歴史上、伝承上の人名をつけたあだな・その5
佐藤 文俊
事例研究
C-3 『水滸伝』関連のあだな 燕青(浪子)
■イメージ
北京の人。あだなはプレイボーイ〈浪子〉。幼くして両親をなくし、豪商盧俊義(後、梁山泊二位、宋江に次ぐ副首領)の家で育てられる。色白の美男子で、全身に見事な刺青を施す。武芸・芸能百般に通じる。相撲が特に強く、暴れ者の李逵さえも投げ飛ばすので、宋江から李逵のお目付けを命じられる。忠義者で弁舌さわやか、利害を冷静に計算することができる人物である。出処進退を心得、多数の犠牲をともなって方臘の乱を鎮圧し開封に凱旋しようとする主人の盧俊義に対し、都に凱旋して帰るのは危険と過去の事例を引き、ここで官職を返し密かに脱出し静かな場所で余生をおくりませんかと提起するも、盧俊義はこれを受け入れなかったため、燕青は宋江には書置きして去った(100回本の99回)。



事例(1)張汝金
前回述べた宋江をあだなとする事例(1)王中考と同様、崇禎5年8月、三辺総督洪承疇の指揮下で可天飛連合集団の大規模な掃討作戦が実施されたが、その際洪承疇直属の標兵に殺害された流賊幹部の一人があだな燕青を名乗るが、彼についてはその他の情報はない。
事例(2)氏名不詳
崇禎14年正月、山東総兵楊御蕃の指揮下で直隷大名府開州東明県から山東西部にかけての山岳地帯を拠点(「老巣」)とする23名の有力賊首(「大寇」)を殺害したが、その一人にあだな燕青を名乗る賊首がいた(1)。
事例(3)朱安世
崇禎15年11月、河南の主要都市が流賊に落とされつつあったが、河南帰徳府永城県では元遵義総兵の劉超が防衛の指揮をとっていた。彼は自身の兵力の一部に周辺の土賊を編入し、戦闘や城内の監視に当たらせていたが、彼の方式に反対する有力郷紳と対立が深刻化し、この月ついに劉超は郷紳・生員等百余人を殺害するという事態に発展した。16年1月、この件で劉超討伐を命じられた河南巡撫の王漢が永城県に到着すると、劉超の部下が王漢を殺害したが、劉超はそれ以上に抵抗するつもりはなく、まもなく捕捉され北京で処刑された。劉超軍に組み込まれた一部の土賊(「永城余寇」)は明に降るを潔しとせず、運河沿いの徐州・宿州等の反乱集団に加わった。その賊首の一人朱世安があだな燕青を名乗っていた(2)。
燕青をあだなとする事例は流賊2、土賊1の零細な史料三例であるので「完全無欠に限りなく近いと思われる人物」(3)像にあこがれたのか、彼の個々の事象に魅力を感じたのか想像することは難しい。
事例研究
C-4 『水滸伝』関連のあだな 関索
■イメージ
関羽の息子は関平と関興で、関索は彼の息子ではない。関索は宋代、民間で豪勇無双の人物として知られ、南宋の杭州の角觝(相撲)取りのしこ名にも張関索・賽関索等があり、盗賊や軍人の中にも関索をあだなとする者がいた(4) 。『水滸伝』中の楊雄もあだなを〈病関索〉といったことから、宋代の「水滸物語」と結びついた。姓が「関」ということで「武勇な人物の関索がいつのまにか関羽と結びついて…関羽の息子の一人となった」と推察される。関索は原『三国志演義』には見られず、最も早く登場する現存の版本は万暦19(1591)年刊『新刊校正古本大字音釈三国志通俗演義』(周日校本)といわれる(5)。
事例(1)劉正国
崇禎4年6月、明軍に追われて黄河を渡河した陝西の流賊集団のリーダー王嘉允が山西の陽城で殺害された後、後継として紫金梁(本名・王自用)が選出された。その推薦人の賊首の一人に関索(本名・劉正国)がいた(『烈皇小識』巻3)。
事例(2)石万陽
崇禎12(1639)年5月、招撫した張献忠が再蜂起し羅汝才等九営もそれに続いたため、明側の責任者であり楊嗣昌が支持していた熊文燦が逮捕された。その責任を取って同年9月、崇禎帝の最側近の楊嗣昌が東閣大学士等の要職を兼務したまま襄陽に下り、流賊対策の指揮を執ることになった。石万陽についての以下の記述は、楊嗣昌の文集による(6)。
この記録から判明した彼の履歴は、出身は現在の甘粛省慶陽府環県。崇禎初年寧州で乱に参加し、この時期は掌盤子整十万(本名、黒雲祥)の古参で筋金入り(「老本精賊」)の幹部であった。12年11月、羅汝才等と再蜂起した整十万は明軍との戦いの中で早くも再投降を考えたようで、投降が可能かどうかその条件は何かを探るために関索(石万陽)等三名を明軍に派遣した。
