大恵 和実
はじめに
劉慈欣『三体』の勢いがとまらない。早川書房が刊行した『三体』シリーズの単行本が累計87万部に達しただけでなく、ドラマもテンセントビデオとNetflixの2バージョン作成されて評判もいい。さらにこの2月に刊行された『三体』の文庫版も瞬く間に重版し、10万部を超えたそうだ。『三体』シリーズは、SFファンや書評家・作家などに人気を博した(1)だけでなく、その枠を超えて多くの読者を確保したのである。中国SFのみならず、近年の中国文学の中でも異例の状況といえよう(2)。
『三体』を含む21世紀日本における中国SFの翻訳状況については、WEB東方に連載した「中国文学の最前線――躍進する中国SF①」の「第一回 21世紀日本における中国SFの翻訳状況」でまとめたことがある。そこでは、2000年代から中国SFの翻訳が徐々にはじまり、2015年の『三体』のヒューゴー賞(英語圏を中心とするSFの賞)受賞を機に中国SFに対する関心が高まったこと、ケン・リュウ編『折りたたみ北京――現代中国SFアンソロジー』(早川書房2018年)と劉慈欣『三体』第Ⅰ部(早川書房2019年)の刊行によって中国SFの存在が広く認知されたことを述べた。
『三体』の翻訳刊行後、次々に中国SFが翻訳されている。もはや中国SFは日本に定着したといっても過言ではない、といいたいところだが、果してそのように楽観してよいのだろうか。本稿では、中国SF翻訳の現況と課題について述べていきたい。
1.『三体』以後の中国SFの翻訳状況
まずは、2019年に早川書房から『三体』が刊行された後の中国SFの翻訳状況を確認したい。長篇は以下の9作品が刊行されている。
陳楸帆(中原尚哉訳)『荒潮』(早川書房、2019)
劉慈欣(大森望・立原透耶・上原かおり・泊功訳)『三体Ⅱ 黒暗森林』上下(早川書房、2020)→2024年文庫化
郝景芳(櫻庭ゆみ子訳)『1984年に生まれて』(中央公論新社、2020)
劉慈欣(大森望・ワンチャイ・光吉さくら・泊功訳)『三体Ⅲ 死神永生』上下(早川書房、2021)→2024年文庫化
郝景芳(及川茜・大久保洋子訳)『流浪蒼穹』(早川書房、2022)
宝樹(大森望・光吉さくら・ワンチャイ訳)『三体X 観想之宙』(早川書房、2022)
劉慈欣(大森望・光吉さくら・ワンチャイ訳)『三体0 球状閃電』(早川書房、2022)
劉慈欣(大森望・光吉さくら・ワンチャイ訳)『超新星紀元』(早川書房、2023)
劉慈欣(大森望・古市雅子訳)『白亜紀往事』(早川書房、2023)
次に個人短篇集を見てみよう。既に8冊刊行されているが、そのうち劉慈欣が3冊、郝景芳が2冊であり、宝樹・陳楸帆・陸秋槎がそれぞれ1冊である。
郝景芳(及川茜訳)『郝景芳短篇集』(白水社、2019)
郝景芳(立原透耶・浅田雅美訳)『人之彼岸』(早川書房、2020)
宝樹(稲村文吾・阿井幸作訳)『時間の王』(早川書房、2021)
劉慈欣(大森望・泊功・齊藤正高訳)『円』(早川書房、2021)→2023年文庫化
劉慈欣(大森望・古市雅子訳)『流浪地球』(KADOKAWA、2022)→2024年文庫化
劉慈欣(大森望・古市雅子訳)『老神介護』(KADOKAWA、2022)→2024年文庫化
カイフー・リー(李開復)、チェン・チウファン(陳楸帆)(中原尚哉訳)『AI2041――人工知能が変える20年後の未来』(文藝春秋、2022)
陸秋槎(阿井幸作・稲村文吾・大久保洋子訳)『ガーンズバック変換』(早川書房、2023年)
ケン・リュウ編『月の光――現代中国SFアンソロジー』(早川書房、2020)→2022年に『金色昔日――現代中国SFアンソロジー』と改題して文庫化
立原透耶編『時のきざはし――現代中華SF傑作選』(新紀元社、2020)
柴田元幸・小島敬太編訳『中国・アメリカ謎SF』(白水社、2021)
大恵和実編訳『中国史SF短篇集 移動迷宮』(中央公論新社、2021)
武甜静・橋本輝幸編/大恵和実編訳『中国女性SF作家アンソロジー 走る赤』(中央公論新社、2022)
立原透耶編『宇宙の果ての本屋――現代中華SF傑作選』(新紀元社、2023年)
