あだなからみる明終末期の陝西流賊(十五)

投稿者: | 2022年11月15日

道教・仏教・民間信仰等の神に関する名を含んだあだな・下

佐藤 文俊

事例研究〈老神仙〉
■イメージ
 神仙とは神人と仙人を結合した語ともいわれる。通常、道家で不老不死の術を得、天上を飛ぶこともできる変化自在な者、超人的な能力を有する者の印象がもたれる。これに老練の或は経験の深いという意味の「老」の字をつけた老神仙をあだなとした人物が二人見いだされ、いずれも李自成と流賊を二分した一方の雄、張献忠軍に関連していた。
1、李自旺
 順治3(1646)年12月、四川に大西国を樹立していた張献忠は清将の放った矢に当たり倒れた。張献忠亡き後は養子とした4人の有力将軍のうち、長男平東王孫可望を軸に、安西王(李定国)、定北王(艾能奇)、撫南王(劉文秀)が清軍及び反流賊勢力と戦いつつ四川から貴州に移動し省都貴陽をおとし、さらに雲南に向かう予定であった。その途次、貴州の定番州で兵士と軍馬の休息に当てるつもりであったが、知州の陳新第を中心に、紳士・土官・州民を総結集した強固な州城防御態勢が構築されていた。4年2月の初め、孫可望は定北王艾能奇に5万の兵を率いさせ定番州の占拠を命じた。激戦に次ぐ激戦で、2月12日に城は陥落した。指揮官の艾能奇はこの戦いで毒矢が右腕にあたり、後これが致命傷になって死去する。最後の数日間は守城側の抵抗が激しく流賊側では撤退も考慮にいれざるを得ない事態になった。この事態に登場したのが老神仙を名乗る軍師李自旺である。
 史料では次のように描写する。「にわかに賊の軍師の李自旺なる者、老神仙と号し、手ずから白い雄鶏を執り、髪をちらして剣をもち、石灰を以って地に画き、城を巡りて呪う。(順治4年2月)12日、巳の刻、城内の火たちまち起こり、人争って火を滅ぼす。賊勢いに乗り城の東隅に登り、而して城陥つ」と。
 老神仙を名乗る軍師李自旺の呪いによる火災となっているが詳細は不明である。いずれにしろ形勢逆転のきっかけとなった(王えい「定番州殉難紀事」『碑伝集』巻117)
2、陳士慶
 陳士慶は河南南陽府鄧州の人である。以下やや長くなるがあだなの呼称を扱う本稿にとって、いささか興味深い内容を含むので紹介してみたい(1)
 陳士慶が流賊の雄、張献忠軍に捕らわれるまでの経過をまず見たい。子供の時、親族に科挙合格者で州知事経験者がいたので、父親はうらやましく思い息子の士慶に科挙のための勉強をさせたがさっぱり成績が上がらず、その道をあきらめた。ついで技術を身につけ職人の道(「百工の技」)を目指したがこれも失敗した。友人に何人かの道家を目指す者がいて、彼等から神仙術の話を聞き大いに興味をもつようになった。やっていた仕事を辞め、父母に暇乞いして名山を周遊して道家(「神仙者」)に遇おうとしたが、なかなかその機会が得られなかった。
 函谷関から陝西に入り終南山に到って、石洞中で穀物を食さず瞑目する道士(「神仙者」)を見つけた。数日間、拝し続けるも彼は陳士慶を相手にしなかった。あまりにしつこいのでついに洞を出て、修行のじゃまをするなとしかり、何の用だと尋ねた。自分は神仙の術を求めていると答えると、老人は陳士慶を熟視してあなたは体中濁っている、神仙を目指すのは無理だから、私のじゃまをしないで早く往きなさいと断られた。それでも陳士慶はあきらめず跪き拝し続けること数日、飢えと空腹で村中を乞食しながら耐えた。しかたなく道士は腹がすかないようにしてやると飴のようなものを与えた。これを食すると気分が高揚し、満腹感を得、ついに飢えることはなくなった。このことでかえって神仙への関心が強くなり、あえて去ろうとしなかった。ついに道士は一巻の書を与え、立ち去ることを命じた。士慶も拝謝して去った。
 士慶にはこの書の内容はさっぱりわからなかったが、最後の四頁、秘密の処方(今日の外科的手術)に関する記述は理解できた。この内容の数々の実践によって、以後彼は生き延びて数奇な運命をたどることになった。
 故郷に帰る途中、娘が足を骨折したのでうまく治療できた者には百金を与えるとの河南巡撫の広告を見て、神仙者から得た書物通りに手術を成功させ百金を手にいれた。大金をもって家に帰ると父母は、まじめに働かずどこかを遊び回っていたはずなので、この飢饉と流賊や土賊(地方反乱集団)が跋扈する時期にこんな大金を得たのは賊に従っていたからかもしれないと危惧し、官に訴え出た。官は早速陳士慶を収監した。これを見た親族の州知事経験者は、官にかけあって彼を救出した。陳士慶は両親に異書(神仙の書)を得た顛末を説明すると、父は怒ってこの書を火にくべた。陳士慶はあわてて火中から拾い出したが、焼け残ったのはわずかに最後の四頁だけであった。
 しばらくして流賊が鄧州を破り、陳士慶の家も焼かれ彼は張献忠の捕虜となった。崇禎10(1637)年2月の頃と思われる(『豫変紀略』巻1)。捕虜となって収容されていた軍中で、例の書に書いてあった一つ、水を煮て膏薬をつくってみせて(「煮水成膏」)注目を集めた。このことであいつは「妖人」ですと張献忠に告げるものがいた。張献忠は殺人鬼とも歴史上いわれており、厳しい戦闘中怪しいものは殺してしまう傾向にあった。張献忠はすみやかに斬殺することを命じた。連れてこられた陳士慶は自分は秘密の処方を知っており、死者をよみがえらせることができると告げた。献忠はこれを聞き笑って「しばらくここに留めて殺すな」と命じた。

