中国蔵書家のはなし 第Ⅱ部第2回

投稿者: | 2021年11月15日

蔵書家と蔵書の源流 ─山東省─(2)

髙橋 智

 まず、李文藻(号南澗 1730~1778)について見てみよう。
 益都(今の青州市)の人。あざなは素伯、幼少にして神童と崇められ、山東の郷試で、著名な考証学者・竹汀先生銭大昕(1728~1804)を驚かせ、乾隆26年(1761)進士となった。第二甲九名。この年の探花(第一甲第三名)に『二十二史箚記』で有名な甌北先生趙翼(1727~1814)がいた。李氏は乾隆34年(1769)広東恩平県の知事に任命されることになり、任命を受けるために北京に滞在した。5月末から11月初までの5ヵ月余り、北京の寓居で本を写す日々が続き、暇をみては琉璃厰に本を訪ねていた。
 『琉璃厰書肆記』一篇はその時に記したものである。今、繆荃孫(1844~1919)の『琉璃厰書肆後記』とともに、中華民国14年(1925)陳乃乾刊本に収められている。また『琉璃厰小志』(孫殿起編 北京古籍出版社 1982)にも標点が加えられていて容易にみることができる。これは1500字あまりの小文であるが、内容を読むと当時の古書流通が眼前に浮かぶようである。それぞれの書肆の場所やそこが扱う本などをつぶさに記し、各書肆の特徴を評していて、興味は尽きない。

 ここに少しく紹介しよう。琉璃厰の様子は、書肆だけではなく、骨董や試験用の文具、表装、印房、眼鏡、煙筒等々、今と変わらぬ活気を伝える。李氏は、金氏文粋堂(蘇州の謝氏が司る)から『宋通鑑長編紀事本末』等の鈔本多数を購入したという。また、李氏先月楼には内府刊本が並んでいた。周氏宝名堂は果親王府の書2000余帙が並んでいた。この果親王府は、清の王府の中でも有数の蔵書を誇り、康熙帝の17子、允礼(1697~1738)が雍正6年(1728)に受封し、後に雍正帝の6子弘瞻(1733~1765)が受け継いだ。弘瞻は詩文を善くし、その蔵書は怡親王府の弘暁(明善堂)と並び称された。しかし、乾隆28年(1763)乾隆帝の不満をかい、降爵、王府を転居した。おそらくその時に処分された蔵書が並んでいたのであろう。さすがにそれらは装丁が精美であったという。そのなかから、鈔本『読史方輿紀要』等を購入した。また、宋刊本『温公書儀』や鈔本『冊府元亀』『明憲宗実録』等も目睹した。これだけでも、果親王府の蔵書の精を想像することができるというものである(『東方』469号第7回参照)
 他に韋氏鑑古堂は科挙応試の際に許多の古籍を揃えていたが今は延慶堂劉氏となっていて、そこには曹楝亭の書、数十部を備えてあった。曹氏、名は寅(1658~1712)、『紅楼夢』の著者曹雪芹の祖父。曹楝亭は同時代の朱彝尊(1629~1709)と交わり、朱氏曝書亭の蔵書を抄写して副本を揃えていたほどであった。この書肆で目睹したものに、鈔本『太平寰宇記』『三朝北盟会編』『後漢書年表』等、宋刊本『毛詩要義』『楼攻媿文集』等があった。これらはみな、楝亭から甥の曹昌齢に渡ってきたものであった。

 また、当時琉璃厰で有名だった蔵書家に、査瑩(浙江海寧の人、乾隆31年進士)、李鐸(山東寿光の人、乾隆28年進士)があり、師の四庫全書総纂官・紀昀(1724~1805)は韋氏鑑古堂から数千金を払って古籍を購入していた。琉璃厰で本に詳しいのは、陶氏五柳居、謝氏文粋堂(前述の金氏文粋堂)、そして韋氏で、韋は湖州、陶・謝は蘇州人で、その他は江西金谿の人が多かった。
 それから、隆福寺等の境内で行われる書会も、書賈が多かったがほとんどは不全の残本を扱っていた。「《儒蔵説》」で有名な周永年(1730~1791)(次回待読)は李氏の三十年来の友人で、不全本を好んで購入した。李文藻は思っていた。不全本ももともと揃っているもので、何度も通っているうちに完本に揃えることができるものだ、と。李文藻・周永年は書物の志向も同じで、ともに老韋に教えを受け、朝から晩まで琉璃厰で本をめくり、服を質に入れては購書に努めた仲である。周氏は、李氏の没後、李氏が出版した家刻本の版木を用いて『貸園叢書初集』を印刷している。
 韋氏はというと、やせ細った顔つきで、齢七十を超えているが、学者に本を紹介するときも、一見、その人がどんな書を好むかをみきわめて本を出すが、けして値引きはしなかったという。
 李文藻によって集められた蔵書は数万巻に達し、蔵書処は竹西書屋といった。どれも皆手校(自筆の批校)が加えられていたという。紀昀の家で、恵棟(1697~1758)の『易』関係の諸書を手写、写し録した時も、汗がしたたり衣服がびしょびしょになっても苦としなかったと。こうした借録本をもとに、恵氏『九経古義』『易例』等を上梓している。また、前回述べた韓岱雲の跋文のある『孟子趙岐注』は、李文藻が宋刊本の写しを戴震(1723~1777)から提供された後、任地であった桂林に携え行き、校訂して新たな出版を期したが不幸病没に至り、弟文濤等が遺志を継いで上梓したものであった。孔継涵本とともに同じテキストに基づく『孟子趙岐注』の最良の課本となった。
 銭大昕の記した墓誌銘には、「蔵書も金石碑文の蒐集も詩文においても、また交誼においても自分よりはるかに上回っていた」と記す。著には『南澗文集』(『功順堂叢書』に収めるが他に稿本もある)等がある。蔵書印に「李生」「文藻」等があり、印影は近著『大連図書館善本古籍蔵書印鑑輯考』(王雨林 広西師範大学出版社 2017)に見える。

琉璃厰書肆記 巻頭

(たかはし・さとし 慶應義塾大学)

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