石万陽等は整十万営から逃げ出してきた(「逃丁」)と述べたが、楊嗣昌との二度の面接で、上記の事情が判明した。楊嗣昌はこの三人の処置を通じて真の掃討と招撫の組み合わせを全軍に徹底し、熊文燦の招撫政策との違いを明らかにすることにした。
まず投降を許可する条件は明の天敵である張献忠を殺すか、生け捕りにすることであると言明した。これを聞いた石万陽はあわてて、うちの親分(「老爺」)にはそのような技量はないから無理ですと答えた。楊嗣昌はそれなら投降は認めるわけにはいかず、お前を殺すしかないと言うと、石万陽は号泣して許しを請うた。
楊嗣昌は重ねて問う。張献忠を殺せないなら投降を許可できるに値するような条件はあるのかと。しばらく考えてから関索(石万陽)は低頭して、あります、ありますと答えた。うちの親分は張献忠の軍師である潘相公(潘独鰲、黄州府黄岡県の人、生員)等二人なら殺せますと。楊嗣昌は張献忠でも、側近の二人でもよいというわけにはいかないと言い、石万陽は叩頭して帰ってこのことを親分に話したいと言った。
楊嗣昌は大笑いして、お前の一時的なでたらめな話(「謊話」)でここから脱しようとは、まったく大胆な奴だ。私をだまそうとしていることを知らないとでも思っているのかと言うと、関索(石万陽)は大泣きしながらそういう気は全然ありませんと答えた。楊嗣昌はその答えを信じないとして熟考した末に、お前をここに止め置き、他の二人を帰らせ、20日の期限内に成果(「功」)をあげて報告せよ。もし少しでも遅れたらお前を切り刻むことにするが、それでよいかと問うと、関索はそれで結構ですと答えた。
楊嗣昌はこの文集内で真の掃討と招撫の方針を示しえたと誇示している。
事例(3)景四
関索をあだなとした景四の流賊に参加した状況等については不明である。その名が現れるのは崇禎13年2月、再蜂起した張献忠軍が四川太平県瑪瑙山の戦いで大敗北を喫した時である。明軍総指揮の楊嗣昌の下、総兵官左良玉や賀人龍等との戦いで張献忠軍3,500人以上の死者・捕虜・投降者を出した。その中に大頭目16人と張献忠直属の幹部(大哨頭(7))の関索(景四)が含まれる(8)。
事例(4)王光恩・王光泰兄弟
関索をあだなとした賊首・王光恩(延安の人)は崇禎初年より陝西で蜂起し、その後有力な集団の一つとなり、崇禎末には羅汝才と行動を共にする九営中の一営を構成した。なお王光恩のあだなを小秦王とする説もあるが、小秦王は賊首白貴のあだなであることが崇禎13年当時、張献忠等流賊と対峙していた明軍の総指揮官楊嗣昌の文集(9)から確認できる。
関索(王光恩)は崇禎11年12月、張献忠に続き曹操(羅汝才)と共に明に投降(偽降)した九営の一営を率い、翌12年5月、張献忠に呼応して再蜂起した。その後明軍との厳しい戦闘で四川に移るが、羅汝才が張献忠と行動を共にするようになったため、張献忠による併合を警戒していた他の八営は順次ふたたび明軍に投降していく。
2度目の投降後の関索(王光恩)集団は精鋭が明軍に編入され、「降丁」王光恩は流賊対策の要衝である鄖陽に配置された。崇禎14年6月には鄖陽守備の責任者である按察使の高斗枢配下で軍職の遊撃に任命され、兵150人を率いて流賊と対峙し鄖陽を守り通した。15年9月、王光恩は高斗枢に、四川を中心に活動する掌盤子揺天動陣営内にいる弟の王光興が数百人を率いて投降したいと言っているので、許可して欲しいと何度も要請した。これが受け入れられて弟の率いる「精壮」150人は兄の関索(王光恩)軍に編入された。なおこの時、王光興は王光泰と改名している(高斗枢『守鄖紀略』)。崇禎15、16年、河南・湖北では流賊李自成が強勢となりしばしば鄖陽を攻めるもいずれも撃退し、陥落することはなかった。
王光泰と改名前の王光興について『灎澦嚢』巻二に、崇禎6年頃から四川にはいり活動していた流賊揺天動と黄龍二賊があって揺・龍と号していたが、その後拡大し「分かれて三十家(掌盤子)」となったという。そのなかの一つの掌盤子に王光興が挙げられている。
