歴史上、伝承上の人名をつけたあだな・その2
佐藤 文俊
■曹操(羅汝才)の性格
この時期を生きた河南帰徳府商丘県の人、鄭廉(1628-1711)が、自身の体験をもとに、明終末期の河南の動向を清初、『豫変紀略』として公刊した。その著巻7で羅汝才の性格について的確な分析を行っている。河南全域の都市が李自成・羅汝才等の流賊に落とされつつあった崇禎15年3月、生地帰徳府とその付属州県も又激しく抵抗するも陥落させられた。その際、15才であった鄭廉は羅汝才軍の捕虜となり、営中で様々な体験をした。それゆえ、曹操(羅汝才)の動向にも強い関心を有したのである。羅汝才は典型的な流賊の姿を有するも新時期に対応できず、結局李自成に殺害されるに至った過程の分析がなされている。以下同書巻7を軸に述べてみたい(史料の出典を明示してない場合は『豫変紀略』に拠る)。
羅汝才の性格については「知恵が多く狡賢い」(管葛山人輯『平寇志』巻7)といわれ、戦闘においては「優れたはかりごとのもと、部下の役割を有効に定めた配置は、常に諸賊の冠」(「其智略部勒、常為諸賊冠」『綏宼紀略』巻7)であったといわれる。張献忠、続いて李自成と「連営」していた時も対等な関係(「頡頏不相上下」)を築いていた。さらに明軍側が優勢な時期、流動戦略で対抗した流賊は各掌盤子が自立して独自に行動するのが基本であった。しかし、崇禎11年窮地に陥った李自成が張献忠を頼ろうとした際、張献忠は彼の軍を併合しようとして対立、逆に今度は張献忠が13年明軍に敗れ自身も負傷して李自成を頼った際、自成は彼の軍を併合しようとして献忠の拒否にあい、彼を殺そうとする事態が生じた。いずれも羅汝才がこれを止め、兵馬・糧食を与え逃した。羅汝才はこれらの自身の役割に満足し、李自成も張献忠も自分に恩義を感じていると固く信じていた(「闖・献徳己、居之不疑」)。
曹操(羅汝才)は敵方の明に対しても、崇禎初年より臨機応変に招撫を利用した。崇禎11年の大規模な招撫では張献忠と羅汝才を盟主とする過天星・革里眼等九営も投降する。本来明側の招撫の条件は、流賊の軍を解体しその精兵を明軍に編入し、流賊の家族は近隣の指定地域に定住させ、故郷に帰りたい従軍者は帰郷させるという内容であった。しかし、張献忠も羅汝才もこれを拒否したため、張献忠は湖広襄陽府穀城県、羅汝才等九営は鄖陽府の房・竹渓等四県に定住(「分屯」)させることになった。現地の軍事責任者熊文燦はこの二大掌盤子の活動停止を維持するため、彼らの要求を認めざるをえなかった。こうしておよそ一年間、張・羅の流賊は休息と糧食等の補給、軍事訓練を行った上で再蜂起するに至った。
羅汝才の投降時の言い分には彼の考え方の特徴が見られる。熊文燦が羅汝才に遊軍の軍職を与える等の諸条件を提示した際、彼は官に就くことも明から支給される食糧ももらうつもりはなく、「百姓となって田を耕すことを願う」(『明史紀事本末』巻75)と断っている。結局居民と背中合わせで居住することになった。
先述したように、崇禎12年、羅汝才が張献忠に続き再蜂起した後、前線の襄陽で指揮をとることになった楊嗣昌の流賊対策の基本方針は、張献忠の殺害と羅汝才および彼の仲間八営の掌盤子の招撫であった。そこで明に投降した流賊を投降の説得者としたほか、羅汝才と熟知の道士姚宗中を派遣して、張献忠は必ず羅の軍隊を奪い、羅を殺すであろうから共に行動するなと忠告させた。これに対して羅汝才は「賊は賊を殺さない」と自信をもって答えた(『楊文弱先生集』巻48)。羅汝才の行動からみてもそれが彼の信念であり、それゆえ彼は盟友等の流賊首から信頼を得ていた。
14年7月以降、羅汝才は張献忠との関係を解消して李自成の指揮を認めて連営し、河南・湖北の諸都市を落とした。16年1月には襄陽で李自成は「奉天倡義文武大元帥」、羅汝才は「代天撫民威徳大将軍」と各々称した。李自成は羅汝才の功績を認めて黙認したと思われる。一方で李自成は占領した河南・湖北の諸都市に自前の文武の官を派遣し、明に代わる王朝を創設する準備に着手するに至っていた。李自成は羅汝才が自分に従うのかどうか、その場合の羅の処遇をどうするかについて思い悩んでいたようで、この問題に関して『綏宼紀略』巻9に両者のやり取りが記されている。二人で酒を飲んだ折、李自成は羅汝才に、大よそ次のような話をした。自分たちは民間から起こりついにここに至った。関中を占領するにあたり、その功績に報いるため、羅汝才には土地を与え王に封じたいと。酔眼の羅汝才は、自分たちは天下を横行するのが痛快だ。どうしてそんなに土地に執着するのかと逆らったという。羅汝才は一時的に李自成の指揮を認めたものの、日常的には従来通り自らを曹操といい、李自成には古くからの仲間として俺、お前の関係を示す対等の呼称(闖将、八隊)を用いていたという。