〈奇蹟的な治療の効き目(「奇効」)事例〉
 陳士慶は当時としては奇跡的な、今日でいう外科的手術を成功させて生き延びてきたが、いくつかの事例を紹介してみたい。
 (ⅰ)張献忠の性格は凶暴でいつも大きな棍棒を持ち、気に食わないとこれで左右にいる人を打ち人事不省(「死」)に陥らせていた。献忠はこの「死者」を陳士慶に治療するよう命じ、治療の結果たちまち生き返り献忠のそばに起立して仕えた。
 (ⅱ)崇禎16(1643)年、湖広に分封されていた楚王は張献忠軍に殺された(2)。楚王府を占拠した張献忠は、宮中で老脚と呼ばれる婢を寵愛するようになった。ある日献忠が老脚を呼んだがすぐに来なかったので、怒った献忠は自ら彼女のもとに往き刀で刺した。刺した胸・腹は深さ「数寸」(9センチ以上)に達し、肺・肝臓・胃・腸が地面に流れ出た。献忠は悔いて士慶にいった。「俺はもともとお前を殺そうと思ったが、仙術で人を生かせるというから生かしておいた。今うまく老脚を蘇生させたら、死を許そう」と。士慶は「肺と腸が体から離れているのに蘇生するのは無理と思われます。しかし大王の命令にそむくわけにはいかないので、少しずつ蘇生してみましょう」といい、一枚の木扉を持ってこさせて老脚をその上に乗せ、肺・腸・胃等を腹におさめ糸で閉じて薬を塗った。翌日老脚はうめき声をあげ二日目に飲食を求め、三日目に扉上に座り、六日目には献忠の側に侍った。張献忠はこれを奇蹟と考えた。
 (ⅲ)張献忠の養子4人の内、長男にあたる孫可望にも(ⅱ)と同様な事例がある。孫可望は酔って侍妾を「殺」してしまった。陳士慶はこれを見て、彼女は孫可望の寵愛を受けている。酔いがさめたら必ず後悔し左右の者に八つ当たりするだろうと考えその体を持ち帰り、糸で綴じて布団につつみ車中に置いた。数日後、陳士慶は孫可望に愛妾を殺した理由を尋ねると、自分はそのことを本当に後悔している。誰もが止めようとしなかったと。そこで陳士慶は「わたしは今一人の美人を得たので、監軍に差し上げますのでどうぞ傷付けないでください」といい、車を持ってこさせた。覆いをとると美人が現れた。なんと先日殺したはずの妾であった。額の紅痕は糸のようで美しさは以前より倍加していた。孫可望はこれをみて士慶を拝し感謝していった。「公は本当の神仙だ」。
 そのほか有力将軍の戦闘で削られた顎骨の再生、同じく戦闘中に大砲の玉があたり瀕死の重傷を負った将軍の治療成功事例等の「奇効」が記録されている。

