日本の映画俳優と中国――国交正常化50周年の思い出

投稿者: | 2022年11月15日

劉文兵

 

 日本と中国の民衆レベルの文化交流の長い歴史において、映画交流は大きな比重を占めている。そして両国の多くの映画人・文化人がそれに携わってきた。日中国交正常化50周年に際して、四十数年前に撮影された仲睦まじい日中の映画人たちの姿が写っている一枚の写真を手に取ると、懐かしさが込み上げてきた。この写真は高倉健への憧憬とともに、中国出身の筆者が日本で映画研究の道に進むきっかけともなった。

左から中野良子、張金玲、栗原小巻、劉暁慶(敬称略)。1979年9月、北京頤和園。

 写真に写っているのは、左から中野良子、張金玲、栗原小巻、劉暁慶――当時の日本と中国のスター女優たち。撮影されたのは、1979年9月の北京だった。
 当時の中国では、この写真が雑誌の表紙や、カレンダー、ブロマイドなど、様々な形で広く流通し、巷の至る所で見掛けるようになり、蜜月期だった日中関係を象徴するシンボルとして、ある世代の中国人の共通の記憶となった。
 たとえば、写真に登場する栗原小巻の髪型とコートは大流行し、小巻スタイルの中国人女性が街中に溢れていた。数年が経って、小巻ブームはやっと落ち着いたかと思いきや、1980年代半ばに再燃した。「一世を風靡した栗原小巻の髪型は、最近になって再び流行るようになっている。30歳前後の女性たちは競って、髪の毛を結いあげて後ろでクリップで止めた」と、小説家の葉文玲は自らの作品のなかで如実に記述している(『葉文玲読本 浪漫的黄昏』、時代文芸出版社、2006)
 中野良子にかんしては、筆者には実体験がある。1990年代に来日した筆者が、日本企業の社員研修で中国語を教えていた時だった。使用した中国語の教科書は中国で出版されたもので、その中の応用問題の一つは、様々な国の人物やシンボルを描いたイラストを学生に見せ、それがどこの国の人であるかを書いてもらう課題だった。たとえば、エジプト人であれば、ピラミッドの前にラクダを引いている男性が立っていたり、中国人ならば、万里の長城をバックにチャイナドレス姿の女性が佇んだりするという具合で。しかし、日本人の場合は、富士山の前にサラサラのロングヘアーのワンピース姿の女性が立っている。そこで、困惑した生徒から「なぜ和服じゃないのにこの女性が日本人なのですか?」と訊かれた。それは上の写真の中野良子の姿をコピーしたものだったのだ。

■空前の日本映画ブーム

 周知のように日中国交正常化が実現したのは1972年で、その頃の中国は文化大革命(1966〜76年)の最中だった。そのため、日本と中国の本格的な映画交流は、文革が終結した後の1970年代後半に始まった。すなわち、1978年に中国の八つの大都市において第一回日本映画祭が開催され、高倉健と中野良子主演の『君よ憤怒の河を渉れ』(佐藤純彌監督、1976)、栗原小巻、田中絹代主演の『サンダカン八番娼館 望郷』(熊井啓監督、1974)が公開され、空前絶後のセンセーションを巻き起こした。8割の中国人がそれを観たという。
 両作品の主演をつとめた栗原小巻、中野良子も国民的な人気を博した。中国側のラブコールに応える形で、翌年の79年に二人はそれぞれ『愛と死』(中村登監督、1971)、『お吟さま』(熊井啓監督、1978)の主演作を携えて訪中した。接待係をつとめたのは、人気女優の劉暁慶、張金玲で、二人はそれぞれ栗原小巻、中野良子を担当した。北京の頣和園で散策したところがフィルムに収められ、この写真となった。
 写真に写っている四人の女優の笑顔は、当時、中国で暮らしていた小学生だった筆者にとってあまりに眩しかった。その後、映画研究の道を歩み、彼女たちにそれぞれ取材する機会をもつようになった。折に触れて、当時の様子を訊ねた。

■中国の女優の思い出

 張金玲は、2015年12月に筆者の取材にたいして、つぎのように振り返っている。
 「電影局から依頼があった際に、たいへん嬉しかったんですが、困ったことに接待にふさわしい、日本の女優に釣り合うような洋服がなくてね。当時、社会全体が貧しかった中国では、映画女優でも、私服は数着しかなかったんです。
 それでとっさに思い付いたのが、出演した映画『大河奔流』(1978)の中の、アメリカ人女性記者が着ていた、真っ赤なスーツでした。その女優の体形が私と似ていたことから、それを借りようと北京映画撮影所の衣装倉庫へ直行しまして。それで、着てみたらほんとぴったりだった。劉暁慶さんも映画衣装を借りていたんです。
 しかし、その後、頤和園の湖でボートをこぐことになったんですが、劉暁慶さんが衣装倉庫から借りたチャイナドレス風のワンピースは、なんと裾が広がらず、一人ではボートに乗れなかったため、抱き上げられて乗ったんです」。
 『西太后』(1983)、『芙蓉鎮』(1986)の主演女優として日本でも知られている劉暁慶も、2019年9月に筆者によるインタビューの中で興味深いエピソードを語ってくれた。
 「当時の中国では女性同士が親しくなると、3つの質問、つまり年齢、結婚、子どもを聞くのが普通だったでしょう? だから、最初の質問で栗原さんに年を聞くことにしました。そうしますと、栗原さんに『あなたより年上、あなたは妹ですよ』ときっぱり言われ、次の質問が出てきませんでした。当時は、まだプライバシーにたいする配慮なんかの意識が薄かったんですが、とても純朴だったわ」。
 ちなみに、二人の女優は仲が良く、また顔立ちもどこか似ていることから、当時、「まるで姉妹のようだ」と関係者の間で話題となった。筆者が栗原小巻に取材する際にも、劉暁慶の話題となると、「私の中国の妹ですね」と目を細めて優しい表情で語った。
 当時、結婚してまだ日が経ってなかった劉暁慶は、日本側関係者を新居で接待した。新居といっても狭いワンルームだった。椅子が足りなく、お客さんにベッドの縁に座ってもらうしかなかったという。その後、女優業のかたわらに実業界にも進出した劉暁慶は中国芸能界の屈指の富豪となり、米「フォーブス」誌(1999年10月)の中国億万長者番付にもランクインしたほどだ。

