あだなからみる明終末期の陝西流賊(二十一)

投稿者: | 2025年10月15日

流賊のあだなによる呼称環境の後退

佐藤 文俊

 明終末期の流賊は、陝西西北部の逃亡兵士、貧窮化した農民・駅卒等の民衆、回民等の少数民族により構成された多数の集団を指し、崇禎初年より長江以北を流動した。流賊は明の軍事力が強大なれば分散し、弱まれば集合するという「分・合」方式をとった。当初から明終末期の流賊には伝統的宗教暴動の要素はなく、1641(崇禎14)年頃から農民反乱的要求(税・役の減免或いは免除等)・都市民衆向けの要求(公平な値段による売買の保証、悪質支配層の排除等)を掲げたため、彼らの支持を得るようになった(1)。崇禎13年頃から、流賊は河南・湖北で明軍や当地支配層との激戦に勝利して、河南・湖北の都市部を占拠する機会が多くなり、李自成・張献忠は各々流動(分・合)方式から転換し、従来短期間で放棄してきた都市を基盤に、政権樹立を開始する。
 李自成集団は1644(崇禎17)年1月、西安で大順国の建国を宣言し山西から北京を目指して破竹の勢いで進軍する。少数の抵抗もあったが都市向けの宣伝や施策により民衆の支持を得た。都市支配層に対して、城を献じ明の官印を差し出せば都市の安全を保障するという勧告に従い、みずから投降する支配層が続出し、短期間で北京の紫禁城に到達する。

■仁義の世界

 こうした状況下、北京で李自成軍に抵抗した現役官僚の一人、浙江・海塩県の人、呉麟徴は「賊は方に仁義に仮して、以て人心を収拾せんとす」と捉えていた(2)。一方の李自成軍では李自成を「仁義の師」、李自成軍を「仁義の軍」と宣伝し、先の民衆と支配層に向けた政策の実施主体として位置付けた(3)。この仁義とは『孟子』梁恵王章句上にあるように儒家の想定した王道、徳に基づく仁義の政治を指す。呉麟徴はなだれをうって仁義の師・李自成軍に従う都市の民衆・支配層の現状を、王道主体の仁義がみんから大順国に移りつつあるとの危機感を表明している。

■“大順”名称の使用

 李自成は1644(崇禎17)年1月、西安で建国した際、国号を大順、年号を永昌とした。李自成と競合した流賊のもう一方の雄、張献忠も同年(順治元年)11月成都で建国した際、国号を大西、年号を大順とした。両者は国号と年号の違いがあるものの、ともに大順の名称を使用している。
 この用語は主に『礼記』礼運第九に拠ると思われる(4)。同書には儒家思想家の実現すべき理想社会は天下が一つの家族になる大同の世であるが、夏王朝以後は君主が天下を私家とみなし王位も子孫により世襲されていく。同様に君主に従う諸侯以下から万民まで一家による財産等の世襲がなされ、時には策略や戦争さえ起こる社会となった。こうした社会を理想に近づける次善の策として、小康の世を挙げる。この小康の世とはかつて聖王が礼を用いた政治を行い平和な社会を実現したという世のことで、家では父子の情・兄弟の仲・夫婦間のけじめ、君主と臣下の差を明確に示し、「人民が王者に和順・心服」する社会であるとする。
 大順の世とは小康の世が最もうまく機能した「和順の至極の世界」であるという。その基礎には「人・家・国・天下」の四つの充実(「肥」)がある。「人」は健康で生活が充実し、「家」では親子・兄弟・夫婦の関係が秩序を持つ。特に「国」を所有する諸侯は国内が君臣の礼でまとまり、礼を以て天子に従う。その上で天子は徳と音楽等を用いて天下を治める。こうした社会では生きている人が充実した生活をおくり、死者は丁寧に礼を尽くして埋葬され、神(「鬼神」)に仕える。万人がそれぞれ職務を果たし、いささかの衝突も起こさない。
 以上のように李自成政権は仁義の世界と大順の世の樹立を最終的に目指したと考えられ、張献忠の大西政権も同様であろう。

