あだなからみる明終末期の陝西流賊(十二)

投稿者: | 2022年5月16日

“世” “地” “山”等を含んだあだな・上

佐藤 文俊


 まず表題の意を含んだあだな事例を示そう。

「地」:掃地王、不著地
「世」:争世王、闖世王、乱世王、混世王、渾世王、平世王、掌世王、治世王、改世王、整世王、安世王、哄世王、聖世王、興世王
「山」:満山紅
「江」:過江王

 列挙したあだなからも、第十回の〈天字を含むあだな例〉と同様、熟語となっている用語を含めて掃・争・乱・改・混・治等の語が冠されているものが多く、現世の状況への不信・不満が表明されている。

■事例研究

〈掃地王〉
 「掃地」とは「きれいになくなる、影もとどめない」(『大漢和辞典』)のごとく、この世或いは地上の秩序に対する徹底した不信、破棄を表明している。このあだなの事例は、明終末期の流賊4例及び清初の順治年代の土賊3例を含めると7例が知られ、明終末期における華北民衆の不満を適確に表現していた人気のあだなといえよう(1)。但しあだなをつけた当人の反乱前及び流賊参加後の活動内容は不明な場合が多い。以下、順に記してみよう。

1、氏名不詳
 崇禎4(1631)年12月、総兵・曹文詔率いる明軍に殺害された陝西流賊首のあだな掃地王が、呉偉業『綏寇紀略』巻1に見られる。
2、聞人訓
 西安府長安県の人。崇禎元年に乱に加わり、やがて李自成の部下となる(計六奇『明季北略』巻23)が、詳細は不明である。
3、曹威
 崇禎初年より乱に参加したと思われるが、掃地王が曹威と確認できる史料は崇禎12(1639)前後の、流賊首の投降が相次ぐ時期である。「初め、左帥(左良玉)の降将曹威等、許州に反す」(鄭廉『豫変紀略』巻3)とあって、明の有力軍閥左良玉に投降しその軍に編成され、彼の居地、河南開封府許州に置かれていたと思われるがそこで再反乱する。これを知った左良玉に追跡され、戦闘するものの13年2月、曹威軍で内訌が発生し内部崩壊の末敗れる。曹威は脱出して近隣にいた張献忠軍に投じる。
 同月、張献忠軍との瑪瑙山の戦いで明軍は大勝利をした。張献忠軍は手痛い打撃を被り多くの犠牲と明軍への投降者を出す。その「斬・獲首級者二千二百八十七顆」内に「大頭目」掃地王等も含まれていた(『楊文弱先生集』巻39〈飛報瑪瑙山大捷疏〉)。別の史料では「陣前で斬る」(『豫変紀略』巻3)、「左(良玉)二千二百人を斬首す。内に掃地王・曹威、白馬・鄧天王等十六級、皆賊将」(『綏寇紀略』巻7、同内容は『明史』巻273左良玉伝等)とあって、左良玉軍に斬殺されたと考えられる。
4、張一川
 いつ乱に参加しどのような活動をしていたかに関する初期の状況は不明である。流賊首として独立した後、闖王・高迎祥等と連動し、崇禎8(1635)年には高迎祥に従い、明の開祖洪武帝(朱元璋)の出身地である鳳陽城攻撃に参加した(2)。その後は安徽、河南、湖北等の省境を流動していた。崇禎11年12月、陝西巡撫・孫伝庭の上奏には、河南の裕州、唐県、泌陽県周辺にいた「四大営賊」の闖塌天、老回回、掃地王、興世王は、「けっして人を殺さず、火を放たず」、ともに裕州に在って真偽の程はわからないが官の招撫を求めているとある(「報流寇自蜀返秦疏」『孫伝庭疏牘』巻2)
 崇禎12年、張献忠は前年に投降してから1年間、明の投降条件(明軍への編入等)を無視して十分な休息と準備をしてから再蜂起し、羅汝才等掃地王(張一川)を含む九営もこれに続いた。明軍の攻撃を受け羅汝才が直接張献忠と行動を共にしたのに対し、張献忠の組織的併合を警戒していた有力掌盤子、過天星(恵登相)や掃地王(張一川)等八営は各々明軍と戦ったが、崇禎13年7月、相次いで投降した第十回〈過天星〉2、恵登相参照)
 明軍の総帥である楊嗣昌は投降した有力掌盤子の過天星、掃地王の処置を次のように決定した。過天星(恵登相)は左良玉軍にその精鋭を編入し、連れていた家族(「老弱」)は鄖西に定住させた。一方の掃地王(張一川)は、楊嗣昌によりその軍事的才能が評価され、下級官としての湖広永州府推官から楊嗣昌の軍事参謀に抜擢された万元吉の軍に編入された(3)。13年12月、張献忠との闘いに楊嗣昌指揮下で参謀万元吉軍の一翼として参加するも、四川保寧府梓潼県での戦いに敗れ、張献忠軍に捕らえられ最も残酷な処刑を意味する、凌遅刑(「剮」)に処された。万元吉はその死を憐み妻子を夷陵県(湖広荊州府)に置き扶助した(4)

