歴史上、伝承上の人名をつけたあだな・その1
佐藤 文俊
■民衆はどのようにして、歴史・伝承上の人物を知るのか
文盲に近い民衆に関するこの問題については、『東方』479号(第三回「あだなの具体的な考察の前に」)等でも触れたが、澤田瑞穂氏は民国初年の木刻唱本の『採茶』内の採茶歌(ちゃつみうた)の分析によって「民衆の知識の中にある歴史人物は、虚実を問わず、すべて演劇・鼓詞・弾詞・小説から出たものである」という(1)。一部を紹介してみよう。茶摘み歌は茶葉の成長から摘み取りまでの14か月間の各月を口説(くどき)や音頭のような形にして興味をひくために、誰でも知っている物語中の人物を登場させている。正月(採茶新年)には、李翠蓮(『西遊記』)。二月は、樊梨花(『説唐伝』)・穆桂英(『楊家将演義』)・劉金定(『趙太祖三下南唐』)。‥‥五月には、董卓・呂布・貂蝉(いずれも『三国志演義』)。六月は、秦叔宝・薛礼(薛仁貴)(『隋唐演義』・『説唐伝』)。‥‥八月は、李晋王(李克用)・李存孝・王彦章(いずれも『残唐五代史演義伝』)。‥‥十月は、紂王・妲己・(周)武王(『武王伐紂平話』・『封神演義』)。十一月は、薛仁貴。‥‥十四月は、母夜叉孫二娘(張青〈清〉の女房)・武松(いずれも『水滸伝』)等である。
■収集した人物名
(ⅰ)『三国志』『三国志演義』『隋唐演義』『残唐五代史演伝』『西遊記』『封神演義』等関連の人名(2)は以下のごとくである。
盗跖(柳盗跖)。曹操(曹操王、賽曹操を含む。以下同様)。張飛(老張飛、奔張飛)。関索(老関索、賽関索、朱関索)。馬超(賽馬超)。薛仁貴(白袍将軍)。秦叔宝(秦瓊)。尉遅敬徳。李靖(王)。黄巣。李在孝。焦賛。哪吒。
(ⅱ)『水滸伝』関連(上記の書と重なる人物もあり)
托塔天王=晁蓋、呼保義=宋江(1位、宋江が九天玄女から授かった『天書』による梁山泊108人の順位。以下同じ)、花栄=小李江(9位)、花和尚=魯智深(13位)、黒旋風=李逵(22位)、九紋竜=史進(23位)、挿翅虎=雷横(25位)、混江竜=李俊(26位)、浪裏白跳=張順(30位)、関索=楊雄(32位、『三国志演義』参照)、燕青=浪子(36位)、尉遅=孫立(39位、『隋唐演義』参照)、魔雲金翅=欧鵬(48位、本連載第九回参照)、一丈星=扈三娘(59位)、混世(魔)王=樊瑞(61位、本連載第十三回参照)、小覇王=週通(87位)、金銭豹子=湯隆(88位、本連載第八回参照)、一枝花=祭慶(95位、本連載第九回参照)、小尉遅=孫新(100位、『隋唐演義』参照)、険道神=郁保四(105位、本連載第十四回参照)。
現在の所、(ⅰ)では13種、(ⅱ)では20種の人名を収集したが、尉遅は『隋唐演義』で1名、『水滸伝』で2名挙げているのでこれを1種と数えれば、人名は計31種である(3)。
事例研究
A 曹操をあだなとした事例 羅汝才
明終末期の流賊首で曹操をなのった者は複数いると思われる。以下の史料はかつて『東方』478号(本連載第二回)の拙文註(2)に掲げたものであるが、行論の必要上再録したい。1636(崇禎9)年、「後、逆賊委於(六月)二十九日辰時、馬賊数万…、歩賊約四万…、係闖塌天・曹操・九条龍・馬超・闖王・順天王・賽曹操(曹操もどき)・混天星等営之賊…」(「兵部為飛報〈荊門〉大捷事」『起義史料』)とあって、曹操・賽曹操と二人の賊首がいたことがわかる。曹操を名乗った者のなかで実名のはっきりしているのは、最終的に三大流賊首(掌盤子)の一人となった羅汝才のみなので、彼について検討していくことにしたい(4)。
■後漢末の曹操(字、猛徳)のイメ-ジ
曹操は後漢末の大混乱を収拾すべく多彩な才能を駆使して中国統一を目指すも、208年、赤壁の戦いで孫権・劉備連合軍に敗れ、魏・呉・蜀の三勢力鼎立から三国時代(~280)突入の基礎をつくる。
