あだなからみる明終末期の陝西流賊(十一)

投稿者: | 2022年3月15日

宇宙:“天” “星”等、及び自然現象を含んだあだな・下

佐藤 文俊

事例研究〈満天星〉
■イメ-ジ
 満天の星というロマンティックな情景の他に、鍛冶屋(鉄工)の火花の意が伝えられている。清初、流賊によって滅びた明の史実と伝聞を広く収集した計六奇『明季北略』巻二十三「李自成生」、清初の時事三部小説の一つ『定鼎奇聞』巻一第3回に記されている李自成の流賊参加前の伝聞である。李自成の生誕地延安府米脂県の東城に、年齢20歳を超えていた鉄匠(鍛冶屋)の周清が、妻子と共に農具から刀鎗にいたるまで制作しその出来栄えは評判であった。鉄を打つ時の作業場は一晩中火花で充満していたので、人々は満天星と「あだな」した。李自成はこの人物から「学芸」を学び、兄弟関係を結んだという。
 明終末期の流賊には脱走兵士が多いが、かれらが属した軍の戦陣の一つに「満天星陣」がある。もとは諸葛亮考案の「円形八陣」を、張曄なる人物が64小陣から256の小陣に変更したというが、実態は不明である(1)

「雑兵家満天星陣図」(『武備志』巻六十七陣練制)

■満天星をあだなとした流賊
1、周清
 すでに上のイメ-ジのところで触れたが、この伝聞の人物の存在は不確かである。ただ李自成の当初からの盟友・側近で、大順政権樹立時には武将の最高位、権将軍に就いた劉宗敏は、延安府藍田県又は李自成と同じ米脂県出身ともいわれ、もとは鍛冶屋(「鍛工」)を生業としていた(『明史』巻三百九流賊)という史実は注目される。
2、尹世財
 陝西のどこの出身か、生業が何かは不明。王嘉胤等の陝西東路の流賊集団は黄河を山西に渡河したが、神一元等の陝西西路集団は今日の甘粛省内で、三辺総督であった楊鶴の招撫方針を巧みに利用しながら流動した。しかし招撫の失敗で逮捕された楊鶴に代わって、三辺総督についた洪承疇の掃討作戦で、崇禎5年(1632)、今日の甘粛省慶陽府の山岳地帯の鉄角城によって持久の計を模索していた可天飛(何崇謂)等の西路流賊の連合勢力は、壊滅的打撃をこうむり多くの賊首が犠牲となった。その一人に満天星(尹世財)が含まれていた(「兵部題為恭報誅剿魁等事」『起義史料』)
3、張大受
 張大受が満天星をあだなとしたと記しているのは、文秉『烈皇小識』巻三である。王嘉胤等と共に山西に渡り、王嘉胤亡き後は王自用を推戴した一人である。その後は闖王(高迎祥)と長江以北を転戦し、安徽省・湖北省の境界に盤踞したという(2)が、詳細は不明である。
4、趙応挙
 闖王(高迎祥)等の流賊が陝西を出て大流動していた時期から、高迎祥が明軍に捕捉され北京で処刑され流賊集団が混乱に陥った時期まで、李自成は一貫して陝西と四川を流動していた。李自成と行動を共にしていたのは「崇禎9年(1636)2月、闖将三・四万人あり、過天星・満天星・混天星皆な三万人あり」(呉殳『懐陵流寇始終録』巻九)とあるように、過天星・満天星・混天星の三大掌盤子であった。この満天星は転戦中に明軍に投降する姿勢をみせながら、最終的に李自成と行動を共にしていた「満賊の姓名は趙応挙」という(『懐陵流寇始終録』巻九)(3)

〈混天星〉
 混天星のイメ-ジはもともと天上を攪乱する星宿であり、通常はその場を混乱させるお騒がせ人間(「搗蛋鬼」)に喩えられる。この連載第三回でも触れた陝西の民歌、信天游にも登場する。
 「我媽媽生我混天星、二不溜子小伙跟一群」
 「母さんは私というお騒がせ人間を産み、若者たちを従える。」(『陝北民歌選〈信天游〉之五』)
 混天星をあだなとした事例は現在のところ二例である。
1、王高(混天星以外に黒虎というあだなをもつ)
 乱参加後、崇禎6年前後に四川に侵入し、揺天動・黄龍が軸となる揺・黄十三家掌盤子の一つとなり、主に四川東北で流動した(『荒書』、『蜀碧』巻四十四、『客滇述』、『蜀亀鑑』巻一)
2、郭汝はん
 崇禎初年より陝西で蜂起したという以外、詳細は不明。崇禎9年に流賊全体の象徴的存在であった闖王(高迎祥)が犠牲になった後、流賊側は大混乱におちいる。その後、満州族の侵出強化によって北京が戒厳令下におかれ、この事態の救援のため、流賊対策の中心にあった洪承疇や陝西巡撫の孫伝庭配下の陝西軍が動員された。その間、陝西では闖将(李自成)を軸に混天星や過天星が結集して行動するが、李自成と並ぶ最有力の掌盤子、張献忠や羅汝才等が明の招撫政策を利用して投降(偽降)したため、陝西から四川にかけて流動する李自成等に攻撃が集中する。明にとっての成果は崇禎11年5月、陝西西安府三水県での戦勝である。李自成軍は手痛い打撃をこうむり逃亡し、李自成と行動を共にしていた「賊頭大掌盤子」混天星(郭汝磐)は投降し、継いで11月には過天星(張五)も投降する。なお投降にあたり混天星は一緒に投降した賊頭掌盤子、米闖将(米進善)と上申書(申し開き書)を提出している。要約すると自分たちはもともと良民であったが、連年の旱魃で生活が成り立たず、万死に値するこのような方法をとってしまった等の言い訳がなされている。なおこの経過については、明の戦闘の責任指揮官孫伝庭の報告書「報三水捷功疏」(『孫伝庭疏牘』巻二)に詳細に記録されている第十回「宇宙:“天” “星”等、及び自然現象を含んだあだな・上」過天星・3、張五参照)。同報告書ではこの混天星(郭汝磐)は闖王(高迎祥)の処刑、およびその有力部下の大掌盤子、蝎子塊が殲滅されて以降、陝西では李自成についで「混天星は固より大寇中の最も雄なり」といわれた。

 

【註】

(1)明・何良臣撰、陳秉才点注『陳紀注釈』軍事科学出版社、1984。

(2)李文治『晩明民変』(中華書局、1948)第三章。

(3)柳義南『李自成紀年附考』(中華書局、1983)では、崇禎8年、10年の李自成と行動していた満天星の姓名は高汝礪とする(67、95頁)。後考を待ちたい。

(さとう・ふみとし 元筑波大学)

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