2.中国SF翻訳の偏り
刊行数や内容の多様さから、もはや中国SFは完全に日本に定着したかのようにみえる。ただ、より細かくみていくと、そうともいいきれない要素が浮かび上がってくる。翻訳された中国SFのうち、長篇・短篇集(合計17作)の内訳をみると、劉慈欣・郝景芳の2人で12作品に及び、7割を越えている。さらに陳楸帆・宝樹も長篇と短篇集が出ている。すなわち、この4人で長篇・短篇集の約9割以上を占めているのだ。また、筆者の把握する限り、21世紀に入ってから現在までのところ中国SFの短篇(商業出版に限定)は、190作品翻訳されているが、そのうち劉慈欣26作、郝景芳20作、陳楸帆19作、宝樹12作であり、短篇においても4人だけで40%を占めている。
もちろん、人気の高い作家の作品が次々に翻訳されることは不自然ではなく、ある意味では仕方ないことである。また、日本ではアンソロジーが複数出版されたこともあり、既に43名のSF作家(男性22名、女性21名)の作品が紹介されており、多様性を無視している訳ではない。近年ではこうしたアンソロジーの人気と評価も高い。とはいえ、長篇・短篇集が各作家の看板商品であることは間違いない。その点からすると、翻訳刊行された作家の選択に偏りがないとはいえないだろう。
例えば、中国SF界では、科幻四天王と呼ばれるレジェンド級の4人の作家(劉慈欣・王晋康・韓松・何夕)がいるが、いまのところ日本で長篇・短篇集が出版されたのは劉慈欣だけである。また、『折りたたみ北京』・『金色昔日』・『時のきざはし』・『宇宙の果ての本屋』・『移動迷宮』・『走る赤』・『中国・アメリカ謎SF』といった各種アンソロジーに収録された中堅・若手作家も多数(31名)にのぼるが、現時点で長篇・短篇集が翻訳されたのは郝景芳・陳楸帆・宝樹・陸秋槎の4名だけである。
なかでもずばぬけて多いのが劉慈欣である。『三体』シリーズと短篇集・初期の長篇あわせて9作品が翻訳されているほか、絵本の『火守』(池澤春菜訳・西村ツチカ絵、KADOKAWA、2021)も刊行されている。それだけ『三体』の反響がすごかったということだろう。また、短篇の「折りたたみ北京」でヒューゴー賞と星雲賞を獲得した郝景芳も、長篇・短篇集合せて4冊翻訳されている。このように中国SFの翻訳出版は劉慈欣と郝景芳に牽引されてきたのである。
しかし、劉慈欣作品の大半は既に翻訳されており、残った短篇も早川書房から刊行予定の短篇集にあらかた収録されるはずである。郝景芳の場合は、まだ多くの短篇が未訳であるものの、長篇は残り1冊となっている。いつまでも劉慈欣と郝景芳に頼ってばかりはいられないのだ。中国SFが真の意味で日本に定着するためには、今後、両者以外の長篇・短篇集を積極的に出していく必要があるのは間違いない。ただ、そこにも楽観できない要素がある。
3.中国SFはどの程度読まれているのか
『三体』シリーズは累計87万部に達し、文庫版も版をかさねており、大ヒットしたことは間違いない。また、多様な中国SFが続々と翻訳出版され、高く評価されている。では、実際のところ、『三体』シリーズ以外の中国SFはどの程度読まれているのだろうか。『三体』シリーズを除き、大半の中国SFの発行部数は公開されていないため、正確なことはわからない。
そこで本稿では、おおまかな状況を知るため、amazonの評価数・レビュー数と読書メーターの登録数・感想数に注目したい。これらの数値は発行部数と正確に連動しているわけではないものの、読者が多ければこれらの数値も増加する傾向にある。そのため、人気を知るための参考値としては、ある程度有用と思われる。
以下に示した表は、劉慈欣・郝景芳の代表作とケン・リュウが編者となったアンソロジーのほか、主に『SFが読みたい!』ベストSF海外篇の10位以内に入った作品について、amazonの評価数・レビュー数・星と読書メーターの登録数・感想数をまとめたものである(2024年4月25日時点)。
作者・編者名 | 作品名 | 刊行年 | ベストSF 各年度順位 |
amazon評価数・レビュー数・星 | 読書メーター 登録数・感想数 |
劉慈欣 | 三体 (第Ⅰ部) |