その後李自成は明を倒すも、翌年順治2(1645)年、清・呉三桂連合軍に追われて劣勢に転じた。同年3月、張献忠、李自成等流賊の攻撃を撃退してきた湖北の鄖陽では、かつて鄖陽知府として王光恩と戦い清から鄖陽巡撫に任命された徐起元が、王光恩に清への投降を命じ(『守鄖紀略』)、それに応じた王光恩は鄖陽と襄陽の総兵官に任命され、残存する李自成の余党を一掃した(『順治実録』巻25)。ところが同4年4月、新しく任命された鄖陽巡撫潘士良との間に「隙」が生じ、総兵王光恩は弾劾され北京に械送され(『光緒光化県志』巻6、『康熙24鄖陽府志』巻24)、謀反律をもって斬とされた。この結果王光恩の弟二人、王光泰と王成(昌)が清に叛することになった(『順治実録』巻32)。
王光恩の家族構成等は不明であるが、王光恩兄弟と順治年代の行動については、顧誠氏の研究があるのでこれにより紹介してみたい(10)。長兄の王光恩は著名な掌盤子の一人、弟の王光泰(又の名、王二)は先述したように揺天動配下の小掌盤子、もう一人の弟王昌(又の名、王三)の状況は不明であるが、崇禎末から順治年代にかけて弟二人は鄖陽に駐屯する長兄の王光恩の軍内にあって、特に李自成軍の侵攻を撃退し、鄖陽を一貫して守護するのに重要な役割を担っていた。
順治4(1647)年に清朝から任命された鄖陽巡撫潘士良と鄖陽の兵力の中心を担う王光恩の関係は「礼を争い微嫌」と、礼制上の対立からというやや曖昧な表現がなされている。しかしその背景には永暦政権との関係があった。1647年は明の唯一の後継王朝となった永暦帝(桂王)の永暦元年であるが、永暦政権は清軍に追われ4月に湖南の武岡に逃れた。すでに湖北・河南等にも反清活動の呼びかけがなされ、鄖陽を牛耳っていた王光恩兄弟とも連絡が取られていた。王光恩は清の鄖陽総兵官であったが、永暦政権は弟の王光泰を鎮武伯、もう一人の弟王昌を鄖襄総兵に任命した。長兄王光恩を隠れ蓑に弟二人が密かに永暦政権と連絡を取っていたと考えられる。新巡撫潘士良と王光恩との礼制上の対立から、王光恩が北京に械送され斬刑の判決がでると二人の弟は反清行動に踏み切り「妄りに永暦年号に改め、鎮武伯と僭称し」た。清朝は王光泰等への対応のため王光恩の斬刑は実施していなかったが、この事態で直ちに処刑された。清朝は即刻提督孫定遼を指揮官とする討伐軍を派遣するも手痛い敗北を喫する(11)。なお王光泰等はその後永暦政権と行動を共にするが、1650年の永暦帝の処刑以後の反清運動は虁東十三家のみとなり、王光泰はその一家を構成した(『守鄖紀略』)。
最後に王光恩三兄弟とあだな関索との関係について触れておきたい。先掲の史料、湖広巡撫高士俊の上奏(12)中に「逆弁王光泰兄弟三人……綽号花関索」とある。長兄王光恩は崇禎初年よりその名があり、後有力な掌盤子の一つとなり、あだな関索として名が知れていた。弟の王光泰は兄の王光恩の仲介で明の鄖陽按察使高斗枢に投降したが、以前から花関索と名乗っていた。もう一人の弟王昌について詳細は不明であるが、高斗枢の表現では彼もまた関索をあだなとしていたともとれる。いずれにしろ王兄弟は伝承上の人気者、関索に傾倒していたと思われる。
以上流賊の四例であるが、関索の人気度が垣間見られる。
【註】
(1)「山東総兵楊御蕃題為塘報畿省会兵合剿等事」(『起義史料』十二)。
(2)『綏宼紀略』補遺下。『国榷』巻99。『豫変紀略』巻4等。なお佐藤文俊「明末、河南永城県劉超の乱と巡撫王漢」(『佐久間重男先生米寿記念明代史論集』汲古書院、2002)も参照されたし。
(3)大木康『中国近世小説への招待』第六章(NHK出版、2001)。
(4)澤田瑞穂『中国史談集』(早稲田大学出版部、2000)。金文京『三国志演義の世界』〈増補版〉六(東方書店、2010)。
(5)二階堂善弘・中川諭訳注『三国志平話』(光栄、1999)。
(6)『楊文弱先生集』巻36。
(7)拙著『明末農民反乱の研究』(研文出版、1985)第一章第一説。『東方』第477号:本連載第一回。
(8)「飛報瑪瑙山大捷疏」(『楊文弱先生集』巻39)、『楊文弱先生集』巻5。
(9)「関於羅汝才九営和七営入川問題」(柳義南『李自成紀年附考』中華書局、1983)。
(10)顧誠『南明史』(中国青年出版社、1997)第十五章。
(11)「湖広巡按曹叶卜掲帳」(『明清史料』甲・二)。「湖広巡撫高士俊掲帖」(『明清史料』丙・七)。前註10。
(12)前註11。
(さとう・ふみとし 元筑波大学)
掲載記事の無断転載をお断りいたします。