■ショッキングな体験と、中国映画人との強い絆

 訪中団一行が北京で万里の長城や紫禁城を、上海で魯迅公園を見学した際に、中野良子と栗原小巻を一目見たいという中国の大群衆が殺到した。中野良子は「押し寄せる人波に押しつぶされるのではないかという恐怖に襲われました。護衛官に守られてなんとか宿泊のホテルに戻りましたが、しかし、群衆の声がなかなか耳から消えません。ついには食事も喉を通らなくなったのです」と証言している。
 栗原小巻も「人々の声、その群衆の声が一つになって遠くから聞こえてくる。何かを訴えかけるように、響きわたる」と筆者によるインタビューの中で語っている。
 その後、彼女たちが中国の映画人、そして一般観客といかに強い絆で結ばれているかを、筆者も目の当たりにした。
 中国の名優・于洋は、中野良子が1987年に新婚旅行で中国に出かけた時に知り合った親友で、中野良子も于洋を尊敬し、彼が監督・主演した中国映画『大海在呼喚(海が呼んでいる)(日本未公開、1981)の主題歌「大海啊故郷(海は故郷)」を中国語で完璧に歌い上げることができるほどだ。
 2015年、二人が電話で歓談する際に、筆者は通訳を務めた。高齢に達し、車椅子での生活を強いられている于洋は「日本映画界の多くの友人は他界したので、寂しい限りです。良子さんはもう最後の日本の友人となったかもしれません」と言いだすと、中野良子は思わず泣き崩れた。
 また、2018年に、取材で栗原小巻に同行して中国東北のハルビンや、ジャムスを訪れた。地方政府は中国の文化人との座談会の場をもうけ、今後の映画交流の可能性を探る予定だった。ところが、栗原小巻が会場に現れた途端に、雰囲気ががらりと変わり、元の議題が完全に無視され、中国側の参加者は一人ずつ栗原小巻が出演した映画作品との出会いについて熱く語るようになった。栗原小巻は「美しい花束を受け取ったような幸せな気分です」と感激した。

■吉永小百合と中国の映画人

 話を写真が撮影された当時に戻そう。じつは1979年の訪中団に吉永小百合もいた。 残念ながら、出演作を携えることもなく、アニメ『龍の子太郎』(1979)の声優として加わったため、完全に栗原小巻、中野良子の人気の影に隠れてしまった。
 しかし、吉永小百合こそ戦後日中映画交流の先駆者の一人だった。彼女は1962年に訪日した中国映画代表団を、石原裕次郎とともに出迎え、1977年に木下惠介が率いる日本映画人代表団のメンバーとして訪中した。
 彼女の優しさは中国の映画人に深い印象をあたえた。1980年に訪日した女優の宋暁英によると、「セレモニーに出る前に、私の髪型を見兼ねた吉永さんはさりげなく私を、行きつけの美容院に連れて行ってくれて、そこできれいにセットしてもらった」(青木香「宋暁英――訪日瑣記」、『大衆電影』2006年第23号)
 また、吉永小百合、栗原小巻、中野良子にたいする印象を、張金玲に尋ねた際に、彼女は「三人の日本の女優とは言葉が通じないため、深い交流はできませんでした。それぞれの個性は違うように見えました。しかし、誠実で率直なところは共通していました。でもそれは、全ての一流アーティストの共通点といえるのではないでしょうか」と語っている。

第二回日本映画祭会場の大盛況。1979年、上海。

■このあとの50年、どうなるか

 戦後の廃墟から立ち上がった日本は、この50年において経済成長を遂げ、そして中国もそれ以上に急速に発展してきた。両国は豊かな社会を築き上げたが、それはまた同時にメディア環境の多様化と、人々の関心の多様化をもたらしている。そのため、今後、高倉健や、山口百恵、栗原小巻、中野良子のような、中国民衆から広く支持を集める俳優はおそらく現れないだろう。しかし、映画ばかりでなく、インターネットが生みだした様々な新メディアをもつうじて、民衆レベルの両国の交流が多様化しつつ、さらに拡大していくことを期待したい。

 *張金玲氏、栗原小巻氏、中野良子氏の証言は、それぞれ拙著『映画がつなぐ中国と日本』(東方書店、2018年)、拙著『証言 日中映画人交流』(集英社、2011年)、中野良子著『星の歌 国際交流への芽生え』(NHK出版、2000年)を参照していただきたい。劉暁慶氏のロングインタビューは未発表のものである。

(りゅう・ぶんぺい 大阪大学)

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