2019 | 1位 | 評5383 レ481 星4.4 | 単行本:登14856 感3315 文庫:登814 感118 合計:登15670 感3428 |
円 | 2021 | 3位 | 評335 レ12 星4.4 | 単行本:登1160 感300 文庫:登442 感87 合計:登録1602 感387 |
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ケン・リュウ編 | 折りたたみ北京 | 2018 | 1位 | 評240 レ35 星4.3 | 単行本:登1503 感372 文庫:登969 感198 合計:登2472 感570 |
月の光(文庫は金色昔日に改題) | 2020 | 8位 | 単行本:評57 レ6 星4.4 文庫:評5 レ0 星5 |
単行本:登561 感121 文庫:登163 感18 合計:登724 感139 |
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郝景芳 | 1984年に生まれて | 2020 | 圏外 | 評28 レ6 星4.5 | 登386 感85 |
人之彼岸 | 2021 | 20位 | 評14 レ3 星4.6 | 登373 感56 | |
陳楸帆 | 荒潮 | 2019 | 9位 | 評44 レ9 星4.3 | 登424 感87 |
AI2041 | 2022 | 20位 | 評180 レ28 星4.2 | 登362 感79 | |
宝樹 | 時間の王 | 2021 | 8位 | 評78 レ4 星4.3 | 登466 感77 |
三体X | 2022 | 9位 | 評551 レ47 星4.2 | 登1327 感381 | |
立原透耶編 | 時のきざはし | 2020 | 7位 | 評12 レ4 星4.2 | 登423 感79 |
大恵和実編 | 移動迷宮 | 2021 | 10位 | 評11 レ1 星4.1 | 登249 感56 |
これをみると、劉慈欣『三体』の数値が圧倒的に高く、『三体』人気を裏付けている。文庫化や映像化の影響もあって、『三体』の数値は日に日に伸びている。『三体』シリーズの二次創作公式スピンオフの宝樹『三体X』の数値も高く、amazonでは『三体』に次ぎ、読書メーターでは『三体』・『折りたたみ北京』に次いでいる。ここからも『三体』人気のほどが窺えよう。また、日本に中国SFの魅力を伝えたケン・リュウ編のアンソロジー『折りたたみ北京』や劉慈欣の短編集『円』も数値が高く、よく読まれている様子が窺える。
一方、宝樹・陳楸帆・郝景芳や各種アンソロジーはその下位にあり、amazon評価数や読書メーター感想数はおおむね100を下回っている。これらの作品は『SFが読みたい!』でベスト10入りを果しただけでなく、amazonのレビューや読書メーターの感想でも高く評価されている。筆者が編者をつとめた『移動迷宮』も、多くの雑誌・新聞などに書評が掲載された。決して中国SFの質が劣っている訳ではない。しかし、数値を見る限り、その読者の範囲はおおむねSFファン・海外文学ファンの間に留まっており、その枠を超えて広く読者を集めたとはいえない状況にあるのだ。
このことから、日本では中国SFが流行したというより、劉慈欣の作品――なかでも『三体』シリーズが流行したといったほうがよさそうである。中国SFの翻訳・紹介に携わってきた筆者としては正直悔しいけれども、この現実は直視しなければならない。
おわりに
『三体』の翻訳刊行後、中国SFが次々に出版され、高評価を得てきた。翻訳数と内容の多様性をみれば、中国SFは日本に定着したかのように思える。しかし、翻訳が刊行された長篇・短篇集の作者にはあきらかに偏りがあり、劉慈欣・郝景芳頼みの状況にあった。また、『三体』シリーズは大ヒットしたものの、中国SF全体がSFファンの枠を超えて流行しているとまではいえない様子も窺えた。『三体』シリーズの翻訳が完結して文庫化がはじまり、劉慈欣作品の大半が翻訳されつつある現在、むしろ中国SFが日本に定着するかどうかの正念場を迎えたように思われる。
