山西に移動したが、陝西西路の神一元・神一魁兄弟等は陝西の山岳地帯を流動した。明軍や在地武装勢力に破られた流賊集団の残党は、寧夏後衛の山岳地帯、鉄角城による可天飛(本名何崇謂)に合流する。崇禎5年、陝西総督洪承疇率いる明軍と決戦し敗れたが、その斬殺された首領(「賊頭」)の一人に、黒殺神をあだなとする張寵がいた。
2、姓名不詳
 崇禎6年、延綏巡撫陳奇瑜配下の官、参政戴君恩率いる明軍に斬られた賊頭の一人に黒殺神の名があげられている(『明史』巻260、列伝148、陳奇瑜伝)
3、姓名不詳
 崇禎9年3月、五省総理廬象昇が率いる明軍は、湖北の襄陽府穀城から鄖陽府鄖県にかけての険しい山岳地帯に流賊を追い込み接戦の末勝利したが、その際殺された流賊の首領の中にあだな黒殺神なる者がいた(『明史紀事本末』巻75、中原群盗)
4、李茂春
 延安府綏徳州の人。流賊参加時期は不明であるが、その名が現れるのは崇禎11(1638)年6月、陝西三辺総督洪承疇の上奏文中である(「兵科抄出陝西三辺総督洪承疇題本」(『明清史料』乙・九)。以下の本文記述は本史料による)
 崇禎9年、流賊のリーダーであった闖王(高迎祥)が犠牲になった後、流賊集団は混乱する。明側は楊嗣昌指揮の下で流賊の掃討を基礎にした招撫政策を推進し、多くの流賊が投降する。流賊中の有力掌盤子となった八大王(張献忠)や曹操(羅汝才)等は投降の成果を焦る現地の責任者、軍務総理の熊文燦に投降したが、明軍に編成されず、集団を維持したまま食料の支給を受ける等、いわゆる偽降の状態であった。抵抗する流賊は陝西山中の李自成と行動を共にする少数の掌盤子のみであった。
 黒殺神をあだなとする李茂春は、李自成と行動を共にする有力掌盤子、あだな六隊(別のあだなは乱世王)の筆頭幹部(「第一哨頭」)であった。崇禎11年、明軍の掃討作戦で六隊(乱世王)集団は分裂状態に陥り、有力部下であった黒殺神一党は闖将(李自成)配下の幹部(「哨頭」)となって流動していたが、闖将集団に慣れなかったのか明の招撫を希望し投降した。
 陝西三辺総督洪承疇は李茂春と彼の率いる集団の投降を許可した。彼の精鋭兵士は明軍に編入され対流賊の前線に配置され、「賊を以って賊を攻め」る戦術を担当させられた。その他の人々(「脅従・老幼」)は帰郷するか、近隣に定着させ民籍に編入(「安插」)された。
5、趙邦政
 黒殺神をあだなとする5例目に趙邦政なる人物を挙げることができるが、流賊参加時期を始めその後の状況は全く不明である。その名が現れるのは崇禎13(1640)年5月、兵部尚書・礼部尚書・東閣大学士の要職を兼任し、襄陽の司令部で流賊掃討の指揮をとっていた楊嗣昌の上奏文中である。彼が拠った直属の武将の軍事情報では、流賊との白兵戦で戦った明軍中に「降丁趙邦政、即ち黒殺神」がいて、半日懸命に戦ったものの多勢に無勢で、結局戦死したという(「察奏捷功疏」『楊文弱先生集』巻40)。恐らく11年から12年にかけて流賊側からの投降が続出していたのでその一員と考えられる。

 

【註】

(1)二階堂善弘『中国の神さま 神仙人気者列伝』(平凡社、2002)等。

(2)内田道夫『北京風俗図譜』(平凡社、1964)。後に同書を基に青木正児(図編担当)・内田道夫(図説担当)『北京風俗図譜』(平凡社、1986)として刊行。後書に記されている『周礼』方相氏についての内田道夫訳を紹介してみたい。「熊の皮を着て、黄金の眼が四つの仮面をかぶり、黒衣に赤い袴を着け、手には槍をもち盾をかざし、部下百名の先頭に立って、一年のすえごとにはらいを行う。大喪のときは棺に先がけて行き、墓地に着くと墓の穴に飛びこんで、その四すみを槍で突いて方良を追いはらう」。なお、民間では張り子の開路神を作ったという(『西遊記』第29回、註(4))。

(3)方弼は「身長三丈あまり、顔は棗のように赤黒く、頰まで覆う鬚に四つの目を持つ、非常に恐ろしい容貌」(46回)と表現され、方相は「体が大きく力も強い」(48回)のみの表現である。

(4)以下の記述は呉甡『紫庵疏集』内の上奏文と彼の自伝による。上奏文は「晋中盗賊情形及剿撫机宜疏」(巻11)、「生擒渠魁恭報捷音疏」(巻12)、「臣俸固応給由、臣罪亦当考核疏」(巻14)により、自伝は『憶記』巻2によった。

(5)前註4「生擒渠魁恭報捷音疏」。

(6)澤田端穂「黒神源流」(『中国の民間信仰』工作舎、1982)。

(7)二階堂善弘『道教・民間信仰における元帥神の変容』(関西大学出版部、平成18)第三章「道教における元帥神」。以下氏の研究成果により記述した。

(8)劉枝萬「趙玄壇」(野口鉄郎・坂出祥伸・福井文雅・山田利明編『道教事典』平河出版社、1994)。註6澤田論文参照。

(さとう・ふみとし 元筑波大学)

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