曹操の歴史的評価は変遷するが、その英雄性は一貫している。『正史 三国志』では著者の陳寿は時代の傑出した英雄(「非常之人、超世之傑」〈魏書・武帝紀第一〉)といい、『三国志』の註(二)で人物鑑定家許子将が「治世の能臣、乱世の姦雄」(孫盛『異同雑語』)と評している。三国の史実は講談等の民間芸能で語り伝えられ、金・モンゴル等異民族の圧迫下、特に南宋時期の朱子学では劉備が漢室の正統を継いだとする観点のもと小説『三国志演義』が現れ、明の嘉靖年代には『三国志通俗演義』、以後『李卓吾先生評三国志』が刊行され人々の間に浸透していく。『三国志演義』では曹操は漢を奪う希代の奸雄・逆賊(「奸絶」)と位置付けられる。清代、人気を誇った通行本、毛宗崗批評『三国志演義』では曹操批判を一層強めるが、正統の主役劉備の敵役としての曹操は「姦雄と英雄という二重性を持つ存在」(井波律子『三国志演義』第4章)としてえがかれた(5)。
■流賊曹操(羅汝才) 流賊史中の曹操
まず流賊首(掌盤子)羅汝才の軌跡について整理してみよう。残念ながら史書に羅汝才の出身地、出身階層について詳細にふれているものはない。「延安の人」(『国榷』巻99)で、崇禎初年「(張献忠は)羅汝才と同に起つ」、崇禎3年「米脂の賊張献忠、拠る所の十八寨、兵の至るを聞き、詭りて降るを乞う」(いずれも呉偉業『綏宼紀略』巻10)等の片言から、延安府の人で米脂県の山寨で張献忠と共に乱に参加していたことが知れる。なおこの十八寨では「而して(羅)汝才はその巨魁にして、自ら曹操と称す」(『豫変紀略』巻7)のように、羅汝才は張献忠に並ぶ有力な寨主であったという。その後陝西流賊の主力は明軍の討伐を受けて、黄河を渡河して山西に移る(6)。
すでに触れたように大小の賊首は掌盤子と呼称し、明側の軍事力が優勢な時期には大規模流動に相応しい、独立した軍事・生活組織を作り上げていた(『東方』477号:本連載第一回)。各掌盤子は、明軍による攻撃が集中すると山中に分散し、時には明の招撫を受け入れた。明軍の圧力が弱まると適宜集合して、明側に対抗して都市を襲って糧食、馬・騾馬等を補給した。これら多数の賊首(掌盤子)達は、機会を見て情報交換を行ったがその際、リーダー的役割を持つ掌盤子が選出された。例えば崇禎4(1631)年の山西での紫金梁(本名、王自用)、崇禎8年の闖王(本名、高迎祥)などである。高迎祥は陝西・山西・河南・湖北・四川等長江以北を大流動しながら「分」・「合」を繰り返す、流賊時代の象徴的存在であった。曹操(羅汝才)は、張献忠と共に闖王(高迎祥)と行動することが多く、羅汝才集団もこの時期の流賊の典型的性格を持つ(詳細は後述)。
崇禎9(1636)年7月、闖王(高迎祥)が犠牲になった後、流賊側は大混乱に陥る。羅汝才は張献忠等と行動するが、特に過天星・恵登相等八営と行動を共にする機会が多くなる。その後、洪承疇や孫伝庭指揮下の明軍による集中攻撃で流賊側はさらに混乱する。崇禎11年、有力掌盤子闖塌天(『東方』480号:本連載第四回)が招撫を受けて投降し明側の戦力に組み込まれ、同年に有力掌盤子張献忠、羅汝才と彼の仲間も投降する。後者は明の現地の総責任者、「総理」熊文燦の主撫政策を利用して、自軍を解体することなく、しかも明朝からの補給を受け、翌12年5月に再蜂起する。
崇禎11年から12年は流賊の低迷期であるが、明朝にとっても困難な課題が生じた。崇禎9年、満洲族は清王朝を建国し長城を越えて中国内部への侵出を強めたため、流賊と戦ってきた明軍の主力の一部を割き、流賊対策の総指揮者洪承疇や孫伝庭等を清に対応させざるを得なくなった。羅汝才は再蜂起した張献忠や仲間の八営と行動を共にし、河南・湖北・四川で戦った。張・羅を再蜂起させてしまった咎で熊文燦が逮捕され、その責任を取って中央から宰相の楊嗣昌が自ら襄陽に下り明軍を指揮することになった。楊嗣昌の戦略は張献忠を討滅、羅汝才等は招撫の対象とした。明軍との戦いで劣勢になった羅汝才は張献忠と直接行動するようになったため、羅の仲間の恵登相等八営は張献忠による併合を警戒し、羅汝才から離れ次々と明に投降した。13年末ごろから陝西で苦戦していた李自成軍が河南に出て隆盛に転じ、湖北へも進出した。崇禎14年から16年にかけては流賊が明軍を圧倒する戦いが多くなり、流賊が中原の都市を陥落させることになった。こうした傾向は河南、湖北で著しい。