 以下に掲げる5~7のあだな掃地王に関する3事例は、明終末期の主要舞台となった華北で活動した大きな土賊である。旧中国の華北社会は経営地主や自作農層が広く存在したといわれるが、明終末期、天災・飢饉の連続、清朝の侵出等で、里甲制に編成され過重な賦役を担当させられていた農民層の再生産が破壊され、王朝の支配体制が機能しなくなり混乱が拡大した。支配層は都市を防衛拠点とし、農村・山岳では各階層(紳士・地主・土豪・小農民・鉱山の民等)(5)により山寨・堡寨での自衛がなされた。破産した農民は流民化するが、かろうじて郷村に残る小農層は有力土豪を頼ることになる。こうして一歩郊外の農村・山岳にでると、土賊的勢力が乱立することになった(6)。なお流賊があだなをつけるのは、その出身と出自をカムフラ-ジュする意味を含んでいたことは第二回で述べた。一定地域で活動する土賊首の場合、その出自・出身は自明であり、むしろ権威付けの意味が強かったと思われる。

5、氏名不詳
 満洲鑲紅旗に属す葉臣は、順治元(1644)年に入関し山西を鎮撫する。ついで現在の河北省真定府定州に到り、掃地王を名乗る地方反乱集団の土賊を討った(『清史稿』巻233)
6、宋二烟
 明清交代期、明の地方官や支配層が踏み込むことができない大土賊の支配地域が、山東西南部の農村から山岳地帯に成立していた。これらの土賊は「積年の巨寇」「十余年の老巣」「賊二万余」といわれ、崇禎年代に成立していた。満洲族の清は中国に進出した当初、山東・河北等の経営に力を入れていた。特に江南の物資を北京に運ぶ漕運路の確保は重要であった。李自成の大順政権もこの地域に地方官を派遣していたので、大土賊の一部には反清の意味を込めて「旗幟の上に闖賊の年号」である「大順」を大書するものも出現していた。
 順治3(1646)年9月、漕運地帯を掌握する総責任者、「河道総督」楊方興を筆頭に、河北・山東の清軍は民間の郷兵を動員して、山東済寧州嘉祥県の満家洞に拠る「積年の土寇」の一人、あだなけい天大王(本名、宮文彩)を掃討するため総攻撃をかけた。宮文彩は連携する他山の巨寇の拠点に移動して抵抗したが10月には敗れた。その連携した大土賊の中に、韓家に拠る掃地大王(宋二烟)がいた。彼に関する詳細は不明である(7)
7、李奎
 清の支配がまだ安定しない順治5年、陝西西安府商州鎮安県魔王坪等の山岳地帯は「久しく盗賊の出没」する場所で、「逆寇」掃地王(本名、李奎)等が盤踞し恣に掠奪をおこなっていたという(8)

 

【註】

(1)明の中期の正徳年代(1506~1521、正徳1~16)は、国家と社会の混乱時代であったが、この時代にもあだな掃地王が見られる。正徳10年から12年にわたり、劉六・劉七率いる大規模な農民反乱が山東から華北全域に拡大した。正徳5年春、四川保寧府にも「衆十萬余」を擁し陝西から湖広にいたる境界に跋扈していた集団がいた。その中にあだな掃地王を冠したりょう恵なる賊首がおり、また彼の上司たる賊首の藍廷瑞は順天王を名のり、えん本恕は刮地王を称した(『明史』巻187、列伝75、洪鐘伝)。さらに山西には「巨盗」混天王の存在を伝える(同巻188、列伝76徐暹伝)。明終末期の動乱のミニ版ともいえる時期であるが、反乱とあだなの関連を示す事例と考えられる。
 なお1930年代の軍閥混戦期、山東の巨匪劉桂堂が混世魔王を名乗っていたという(福本勝清『中国革命を駆け抜けたアウトローたち――土匪と流氓の世界』中央公論社、1998、第二章)。

(2)李文治『晩明民変』(中華書局、1948)第三章。

(3)『懐陵流寇始終録』巻12、文秉『烈皇小識』巻6、呉偉業『綏寇紀略』巻7。

(4)張一川の記述は次の史書によった。『明史紀事本末』巻75、『烈皇小識』巻3、管葛山人輯『平寇志』巻3、呉偉業『綏寇紀略』巻7等。

(5)佐藤文俊「大順地方政権の研究」(拙著『明末農民反乱の研究』研文出版、 1985。第一章三節)。

(6)佐藤文俊「〈土賊〉李青山の乱」(前註5拙著、第二章一節)。同「清初における土寨的秩序の解体――山東・河南を例として」(『山根幸夫教授追悼記念論叢 明代中国の歴史的位相』下巻。汲古書院、2007)。

(7)以上の記述は楊方興の二つの上奏文、「河道総督楊方興掲帖」(順治元年九月、『明清史料』甲一)・「河道総督楊方興題本」(順治三年十月、『明清史料』丙六)によった。なお前註6、拙稿「清初における土寨的秩序の解体――山東・河南を例として」を参照されたい。

(8)「28阿哈尼堪為魔王坪獲捷事題本」『清代檔案史料叢編』第六輯、中国第一歴史檔案館編。中華書局、1980。

(さとう・ふみとし 元筑波大学)

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