■あだな使用環境の衰退

 特に李自成軍の民衆向けのスローガンは彼らの期待と支持を受けた。流賊の政権樹立にあたって、これに参加した進士・挙人・生員の知識層、例えば李自成軍の牛金星(挙人)等の儒教的思想の影響により、自身の政権を天命思想に基づく易姓革命と正当化して認識したと思われる(5)。なお李自成の大順政権の特徴の一つである生存権を主張したスローガン「みんな腹いっぱい食べて暖かく着よう。食べて着て足りなければ闖王がいるから大丈夫だよ。(闖王がいれば)差役に当たらず、税金(糧)を納めなくてよい」には、儒教の異端派として攻撃され最後には自殺した李卓吾の思想、童心論の核心である「穿衣吃飯」(きることくうこと)(6)の影響も考えられる。
 李自成の流動時期のあだなの呼称は八隊(7)・闖将・老八隊で、政権樹立期は大将軍(後、奉天撫民威徳大元帥)・新順王を経て大順皇帝を名のる(8)。張献忠の流動時期のあだなは黄虎・大西王で、政権樹立後は大西皇帝を名のった。
 流賊に参加した構成員があだなで呼称する背景として、脱走した明の兵士が親族に累が及ぶことを避けるためだった等について『東方』477号本連載第一回「あだなの多い理由、なぜ付けたのか」で触れた。流賊と明との戦力比が対等もしくは逆転し、流賊による建国が可能となる段階に達したこの時期、流賊内ではあだなで呼称する必要性が減少し、本名で対応する機会が多くなった(9)。もっとも愛称化したあだなはそのまま使われ続けた。但し、李自成が1645(順治二)年、張献忠が1646年に死去した前後、及び清初の統一過程の混乱期は各地で土賊の反乱が続いたため、対外的にあだなで呼称することは継続する。

【註】

(1)田中正俊「民変・抗租奴変」(『世界の歴史11 ゆらぐ中華帝国』筑摩書房、1961)、顧誠『明末農民戦争史』(中国社会科学出版社、1984)。佐藤文俊『李自成 駅卒から紫禁城の主へ』(山川出版社、2015)巻末の参考文献を参照されたし。

(2)『乾坤正気集』巻374『呉忠節公遺集』巻2。このスローガンを含めた明終末期の流賊のスローガンについては佐藤文俊『李公子の謎─明の終末から現在まで─』(汲古書院、2012)、一「明末の流賊と李公子伝承」・事例3参照。

(3)『明季北略』巻19-23。

(4)新釈漢文大系、竹内昭夫『礼記』上(明治書院、1971)を参照。

(5)1643年1月、李自成は襄陽に後の大順政権の基礎となる政権を樹立した。当初自身を「奉天倡義文武大将軍(後、奉天倡義文武大元帥)」と称し「天を奉ずる」意を明確にしているが、これは易姓革命の当事者たるを意識したと考えられる。なお付言すると李自成の盟友となり河南、湖北の諸都市の勝利に貢献した大掌盤子の羅汝才(WEB東方〈十七〉)は「代天撫民威徳大将軍」と称し「天に代わる」と天に異議を唱えている。従来の流動時期の大掌盤子の姿といえよう。

(6)溝口雄三『中国前近代史思想の屈折と展開』(東京大学出版会、1980)、同『李卓吾 正道を歩む異端』(集英社、1985)。

(7)李自成が最初に参加したと思われる賊首張存孟(あだな、不粘泥)軍では、第八隊の隊長に任命された。そのため後、俗称として八隊と呼ばれるようになった。

(8)初代闖王(高迎祥)は1636(崇禎9)年に犠牲となる。通常、李自成がその直後から後継者になったといわれるが、顧誠氏が論証するように李自成は高迎祥の直属の部下ではなく、闖王位を直接名のった記録はない。後の流賊史の流れの中で流賊を代表する闖王位に該当するとして伝承されたと思われる。なお高迎祥亡き後の部下による闖王位継承の混乱については、佐藤文俊『明末農民反乱の研究』(研文出版、1985)一章一節を参照されたし。

(9)あだなで呼称する状況は、流賊と明側の戦闘力に圧倒的な差がある時期に発生した。「起義」前期と中期の産物であり、戦力が均衡するようになるとあだなでの呼称から正規の姓名での呼称に移行するようになるとの見解もある(顧誠『明末農民戦争史』〈中国社会科学院出版社、1984〉第二章四節)。

(さとう・ふみとし 元筑波大学)

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