シャン州の茶農家では、漬物であるラペソーを作るが、価格を見て、天日で乾燥させてラペチャウ(酸茶)にして出荷することもある。このお茶が、日本の四国に残る阿波晩茶、土佐碁石茶などと類似しており、少し前に高知や徳島の茶農家を訪ねて、その比較を行った。
製法やその形状など、似通った部分が多いが、特に碁石茶は、生産者が自ら飲むことはなく、換金作物として瀬戸内に出荷し、その代金で塩などの生活必需品を手に入れており、これはミャンマーでも同じ。因みに瀬戸内の漁師はこの碁石茶を使って茶粥を作っていた。茶粥や茶漬けは食べる茶なのか、飲む茶なのかを考えるのも面白い。
ミャンマー北部で作られているラペソーと高知の山中で作られる碁石茶の繋がりについては、最も興味のある歴史であるが、残念ながらその繋がりを見出すことはできていない。勿論全く無関係で、双方独自に作られている可能性もあるが、ビルマ人の生まれ変わりともいわれる筆者としては、その渡来ルートがある、と勝手に思ってしまう。
最後にインドやスリランカと違い、イギリス植民地にも拘らず、ミャンマーにイギリス経営の大規模茶園がなかったのはなぜか、という疑問もある。確かにシャン州数か所の茶畑を見ても、イギリス人が関与したとの話は出て来なかった。当時イギリスからみたミャンマーは、インドとタイの緩衝地帯で、少数民族の紛争が絶えず、コントロールが難しかったため、イギリスは手を出さなかったとの説がある。現在でも北部カチン州の茶畑に外国人が入ることは難しい状況で、茶旅人としては極めて残念だ。
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