中国蔵書家のはなし 第Ⅱ部第5回

投稿者: | 2022年5月16日

蔵書家と蔵書の源流 ─山東省─(5)

髙橋 智

 前回は、孔継涵について、大変珍しい趙岐注孟子のテキストを翻刻したことが特筆される蔵書家であったことを述べた。加えて、第1回で記したように、その孔継涵刊本が上梓されたのと同じ時に、やはり山東で、同じテキストをもとに趙岐注孟子が翻刻されていたということもまた特筆されなければならないと思う。その出版に与ったのが、山東安丘(今の山東省安丘市)の韓岱雲という人であった。この人は蔵書家辞典などには出てこない人物であるが、蔵書家に纏わるこのような立派な書物文化人がいたということも忘れてはならないであろう。
 孔継涵と韓岱雲は相知る関係では無かったにも関わらず、ともに『孟子』の趙岐注本に関心を寄せ、その原型に近い宋本に基づいて、同じ山東の地で、同じ時期に、校勘翻刻を行ったという事実は、何とも不思議で仕様がない。違いと言えば、孔継涵刊本は比較的伝本が多いのに対して、韓岱雲刊本は伝本が少ない。因みに後者で私が目睹し得たのは4本に過ぎない。その内の、中国湖南図書館所蔵本は、「安丘/韓氏/家蔵」という蔵書印を捺し、韓岱雲自身の手沢本であった。これは後に葉徳輝(1864~1927)に帰し、葉氏ゆかりの地、湖南にあるわけである。話は逸れるが、慶應義塾大学の斯道文庫が所蔵する孔継涵刊本も、葉氏旧蔵から転々としたものである。それにしても『書林清話』で有名な蔵書家葉徳輝は、よほど精緻な鑑識眼を持った文献学者であったのであろう。旧蔵の清刊本の、精刻美麗・校訂精善は目を見張るものがある。
 ともあれ、南宋時代の初め(12世紀)、四川で刊刻された儒教典の所謂蜀刻8行大字本(毎半葉が8行)と呼ばれるシリーズの一つ、趙岐注孟子14巻が彼らによって初めて世に明かされたのである。本版は、後漢の趙岐(?~201)が記した『孟子』諸篇の総括である『孟子篇叙』が遺る唯一の伝本で、趙岐注の旧姿を遺す貴重な遺品であった。明時代中期、前回でもふれた山東章邱の李開先(号中麓 1501~1568)が所蔵していたようで、清代の初めになると、河北省真定の梁清標(号焦林 1620~1691)という収蔵家のもとにあった。乾隆34年(1769)の時、その子の梁用梅が北京の宅に所持しているところに、孔継涵は訪問したが、借り受けることができなかった。
 その後、希代の宋版は、清の内府宮中に入り、清末に至ったようである。中華民国時代の初め(20世紀初)、商務印書館によって影印された(『続古逸叢書』後に『四部叢刊』にも収載)が、原本は何者かによって持ち出され、傅増湘は『呂亭知見伝本書目』のなかで、「余嘗て数巻を張岱杉のもとに見る、已に離析す、惜しむべきの至りなり」と記している。原宋刊本が失われた今となっては、この影印本のみならず、その流伝経緯を物語る孔継涵・韓岱雲の翻刻本の存在意義は贅言を俟たないであろう。
 さて、孔氏韓氏は如何にしてこの宋刊本の面影を知りえたのかと言えば、これを忠実に写しとった影鈔本の存在であった。やはり清時代の初め、著名な蔵書家・毛氏汲古閣の毛扆(字斧季 1640~?)は汲古閣の優れた写本技術をもって、梁氏所蔵宋刊本の影鈔本を作っていた。それが何焯(1661~1722)や徐乾学(1631~1694)の手によって、やはり宮中に入り、やがて戴震(1723~1777)が『四庫全書』編纂のために内庫からこの影鈔本の副本をとり、李文藻(号南澗 1730~1778)と孔継涵に与えたという経緯であろうと思われる。孔氏がこれに接したのは、戴震が北京に来た乾隆38年(1773)、同様に韓氏が接したのは、李文藻が出版の志を遺して遂げず、没して2年後に、弟李文濤が兄の遺志を継ごうとした時であった第2回李文藻の項参照)。李氏の故郷・益都(今山東省青州)の人士の募金によって上梓されたのである。その際に、韓岱雲はその費用の半分を、田畑を売って賄ったという篤志の人であった。
 後漢の趙岐は、『後漢書』列伝第五十四によると、当時権勢を誇った唐氏の禍に遭い属親が殺められた。ために、四方に難を避け、北海の地(今の山東省寿光市近辺、黄河の河口に近い所)で餅売りをして身を窶している時に、孫嵩(字は賓石)が通りかかり、この餅売りをただ者ではないと見破り、家に迎えて饗応し、かくまったと伝える。韓岱雲は、本版の跋文で、この時より趙岐の著書が孫家に蔵されたとし、一千数百年を経て、今、同じ山東の地で『孟子』趙岐注本が上梓されて日の目を見ようとしているのは、偶然とは思われない、と述べ、そして、孫嵩の墓は益都の西南、牟山の辺りにある故に、そこに趙氏孫氏の祠を建てて祀り、本書の版を納めてあげたいものである、と結んでいる。故郷の縁から生まれた佳話であるが、蔵書文化は何より人が創りあげるものであるとつくづく考えさせられる。なお、この韓氏翻刻本には、当時益都の知県であった周嘉猷(乾隆22年進士第三甲一名)の跋文があり、刻版の経緯を記している。

清乾隆46年(1781)韓岱雲刊本『孟子趙注』巻1首
韓岱雲刊本の周嘉猷跋

(たかはし・さとし 慶應義塾大学)

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