日本では、SFというジャンルが定着し、漫画・アニメ・ゲームに浸透・拡散して久しい。SFファンも一定数存在している。しかし、SFファンであっても、SFであればなんでも買うというわけではない。『折りたたみ北京』や『三体』の翻訳が出たころと違って、最近は一年間に数冊の中国SFが出ており、物珍しさも薄れている。中国SFと聞いてとりあえず手に取ってみようという状況にはないのである。
とはいえ、読者数に過度にこだわる必要はないのも確かであり、今後もコンスタントに多様な中国SFを出し続けることができれば、海外SFのなかの一角を占め、日本に定着することができるだろう。別に定着しなくてもいいのでは、と思う人もいるかもしれないが、英語圏だけでなく様々な地域の作品が選択肢にあれば、読書の幅や視野が広がり、面白い作品にであえる機会も増える。また、『三体』が多くのクリエイターに影響を与えたように、SF自体の活性化につながる可能性もあるだろう(4)。
ただ、何度も苦境を乗り越えてきたSFの老舗出版社である早川書房はともかく、中国SFに注目して新規参入を果たした各出版社は、読者数の確保が見込めなければ、手間暇がかかる翻訳刊行に及び腰になってしまう可能性がある。身も蓋もないけれども、中国SFが真の意味で日本に定着するためには、ある程度の読者数を確保しつつ、時にヒット作が出なければならないのだ。
劉慈欣頼みの状況が終わりを迎えつつある今、これまで以上に中国SF界の動向にアンテナを張るとともに、過去作(特に2000~2010年代)の発掘を行ない、継続的に様々な作家の質の高い長篇・短篇集を翻訳出版し、興味深いアンソロジーを編む必要があろう。そして、出版社のみならず、翻訳者やアンソロジストを含む関係者によって、中国SFに興味を持つ読者を増やす努力が欠かせない。これは中国SFのみならず、どのジャンルにも当てはまるごく平凡な結論であるが、だからこそ一朝一夕に解決できる問題ではない。
今年は早川書房から江波『銀河の心』・韓松『医院』が出る予定(ただし英訳からの重訳)であり、その他の出版社からも複数の企画が進行中と聞いている。筆者も中央公論新社から『長安ラッパー李白』という日中競作唐代SFアンソロジーを出す予定である。中国SFが日本に定着できるよう、筆者も微力ながら模索を重ねていきたい。
【注】
(1)『三体』第Ⅰ部は、第51回星雲賞(海外長編部門)を受賞し、『SFが読みたい』2019年ベストSF海外篇1位となった。『三体Ⅱ 黒暗森林』は、第52回星雲賞(海外長編部門)を受賞し、『SFが読みたい!』2020年ベストSF海外篇2位。『三体Ⅲ 死神永生』も『SFが読みたい!』2021年ベストSF海外篇1位に選ばれた。
(2)なお、中華BLの墨香銅臭『魔道祖師』も単行本・アニメともに大ヒットしている。『三体』と『魔道祖師』は中国エンタメ小説の二大巨頭といえよう。
(3)2019年ベストSF海外篇では『三体』が1位。2020年は2位『三体Ⅱ』、7位『時のきざはし』、8位『月の光』、9位『荒潮』とベスト10のうち、中国SFが4作品ランクインしている。2021年は1位『三体Ⅲ』、8位『時間の王』、10位『移動迷宮』。2022年は3位『円』、9位『三体X』。2023年は3位『ガーンズバック変換』。なお、翻訳点数の多い郝景芳は、意外なことにベスト10入りしたことがない。2019年の『郝景芳短篇集』は16位、2020年の『人之彼岸』は20位、2022年の『流浪蒼穹』は21位である。自伝体小説の『1984年に生まれて』はSF要素が少ないとみなされたのか、ベストSFのランク外となっている。ただ、『1984年に生まれて』は、第7回日本翻訳大賞の最終候補作となっており、海外文学として高く評価されている。
(4)例えば、武甜静・橋本輝幸・拙編『中国女性SF作家アンソロジー 走る赤』の刊行に影響を受けて、大森望が日本の女性SF作家のアンソロジー(『NOVA 2023年夏号』河出文庫)を編んだこともそうした事例の一つにあげられよう。
(おおえ・かずみ 中華SF愛好家)
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