研究会にきく⑧ 「日本漢字学会」

投稿者: | 2025年11月14日

「日本漢字学会」について

 

設立までの経緯

 現在は(公財)日本漢字能力検定協会(以下「漢検協会」)の理事長職にある山崎信夫(以下敬称略)から、漢字を中心として諸分野を横断的に連携する学会を作ることはできないかとの相談を受けたのは、私(阿辻)が京都大学を定年退職した2017年3月前後だったと記憶する。
 漢検協会の評議員だった私は協会職員の山崎とかねてより面識があり、それまでにも何度か漢字学会設立の希望を聞いていた。しかし研究員も学生もおらず、専門的な文献や研究書さえほとんど所蔵していない組織が学会を作るという構想を、私は本気で受け取ってはいなかった。
 だが2016年6月新たに「漢字ミュージアム」を開館した漢検協会と山崎は、従来の検定業務に加えて研究面での充実を目指し、「漢字博物館は全国に例を見ない画期的な施設であり、研究組織も図書館も備わっているから、そこを本拠地として漢字文化振興を企図する学会を作りたい」と考え、全国の著名な漢字研究者に学会創立の発起人になってもらえるように声がけしてほしいと、「本気ですか?」としぶる私に「懇願」してきた。
 中国語学中国文学専攻学科を卒業した私には、中国語・漢文・中国史を研究する「漢字研究者」の知人がたくさんいる。しかし日本語学を研究する方ももちろん漢字研究の中心に位置するし、他にも学校教育や書道、印刷出版業界、さらに近年では情報学など、漢字に関係する領域は広範であり、「漢字研究者」は世間に無数にいる。そのことはほかでもなく「漢字学会」が膨大な領域を管轄しなければならないことを物語っていた。
 それでも依頼に根負けして、何人かの知人と相談して発起人候補をリストアップし、漢字学会設立発起人に名を連ねることを要請したところ、ほぼ全員から快諾をいただけ、2017年10月29日に、祇園・漢字ミュージアムで「発起人会」を開催することとなった。

 

設立総会

 発起人の中には積極的な賛意を示す方もおれば、「作るのなら手伝ってもいいよ」くらいの方もおられたが、反対する方は一人もおらず、話が順調に進んで、2018年3月29日、折しも古都の桜満開の日に、京都大学の百周年時計台記念館で日本漢字学会設立総会が開催された。
 設立総会には研究者や大学院生、印刷・出版に携わる企業や団体、そして漢字を愛好する方々約300名が集まった。挨拶のあと、事務局長から提案された会則(案)が承認され(会則は https://jsccc.org/about/constitution/ を参照)、それまでの経緯から、初代会長として私が選出された。
 続いて同じ会場で「漢字学の未来を考える」と題するシンポジウムが開催され、阿辻の他、池田証寿・小倉紀蔵・笹原宏之・清水政明・山本真吾が、それまでの研究の歩みと今後の漢字研究のあり方に関する所感などを語った。この時の詳細な内容は、『漢字学ことはじめ』(2018年12月 日本漢字能力検定協会)にまとめられている。

 

これまでの活動① 研究大会と講演会について

 設立総会で承認された会則に基づいて、日本漢字学会第1回研究大会が2018年12月1日(土)2日(日)に京都大学総合人間学部棟を会場として開催された。関係者一同は(いったいどれくらいの参加者と研究報告が集まるか?)とひそかに心配していたが、2日間で会員・非会員延べ約300名が参加され、研究報告も口頭発表15、ポスター発表2の合計17編と、まずまず満足すべき状況であった。
 初日の研究発表に続いて、2日目には「電子版漢和辞典のいま」と題するシンポジウム(司会阿辻 パネラーKADOKAWA・学研プラス・三省堂・大修館書店)と、印刷博物館長樺山紘一による記念講演「漢字明朝体の来た道」がおこなわれた。この時の講演も含めて、以後の研究大会で開かれた講演会の概要はすべて学会通信誌『漢字之窓』に掲載されている。

 

 この時の、研究発表のあとに記念講演会という形態がそれ以後に引き継がれ、学会活動の主要な部分を形成することとなった。第2回研究大会以後現在にいたるまでの研究大会の会場と講演などは、以下の通りである。

第2回 東京大学駒場キャンパス
 シンポジウム 字体と造字法の創造力」-漢字文化圏の周辺部より問う-
 講演 エスニック・マイノリティを巡る漢字の学習と教育─香港の小中学校の事例を通して考える- 香港大学教育学院准教授 戴忠沛(Dr. TAI Chung-pui)
第3回は「コロナ禍」によりオンライン開催(シンポジウム・講演会は開催せず)
第4回 立命館大学大阪いばらきキャンパス
 講演 出土文字資料から描く 古代日本・朝鮮の文字文化 人間文化研究機構機構長/国立歴史民俗博物館名誉教授 平川南
第5回 早稲田大学早稲田キャンパス 大隈小講堂
 講演 漢字を愛しく感じながら。。。。作家 阿刀田高
第6回 京都大学吉田南キャンパス
 講演 中国書法の伝来と展開ー書の楽しみと魅力ー 国立文化財機構理事長 島谷弘幸
第7回 東京外国語大学府中キャンパス
 講演 国名漢字考 筑波大学名誉教授/聖徳大学名誉教授 林 史典