〈張献忠による“老神仙”命名式〉
 崇禎16(1643)年5月、張献忠は武昌を下し分封されていた楚王を長江に沈め、大西王と称した。本項目の内容は明将左良玉との闘いで武昌を放棄し、8月に占拠した長沙でのことと思われる。張献忠は陳士慶に「お前の号を老神仙としたい。軍中では皆はそのことを知らない。お前のために全軍に知らせたい」といった。兵に命じ一人一個の机を持ってこさせ、数十万個になった。これを台のように組み立てさせ高さ百丈(333m余)になった。献忠は陳士慶にその頂まで登るよう命じた。士慶はがくぜんとして「私は天空に舞い上がることはできません。一段一段、登るのでしょうか」と。張献忠は「登らないならお前を殺す」といい、兵士数十万に弓に矢をつがえて包囲させた。
 陳士慶はやっとのことで半分まで登って、ここで勘弁してもらおうとしたが、張献忠は全軍に矢を引き絞らせ陳士慶を射らせる態勢をとった。士慶は恐怖に襲われながらなんとか頂に到着した。張献忠はすかさず全軍に向かって「老神仙」と叫び、継いで左右の将軍たちが、最後に全兵士が「老神仙」と叫んだ。その声は山谷を震わせた。この儀式から全軍が、陳士慶を老神仙と呼ぶことになったが、陳士慶という姓名はだれも知らなかったし、陳士慶自身も自らの姓名を隠して人にいわなかった。なお当時、士慶は何と呼称されていたかは不明である。

〈張献忠死後の陳士慶〉
 順治2年張献忠が犠牲になった後、陳士慶は張献忠の養子の孫可望と李定国の間を往来していた。孫可望も李定国も順治6(1649)年には永暦政権の一翼として清と戦っていた。しかし順治14年、孫可望と李定国の間に隙が生じ9月雲南で両軍は戦い、孫可望が大敗したため彼は湖南の長沙に逃れ清に投降してしまう。陳士慶は李定国と共に永暦政権側で行動しビルマにも逃れた。康煕元(1662)年、永暦帝父子が呉三桂に昆明で絞殺されてまもなく、李定国は42歳で病死した。陳士慶は養子白某と清に投降した後、病死したという。なおビルマにいるころ、親しくなった四川人の劉某に彼の伝記を書くことを許可し、その顛末と姓名を明らかにしたという。

 本連載(十四)で取り上げた〈険(顕)道神〉、〈黒殺(煞)神〉は、民間信仰の神から道教神に取り込まれ、講談・演劇で語られ或は演じられ、明末にまとめられた古典小説にも登場する、人々の日常生活に深く食い込んだ神である。
 前者の神は、儒教の経典の一書『周礼』の周官の名・夏官に属する方相氏を淵源とする、埋葬時の悪霊を追い払う神で開路神等複数の別称がある。後者の神は趙公明、玄壇趙元帥等多くの別称があり、その各々の素性及び由来は不明で、複数の伝承がまじりあった神といわれる。その職能は豊富で、人々の日常生活に安住と福を期待させる武・財神である。その姿も鉄冠をかぶり鞭を持ち、黒い顔と鬚で黒虎にのる姿は大衆にとってお馴染みである。
 前者をあだなとする流賊は現在の所、高加討1名である。自ら顕道神と名乗り形相は凶悪、身長は優に2メートルを超え20キロを超える棗木棍を振り回して明の兵士を倒す。流賊にとっては頼もしい神、一方撫地に提供された土地の農民にとっては生産物を略奪する悪神であった。後者をあだなとする流賊は現在の所5名を数えるが、さらに調べればもっと多くなるであろう。それだけ人々の生活に溶け込んだ身近な神であった。
 三番目の〈老神仙〉は修行を積んで道士となった印象のイメ-ジが強い。このあだなを付けた或は付けられた二例を紹介したが、軍師としての道士の李自旺はこのイメージにあうが、他方の事例陳士慶はやや異なる。士慶はある道士から道士を目指す資格がないと断られた。別れ際に与えられた書の道術については理解不能であったが、唯一理解できた今日でいう外科的手術の方法を駆使して生き延びた。張献忠等の流賊首から「奇効」(奇蹟的成果)を称賛され、〈老神仙〉と命名された。その儀式でも空を飛べない等、道士のイメージとおよそかけ離れていた。

 

【註】

(1)本文は『寄園寄所寄』巻上、滅燭寄〈異〉・陳士慶によった。他に方亨咸「記老神仙事」(『虞初新志』巻2)。陳士慶に関する簡略な紹介は『池北偶談』巻24、談異五〈老神仙〉にある。

(2)拙著『明代王府の研究』(研文出版、1999)第二部四章。

(さとう・ふみとし 元筑波大学)

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