このような情勢によって流賊側にも大きな変化が生じた。従来は都市を占領すると食料・馬・騾馬等を略奪し短期間で都市を放棄したが、この時期に至り占領した都市の確保を目指す方向に転じた(「守土不流」、李永茂『枢垣初刻』)。占領した都市にまず武官を、次いで行政官を置くという初歩政権の樹立である。この動きはまず挙人出身の牛金星等の参加を得た李自成軍に現れる。16年5月、李自成と張献忠は各々、襄陽で襄京政権を、武昌で武昌政権を樹立する。樹立した政権は大抵明軍と地域の支配層の武装勢力に打倒されたが、李自成の地方政権の一部には執拗に再建を試みる動きがあった。流賊側のこうした統一された指揮による戦闘の傾向は、従来の分・合を基本にした掌盤子の自由な行動と相反することになった。河南を抑えた李自成は湖北をめぐって競合する張献忠と対立することが多く、張献忠は湖南・四川に重点を移すようになる。
羅汝才は崇禎14年9月、共に行動してきた張献忠と仲違いし、一歳年下の李自成の指揮を受け入れ、大都市開封を始めとした河南の都市占領に貢献した。両者は各々の強みを生かした協力(「如左右手」)で河南の50余城を落としたが、その内6割が李自成、4割が羅汝才であったという(呉殳『懐陵流寇始終録』巻16、『綏宼紀略』巻9)。
流賊が明に代わる政権構想の具体化と全国統一の実現を目指すなかで、各掌盤子の持つ兵力の解体と統一・再編が課題となっていた。そうなれば独立主体としての掌盤子の存在は否定されることになる。この時期の掌盤子には李自成と対抗しながら自立する張献忠、河南東部を流動する袁時中、河南・安徽・湖北の大別山区を拠点に流動する革・左五営等がいた。崇禎16年4月から5月にかけて起きた革・左五営の賀一龍、羅汝才及び袁時中の殺害はそうした過程の表れであった。
明朝に代わり政権樹立を目指すようになった李自成にとって、組織的合体に難色を示す羅汝才等の有力集団を解体する必要が生じていた。一方、自立の基本であった兵力の維持に固執する掌盤子は、その願いを羅汝才に期待していた。
李自成による羅汝才の殺害は羅汝才大軍団に大混乱をもたらし、多くの将兵が明軍に投降した。一方で事態の現状を理解した革・左五営の有力掌盤子の賀錦と劉希堯は李自成軍の高級武官として参加した。以上が簡単な曹操(羅汝才)の流賊時代の概観である。
(その2に続く)
【註】
(1)澤田瑞穂『中国の庶民文芸-歌謡・説唱・演劇-』(東方書店、1986)〈清代歌謡雑稿〉「采茶調」。
(2)(ⅰ)の人名が記される書物については、大木康『中国近世小説への招待』(日本放送協会出版、2001)等参照。
(3)楊紹溥氏は、明末の流賊の首領で『水滸伝』に表れる人名をあだなとしたのは17~18種、重複してあだなとした人数は40人近いとする(「《水滸》与明代農民起義」(『水滸研究論文集』、中華書局、1994))。なお楊氏の研究は明末流賊首のあだなが『水滸伝』由来のものが多いことを強調している。流賊首全体から見ると筆者がこのシリーズで検討しているように、『水滸伝』由来の多さを指摘できるものの、あだな全体から見ると相対的多さといえる。かつて戦前から戦後にかけて中国で、明末流賊のあだなの由来を『水滸伝』に置いて強調する見解に対し、李文治『晩明民変』(遠東図書公司、1966)付録では、『水滸伝』名号と一致しない名号も多いことを先駆的に指摘している。
(4)野史を含めた史書の流賊首伝記で、羅汝才の伝記を独立に設けているのはただ一書、『罪惟録』列伝巻31のみ。但し脱字が多く内容が読み取り難い。
(5)石井仁『魏の武帝 曹操』(新人物往来社、2010)、三国志学会監修『曹操 姦雄に秘められた「時代の変革者」の実像』(山川出版社、2019)、井波律子『三国志演義』(岩波書店、1994)、同『三国志曼荼羅』(岩波書店、2007)、金文京『三国志演義の世界』(東方書店、2010)等。
(6)以下の記述は拙著『明末農民反乱の研究』第一章を参照されたい。
(さとう・ふみとし 元筑波大学)
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