これまでの活動② 『漢字文化事典』の刊行

 研究大会とは別に、日本漢字学会は漢字研究に資する書物の編集と刊行も活動の一環とし、最初の成果として2023年11月に丸善出版から『漢字文化事典』(648頁)を刊行した。
 1869年創業で、76年から出版事業もはじめた老舗丸善は、主に理工・医学系の専門書や事典、大学テキストなどを刊行してきたが、近年は人文社会科学系の事典にも力を入れ、『応用心理学事典』(2007)、『文化人類学事典』(2009)、『宗教学事典』(2010)などを刊行してきた。
 第1回研究大会が無事に終了してまもないころ、その丸善から私に電話があって、先方が「ご無沙汰しています。丸善の小林秀一郎です」と名乗った。
 小林氏とはかつて『知的生産の文化史:ワープロがもたらす世界』という本を作ったことがある。1990年頃から刊行がはじまった「丸善ライブラリー」というシリーズに何か書けとの依頼で、当時社会にめざましい勢いで普及しつつあったワープロ専用機と、日本語表記での漢字の「書かれ方」を私なりにまとめたのが上記の小著で、刊行は1991年のことだった。当時の小林氏は大学を卒業したばかりの初々しい編集者だったが、東京で約20年ぶりに会った小林氏は、丸善出版の部長として数多くの事典や専門書を手がける敏腕の編集者になっていた。
 閑話休題、小林氏からの電話は、同社の事典シリーズにこのたび「漢字」を取りあげたく思うので知恵を貸せ、ということだった。
 このような事典は多くの研究者による分担執筆になるので、企画にふさわしい関係者を集めてほしいと小林氏はいう。いっぽう大学を定年退職したばかりで、「今後は楽隠居!」とあちこちに吹聴していた私は、これ幸いと成立したばかりの「日本漢字学会」に話を振ることとした。
 手順として、まず丸善出版からの提案として学会の理事会に諮り、賛同と執筆の協力を取りつけると、続いて何人かの方と相談して選んだ編集委員候補者と個別に交渉して承諾をもらい、2018年7月23日に第1回編集会議を漢検協会の会議室で開催した。
 これ以後の具体的な編集作業は割愛するが、この事典の編集作業はこれからあと、東京大学大学院教授吉川雅之を中心に進行した。2020年9月頃から多くの研究者に執筆を依頼したが、吉川の熱意ある運営にもかかわらず、この種の書物での常態として編集の進行はしばしば難渋し、停滞したが、3年間の編集校正作業を経て、2023年11月に完成した。
 刊行された『漢字文化事典』は、漢字と関連事項を中項目として記す事典で、10章243項目について第一線の研究者が執筆した。内容は「小学」に関わる伝統的な項目から、漢字関係文献や出版、書道・デザイン、教育や言語政策など他分野にわたり、さらにIT技術との関係なども取りあげた、学際的な事典となっている。いま漢字学会から外部に発信できる、現段階での最高の成果がここに凝集されている、と漢字学会の関係者は自負している。

 

今後の課題

 「団塊の世代」に属した人々がすべて「後期高齢者」となり、あらゆる領域で高齢化が深刻な問題となっている。日本漢字学会でも、これまで大きな研究成果をあげ、教育と指導面でも優れた後継者を次々に送りだしてきた先達たちが、「年齢」というあらがいがたい事由のために、学会を去っていかれる。
 日本各地の教育機関では今も高度な専門教育がおこなわれ、多数の若い学徒が日々研鑽を積んでおられることは間違いない。そしてそれぞれの分野でそれらの人々が将来大いなる成果をあげるであろうことは確実なのだが、問題はその絶対数で、とどまることを知らない「少子化」がもたらす事態が、あらゆる学界においてこれから深刻になっていくだろう。
 「花いちもんめ」の遊びなら欲しい人物を指名して、自分の世界に取りこむことができるが、現実はそうはいかない。だから各学会の今後の消長と盛衰は、自分たちが展開する学問世界が、将来を担う世代からいかに魅力的に感じられるかという点にかかっている。
 つまり「おもしろい学問」をいかに魅力的に展開できるかが、学会と学界の未来を左右することになる、と私は考える。



*本会ホームページ :https://jsccc.org/

(日本漢字学会 副会長 阿辻哲次)

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