査読の流儀

投稿者: | 2022年3月15日

西澤 治彦

 

■査読つき学術雑誌

 いつ頃からだろうか、「査読つき学術雑誌」なるもののステータスが、査読などない紀要や市販の雑誌などと比べて、これほどまでに高くなってしまったのは。おそらく、大学や研究所などが所属する研究者の業績をネット上で公開するようになった時期と重なるのではないだろうか。その際に、査読つき雑誌か否かの区別をするようになった。また、教員の新規採用や昇任人事においても、査読つき雑誌に何本、論文を書いているかが問われるようになってきた時期とも、重なるのではないかと思う。
 基本的に投稿で成り立っている学術誌の場合、編集者は採否の判断をせねばならず、査読そのものは不可欠なものである。特に、投稿される論文の本数が多く、その水準もまちまちな場合、編集担当者だけでは選別しきれない。その分野の専門家の見解を仰ぎたくなる場合もある。困るのは、論点は面白いのだが、論文としての完成度が今ひとつの場合だ。修正を加えてもらえば掲載可能になる、という境界線上の投稿の場合、問題点を指摘するには、その分野に詳しい人の方がふさわしい。編集者から指摘すると誰だかが分かってしまうが、外部の査読者となると匿名にすることもできる。
 査読者の見解に偏りがないように、一本の投稿に複数の査読者がつくことが多い。時には、修正原稿に対して再度コメントし、再修正をするというように、数回のやりとりが執筆者と査読者との間で繰り返されることもある。多くの場合は、晴れて掲載可となるが、中にはそうならない場合もある。あるいは、論文よりは一段、落ちる「研究ノート」という括りにして、掲載にこぎ着ける場合もある。
 現在の「査読つき学術雑誌」は、おおむねこういう感じで出来上がっていく。私自身、若い頃は「査読つき学術雑誌」に投稿し、査読を受ける側であったが、キャリアを重ねていく間に、査読を受ける雑誌には投稿しなくなってきた。自分自身が論集を編集する立場になってくると、査読されてまで学会誌に投稿したいとは思わなくなってくる。結果、学会誌によっては、若い研究者にありがちな細かな議論が多くなり、他分野の研究者を引きつける魅力も減少してしまう。
 実際に編者を体験してみると、論集といえども、実は査読に相当するものがあることを知る。そのように呼ばないだけだ。集まる原稿の全てが、編者の意図通りの内容や水準になっているとは限らない。そこで、編者として手直しをお願いすることになる。この時ばかりは、匿名のシステムもいいものだと思うが、この編集過程が論集の出来映えを左右する。
 このように、実際には論集といえども、査読に近いことが行なわれているが、「査読つき学術雑誌」と対等に評価されることはない。また、現在は少なくなりつつあるが、市販されている学術的雑誌にも、同じことがいえる。こちらも、基本的に依頼原稿であり、それなりの著者に頼んでいるので、大幅な修正をお願いするようなことはない。その代わり、執筆する方もそこは心得ていて、つまらない文章を書いては雑誌の水準というよりも、自分自身が恥をかくので、力を入れるものだ。こうした暗黙の了解が昔は働いていて、査読などなくても一定の水準を維持していたものだ。なによりも、最大の査読者は、その雑誌を読むためにお金を払っている一般の読者であった。こちらの方が、シビアだ。

■非査読誌

 市販の学術的雑誌が減少し、論集も売れなくなってきた時代であるが、論文を発表する場はまだ残されている。その一つが、研究機関が発行している紀要類だ。こちらは枚数が自由なのがいい。学会誌の場合、論文は長くて400字原稿用紙で50枚がいいところだ。これでも論点は述べられるが、細かなディテールは割愛せざるを得ない。紀要は、枚数が自由であるだけでなく、研究ノートでも、資料紹介でも、書評論文でも、翻刻でも、翻訳でもかまわない。おまけに、非常勤講師や大学院生などの投稿を除けば、面倒な査読もない。編集担当者はいるが、投稿する側も同僚なので、そこは暗黙の了解が働いている。
 紀要に掲載された論文には、さまざまな水準が混在していることは否定できない。しかし、これは査読がないための結果とは思えない。思うに、自由に投稿できる媒体、それが紀要だ。この自由さと引き替えに、査読など取り入れる意味はない。私自身も紀要によく投稿しているが、査読つきの学会誌の論文よりも、紀要に投稿した論文の方が学問的に劣っているとは、全く思っていない。
 そもそも、「査読つき雑誌」は自称であって、第三者機関が、どんな査読をしているかをいちいち精査して、お墨付きを与えているわけではない。「投稿規定」で査読の有無を明示しているだけのことだ。しかも近年は投稿者からのクレームをかわすためか、やたらと規定が細かい。それに、査読制度があるからといって、その雑誌の学問的水準が保証されているわけではない。雑誌の立ち位置を決めるのは、決定権を持つ編者の水準であり、進言する査読者の水準であり、もっと言えば投稿者の水準である。
 内容で判断せず、ただ査読の有無だけで雑誌を格付けするのは不条理だと思うが、紀要と言えども、実際の評価を下すのはやはり読者であるから、そちらの方が気にはなる。
 とはいえ、これも専任の仕事を得ている立場だから言える言葉ではある。就活中の大学院生にとっては、査読つき雑誌に何本の論文を書いているかは、死活問題だ。そう言う意味では、まだ我々の世代の方が、おおらかでいい時代を過ごせたとは思っている。