羅汝才の参謀となって多くの助言をなしてきた山西出身の挙人、吉珪は彼に忠告して以下のように述べた。現在ほとんどの有力掌盤子が李自成に従い、対等に対処しているのは「我が曹操と革・左五営」にすぎない。羅汝才将軍は早く自立の道を模索しなければ併合されてしまうだろうと。羅汝才は事態の重大さを感じたものの、結局は備えることをしなかった。
こうして李自成は、彼に下らず従来通り自前の兵力を保持し自由に行動する権利を最も強く主張する革・左五営の賀一龍を、次いでそうした考えの後ろ盾となっている羅汝才を明の将軍左良玉に通じているとの名目で、次々に殺害するに至った。
■後漢末の曹操と明終末期の曹操
曹操(155-220)は202年官渡の戦いで袁紹を破り中原の統一も間近であったが、208年赤壁の戦いで孫権・劉備連合軍に敗れ、天下三分の形勢が生じた。曹操は魏王となるも献帝から帝位を剥奪することなく、名目上の漢は存続させていた。曹操の死後、継嗣の曹丕が漢帝からの禅譲で魏を建国すると、劉備が蜀漢を、孫権も呉国を建国し、三国時代(220-280)に突入した。
曹操というと後漢末の天下三分状況を想起するが、明終末の天下三分状況は満洲族の清、明、流賊で、さらに流賊内でも、闖王・新順王(李自成)、大西王(張献忠)、曹操(羅汝才)の三勢力に分かれていた。
李自成と組んだ羅汝才が破竹の勢いで河南の都市部を席巻した頃に河北で歌われた歌謡が、呉偉業『綏宼紀略』巻7に紹介されている。「鄴(曹操政権の根拠地)台が復活し、曹操が再び現れた。賊の羅汝才が自ら曹操と号し、天下が大乱に陥った。」という内容である(1)。
前線での総司令官、楊嗣昌が羅の招撫に力を入れ、張献忠との分断を計っていたことは先述した。説得のため派遣した道士姚宗中(冷水道人)等の報告から、楊は羅が「非常に狡賢い」(「老奸巨猾」《楊文弱先生集》巻49)という評判を嫌っていることを知り、次のように評した。魏の曹操は「乱世の奸雄」とよばれるのを喜んだが羅汝才は曹操を名乗っているのにそのことを知らない。彼はたんなる賊(「賊奴」)にすぎないと。
『罪惟録』列伝巻31の「論」で著者の査継佐(1601-77)は、曹操という二字は唾棄すべき対象であり、それに対し劉備は漢室再興のため曹操打倒の計画にくみし、まさに「人臣の盛事」を実現しようとしたと劉備正統観による賛辞を記す。曹操に一部評価できるところがあるとすれば、皇帝位を奪い取る直前で思い止まり、「人臣」をもって終わり、その結果帝位を狙う実力者を牽制することになり、かろうじて漢室が相続できたことであろうとする。また、曹操(羅汝才)は崇禎11年投降を許され鄖陽府の房県・竹渓等の県に九営とともに定着したまま、そこで明の命に従って張献忠や李自成と戦えば、後世大いに評価されたであろう。しかし、結局明の命に反した羅汝才は、李自成に殺されることになったという。
今日、後漢末の三勢力鼎立時期の曹操について、多彩な才能を有した英雄、姦雄と評される。それらの内容は詩人、優秀な軍略家・兵法家、合理主義者でありながら酷薄さを有する辣腕の政治家、才能だけを基準にした人材登用、時代の先取りをした政策(屯田制、戸調制)等である。
一時羅汝才軍の捕虜となった鄭廉が、曹操をあだなとした羅汝才について観察した結果の論評を見よう。鄭廉によると羅汝才は戦争上手の上に、明の招撫政策を利用して生き延びるしたたかさ(「反覆常無」)を発揮した。曹操と「自称」し、一見豪胆のようであるが性格は大雑把で(「疏蕩」「粗疎」。『綏宼紀略』巻9)、日常の生活は享楽型・好色家であったという。後者について付言すると、都市を占領すると美女を狩り、常に妻妾数十人を連れ、軍営には女性の楽隊数部を置き、豪華な食事をとり本人は白い練り絹の華美な服装をこのんだ。これに対し酒色をこのまず部下と一緒に粗末な食事をとる李自成は、この羅汝才の性癖を嘲笑していたという。
羅汝才は明軍との戦いで最初は張献忠と組み、流賊側が優勢に転じる時期には李自成と組んだ。鄭廉はこの事態を正史『三国志』、『三国志演義』の、常に組む強者を換え最後に曹操に殺された猛将呂布等に比定し、結局「人の上にも人の下にも立てない」世にも稀な悪党(「絶物」)という。流賊が明にとって代わろうかという時期に至っても、羅汝才は相変わらず掌盤子が助け合い、分と合を繰り返す流動時代の全盛期の姿を維持し満足していた。このように状況の変化を読めず、結局李自成に殺された羅汝才は愚かな賊(「鈍賊」「癡賊」、『豫変紀略』巻8)であったと鄭廉は断定する。
(その3に続く)
【註】
(1)「鄴台復鄴台、曹操再出来、賊羅汝才自号曹操、而天下大乱」。同じ内容は同書巻10にもある。
(さとう・ふみとし 元筑波大学)
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