紹興:42年前の思い出

投稿者: | 2022年10月14日

山本 英史

 

 紹興を初めて訪れたのは今から42年前にさかのぼる。紹興は春秋越の都であるばかりか、近代では魯迅の生まれ故郷として知られ、日本人にとってもつとに関心のある街であった。しかし、軍事的な理由からか、外国人には70年代後半になってもなかなか開放されないままだった。
 当時まだ個人旅行は認められず、「〇✕友好訪中団」といった名目で団体旅行を組織するのが普通だった。しかし、そういった仰々しい名称をあえて避け、「江南の春を旅する会」と銘打った我々の団が紹興を訪れたのは1980年3月、その街に対外開放が認められて2週間と経っていなかった時である。中国近代の文学と思想の研究者を中心に構成された団員にとって紹興には特別な思いがあった。魯迅が幼少期を過ごし、当時の面影をいまなお残す生家、その裏庭の百草園、近くの私塾三味書屋など、どれも作品に登場する有名スポットであり、実見することで魯迅が描いた情景をようやく理解できたという。魯迅紀念館では現地ガイドがそういった事情を考慮して本来ならば参観時間30分のところを50分にするとの破格の待遇を与えてくれたにもかかわらず、1時間以上経っても誰一人としてバスに戻ってくる者はいなかった。
 団員たちのもう一つの関心は言わずもがなの紹興酒だった。そのため醸造工場を参観希望地として真っ先に入れるのに誰も反対しなかった。工場に着くとあいにく雨になったが、その分あたり一帯に芳香が増していた。試飲で搾りたての酒の美味しさを堪能した後、決して清潔とはいえない製造現場を見学した。「紹興酒の旨さの秘訣はなんですか」と団員の一人が尋ねると、「原材料を踏みつける杜氏たちの足の裏からにじみ出るアミノ酸です」という答えが返ってきた。
 団体旅行でもあり、行動に制約があったとはいえ、昼休みにはそれぞれに自由行動が許されていた。紹興の街は当時まだ到る所に“老紹興”をとどめていた。烏氈帽という黒いフェルト帽をかぶった男たちが烏篷船という黒い屋根付き船を漕いで運河を渡る景色はさながら「阿Q正伝」の世界だった。

当時の紹興

 筆者はH先生とS先生と一緒に街に出かけた。中国研究では当時まだ駆け出しだった筆者に比べてお二人はすでに老大家として知られ、しかもいかにも中国語ができそうな顔つきをされていた。当時中国語がからきしであった筆者はひたすらお二人を頼りに後をついていっただけだった。
 紹興の街並みを一通り巡ったのち、筆者が「そろそろ集合時間なのでホテルに帰りませんか」と言ったところ、日頃クールな表情のH先生、その表情を少しも変えずに「どうやら道に迷ったみたいだ」とおっしゃる。「だったら誰かに聞いてくださいよ」と言うと、「オレ、中国語できんから、Sさん、頼むよ」との答え。S先生はS先生で、「私も全然だめですよ。山本君、何とかしろ」と勝手なことをおっしゃる。無論、筆者にそれを求めても詮無いことだった。
 地図もなければ、言葉も通じない。事態はここに至って深刻であることがようやくわかった。とっくに集合時間の午後1時を過ぎていた。あっちこっちをさまようことしばし、すると突然我々のホテル紹興飯店に似た緑色の建物が目に飛び込んできた。S先生、「あれだ! あれに違いない。行きましょう」と叫ばれた。我々は何も考えることなく言われるままにその門をくぐって中に突入した。しかし、なんだか様子がおかしい。ホテルなのに軍服を着た門衛が銃剣を構えている。「これって、ちょっとまずいんじゃないですか」と筆者がいぶかると、H先生、なおも表情を少しも変えずに「ヤバイ! 引き返そう」とのたまわれた。なんとか無事に外に出ることはできたが、後ろを振り返ったところ、その建物の門には「紹興市革命委員会」の看板がかかっていた。外国人が突然血相変えて飛び込んできたのだから、さぞかし向こうも驚いたに違いなかった。
 ほうほうの態でホテルにたどり着いた時は午後1時から30分以上が経っていた。案の定、団は我々を見捨てたまま出発しており、部屋には紹興百貨店の前で待っていろとの伝言メモが冷たく残されていた。
 紹興百貨店は繁華街の中心にあり、ここには迷うことなく行き着けたが、待てど暮らせど団は戻って来てくれなかった。そうこうするうち、我々の周りには次第に人垣ができ、それが時間を追うごとに膨らんでくることに気が付いた。なにせ2週間前まで外国人を見たことがない市民たちが大半であった。いくら顔つきが似ている日本人だといっても、服装がまるで違っていた。変な格好したおもしろい奴らがいるぞといった感覚だったのだろう。興味津々で集まってきた。
 彼らは我々を遠巻きにジロジロ眺めるだけで、何をするわけでもなかった。もちろん話しかけてくる猛者もいなかった。とはいえ、これはこれで結構辛いものだった。日中友好の証しとして中国から贈られ、その使命を無事果たして亡くなったばかりのランランとカンカンの気持ちが初めてわかった気がした。
 なんともはや、ばつが悪い。こちらから話しかけようにも、中国語ができない。かといってこのままでは間が持てない。そこでよせばいいのに手に持っていたカメラのフラッシュを焚く。結果は人垣の厚さをいっそう増すばかりであった。万策尽き、H、S両先生と相談の結果、少し動いてみようということになった。しかし、それは我々の動きに応じてますます膨らむ人垣ドーナッツも同じように動くだけに過ぎなかった。
 仕方がないので、目の前の百貨店に飛び込んだ。そのとたん、それまでは閑散としていた店内が人で押し合いへし合いになり、ますます収拾がつかない事態を招いてしまった。そしてその後も我々が動くと、その軌道に沿って人垣ドーナッツも動くことを繰り返した。生まれてこの方、これほどまでにもてたのは後にも先にも初めての体験だった。しかし、うれしくもなんともなかった。1時間後、団が戻ってきて“救出”してくれた時には我々は疲労困憊の極に達していた。

紹興百貨店前の群衆

 紹興にはその後23年ぶりに再び訪れる機会があった。高度経済成長のもと、21世紀の紹興は過ぎし日の紹興にあらず、近代的なビルが林立し、あの白壁の建物と運河は観光用に整備された一部の場所を除いてすっかり一掃されてしまっていた。もはや烏氈帽をかぶった人を見かけることもなくなった。それでもかつて我々が宿泊した紹興飯店は元の位置にあった。見紛うまでの高級ホテルに変身していたが、橋を渡った入り口は昔のままだった。広い敷地内に建物が点在する構造も当時の雰囲気を残していた。
 ならば、懐かしの革命委員会はどうなったのであろうか。革命委員会はもちろんあるはずがなかったが、紹興飯店からの距離と周りの雰囲気から一つのそれらしき建物を探り当てることができた。そこには「中国共産党政法委員会」の看板がかかっていた。
 繁華街は元の場所のままだったが、我々が “スター”になった紹興百貨店を見つけることはもはや困難だった。なぜならば、そこには百個ほどしか商品を売っていなかった百貨店は消え失せ、文字通りの立派なデパートがいくつも建っていたからである。

(やまもと・えいし 慶應義塾大学名誉教授)

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