■査読の功罪

 年齢を重ねていくと、査読される立場から査読する立場になっていき、実際に査読の依頼を受け、引き受けたことが何回かある。最初は、自分もそういう立場になったかと、ちょっとした嬉しさもあり、自分の指導学生に対するかのように丁寧に指摘してあげたものだ。大方の草稿は、それで見違えるように論文らしくなっていく。しかし、査読も何度も経験すると、あまり引き受けたくなくなってきた。面倒だから、というのではない。面白い論文を草稿段階で読めるのは役得だし、若い研究者とのやり取りにも得るものがある。
 気が進まなくなってきた最大の理由は、査読という行為をしながら、自分は果たして当人に対して、本当にいいことをやっているのか、と疑問に思うようになったからだ。いろいろと指摘してあげると、改稿の度に論文っぽくはなっていく。即ち、先行研究の取りこぼしがなくなり、何が未踏の分野で、自分の貢献がどこにあるのかをアピールすることから始まる。読む側は、何を論じようとしているかが予め分かるが、読み進めていくワクワク感は半減してしまう。引用文献の扱い方も厳密になってくるが、それだけに、引用も目立ってしまう。そして何よりも、予防線を張り巡らしながら書いているので、ディフェンシブになっている。一見、論文らしくはなっているが、なんかつまらない。荒削りではあったが、元の文章の方が生き生きしていてよかったな、と思うことがある。隙をなくし、確かなことしか書かなくなると、矮小化が起こってしまう。よかれと思ってやったことが、さまざまに発展しうる可能性の芽を摘んでしまったのではないか、と。
 オリジナルな論点はあくまで本人の発想であり、そこまで査読者は踏み込むことはできない。これは査読者ではなく、執筆者の指導教授などが受け持つべき領域だ。研究者として自立した後は、自己責任でやらなければならない。査読者も、投稿者と議論しながら、多少の啓発はできるかもしれないが、編集者を介した間接的で短い書面でのやり取りでは、それも望めない。しかも、匿名というもどかしさもある。分野によっては、執筆者も査読者が誰なのか、だいたいの見当がつく場合もある。それなら、一層のこと、公開の方がやりやすいと思うこともある。博士論文の審査者は匿名ではない。それ故に、ストレートに執筆者と議論ができる。その代わり、ある種の師弟関係のようなものが生じる。雑誌の投稿では、それが生じるのを避ける意味で、匿名にしているというのもあろう。それにしても、論文が晴れて掲載される際に、名も知らぬ査読者への謝辞が書いてあったりすると、なんとも奇妙な感じを受ける。
 結局、査読というのは、「論文らしいスタイル」の型に嵌めているだけではないか、と思ってしまうことがある。その作業なら、何も自分がやる必要はない。最悪、「自分好みの論文」にしてしまう危険性もある。
 私と同じような考えをお持ちの方は多いようで、歴史が専門の先生の中には、歴史史料の読み方だけはチェックするけれど、内容や構成に関してはコメントしない、という条件で引き受けている人もいるようだ。

■文系と理系

 思うに、この査読つき学術雑誌の権威化というのは、理系の世界から広がったような気がする。英語による世界の一体化が進行すると、研究者は英語の有力紙に競って投稿しようとする。そうなれば査読も厳しくなり、雑誌の権威も上がる。そうしたメカニズムを文系も採用せよということであろう。しかし、ホットなテーマに研究が集中しがちな理系に対し、文系の場合は研究する対象が幅広い。そもそも論文の性質が異なるのだ。
 理系の基準を文系に当てはめようとするのは、これだけではない。業績公開などのフォーマットでも、論文であるにもかかわらず、単著か共著かを聞いてくる。理系では、実験に携わった研究室の皆が連名で論文を書くのはよくあることだが、文系は、基本的に一人で書くものだ。さらに、英語の論文本数や海外での学会発表の回数も問われる。もちろん、文系といえども、日本語の世界に閉じこもるべきではないが、論文を英語で書いたから高評価となるとすれば、おかしな話だ。また、長年の研究をまとめた著書よりも、査読つき雑誌に掲載された論文の方が評価されるというのも、明らかに理系の発想だ。
 査読つきの雑誌に権威を与えているものに、SSCI(Social Science Citation Index)がある。Science Citation Index自体は1960年からと古いが、社会科学分野に特化したSSCIは1988年からスタートしている。これは、アメリカの一企業が商業的に運営している学術雑誌の引用の検索で、誰が誰の論文を引用しているかが分かる。逆に言うと、ある論文の「被引用回数」が分かる。より多くの人に引用された論文ほど、学界に大きな影響力を持った優れた論文である、となるわけだ。これは間違ってはいないが、「集合知」に収斂するという点では、やはり理系の発想に思える。もちろん、文系でも「集合知」はあるが、世界中の研究者から成る理系とは規模が違う。むしろ、文系は「分散知」ともいうべき世界から成り立っている。人が引用しないような論文であっても、相応の価値があることがある。むしろ、人がやらないような研究に意味がある場合すらある。
 最近では、査読つきの学術雑誌に投稿しただけではだめで、このSSCIが対象としている学術雑誌でないと、評価されなくなりつつある。世界の主要学術雑誌を対象としているものの、SSCIはアメリカで発行されている英文雑誌に偏りがあることは否めない。日本語で書かれた学術雑誌は、はなから対象外となっている。
 文系の人間としては、理系の学問を基準とするのは、もうこれぐらいにしてもらいたいと思う。世の中の流れはそうなってしまっているが、これにあらがうには、文系の人間が理系の人々や、学術行政にかかわる人々をも納得させる、面白い論文や本を書いていくしかないであろう。

(にしざわ・はるひこ 武蔵大学)

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