|

3月2日 共産党宣伝部門による同作品に関する報道禁止令

検索不可
|
この問題について、香港紙のウェブサイト「東網」で東歩亮というコラムニストは「ビデオの内容よりも、国民が組織的な行動を起こすことに共産党が不安を感じたため」として、その制作の経緯を含め、次のように論じた。①
「穹頂之下」が禁止された原因について、多くの人が上海で流れた内部禁止令から、宣伝主管部門がこの問題を全人代や政協の議論のテーマにすることを望まなかったとの説明がされたが、会議が終わってからもいまだに「穹頂之下」や「柴静」はネットで検索が規制される「敏感な言葉」になっている。
間違いなく、柴静による「穹頂之下」撮影とその公開は用意周到に行われた。柴静の演説場面は1月27日に完成したが、映像は1カ月後、春節(2月19日)をすぎてから公開された。柴静の多くの友人はこの作品に関する文章の中で、この時期を選んだのは(2月末に始まった)全国人民代表大会、全国政治協商会議の代表やメディアにスモッグや環境問題について関心を持ってほしいためだったと明らかにした。演説当日、撮影の現場に参加した観衆は100人を超えたが、彼らは自ら秘密を守り、誰も漏らそうとはしなかった(ソーシャルメディアが発達した今日、100人以上にこのような衝撃的な内容について秘密を守らせるのは、相当強い組織力だと言える)。そして作品が公開された当日、人民網は柴静へのインタビューを掲載、影響力のある柴静の友人らはネットでこの作品を紹介する文章を発表、作品が広まるのを後押しした。これらすべてが、周到に練った計画だったことを示している。
今日、共産党の安全、情報、宣伝部門などは神経過敏になっており、市民の組織的行動は共産党の政策からみて正当であってもなくても、粉砕するか、解散させるか、捕まえるかにより、それが大きな流れとなる前に防ごうとする。多くの人が参加し、組織的で、一定の力を形成する一切の活動はイデオロギー化され、共産党の統治に脅威を与える政治勢力とみなされてしまう。
柴静の作品は、100万元の制作費にいわゆる「敵対勢力」の支援があろうがなかろうが、その作品を制作し広めたことが「計画的で組織的」行動であれば、共産党のレッドラインに触れてしまったのだ。ましてやこの作品が巨大な影響力を生み、「西側の汚染解決を参考とし、市民社会、市場、報道(による)監督、法治などの価値観を宣伝した」「環境問題を政治化し、全人代、政協や指導層の政策決定に影響を与えようとした」(などとレッテルが貼られた)ことで、宣伝、安全部門は恐れおののいただろう。
|
|
|
|
|
①柴靜《穹頂之下》被禁的真正原因
②柴静视频事件是国际垄断资本发起的攻击中国经济主权的新一轮狂潮
③柴静事件的政治意义
④张雪忠:防治雾霾不能“从我做起”
|
評論はこのように論じ、「柴静の作品の公開禁止は、共産党の宣伝、安全、情報部門があらゆる民間活動をイデオロギー化、政治問題化するという指導原則の下で取った、一貫した抑圧(対策)であり、まったく奇異な点はない」とした。
この作品が制作され、禁止された事情については以上のような経緯があったのだろうが、作品に対しては賞賛だけでなく様々な評価があった。「烏有之郷」(ユートピア)のような左派系サイトは「西洋の奴隷である柴静は米国帝国主義の大々的な資金援助のもと“自費”でいわゆる環境保護ビデオ『穹頂之下』を制作、共産党メディアを含む各メディアがこれを絶賛、このことは中国の文化主権が完全に喪失したことを意味する」「この柴静のスモッグ事件は、実質的には米帝国主義をトップとする国際独占資本が、中国国内の売国奴買弁資本と密接に協力し、メディアを使い発動した中国経済主権に対する空前の規模の包囲戦だ」と教条的で的外れの批判を発表した。②
一方肯定論はどのようなものだったか。微信で公開された「柴静事件の政治的意義」という文章によると③、「中国政治の現代化には思想の啓蒙と実際の行動の2つに頼らねばならない」として、「柴静の今回の行いは、広範かつ深い啓蒙であると同時に、驚くべき規模と効果のあった行動だ」として、啓蒙と行動は具体的には「多くの市民が国の治理(ガバナンス)は自分たちの問題だと認識し、他人任せであってはならない」と自覚したことが啓蒙であり、そして「1人の市民(柴静)が発議した提案が社会各層の反響を得た、これは中国ではかつてない行動だった」とした。
さらに「柴静は石油会社を批判し、現行制度こそが最大の罪人であることに直面していないという人がいる(後述の文章参照)。だがこの種の人はまったくこの作品を理解していない、我々の生活が一体どのような言論環境にあるかを忘れているようだ。
メディア人として、『穹頂之下』は今日中国の個人がなしうる言説の極限だ。柴静は勇敢というだけでなく知恵があり、どのようにして極限に達し、それを超えないかが分かっている。我々は彼女を烈士(政治運動などの犠牲者)にしようとでもいうのか、だったらなぜ自分が烈士にならないのか。(中略)柴静を批判していけないということではない、だが現在、柴静に過酷に当たる人は客観的には柴静が批判する対象を結果的に助けていることになる」と述べた。
つまり、今日の厳しい政治的環境で柴静はできるだけの、ぎりぎりの主張を行ったのであり、人々の間に啓蒙と行動という大きな成果を得た、とこの論者は高く評価している。
だが、その限界を厳しく指摘する意見もある。米国のウェブサイト「中国数字時代」に転載された自由派知識人の華東政法大学元准教授、張雪忠氏は、大気汚染のような公共問題の解決はあくまで政府の責任と主張した。主な内容は次のようなものだ。(元のブログは削除された。)④
このドキュメンタリーは、スモッグの発生源と危険性を指摘、中国人一人一人に「自分から行動を起こそう」と呼び掛けた。中国では社会問題に関心を持つ人は、いつもこのような呼び掛けを好み、問題解決のためには自らの努力と犠牲が必要だとする。だが公共問題の解決を個人の努力に結び付けようとするやり方は、問題解決につながらないだけでなく、真の解決の道から遠ざかるものだ。
スモッグ危機は他の公共危機同様、「自分から行動を起こそう」では解決しない。公共危機の解決は、政府の責任に専ら属する。だが問題は人々が政府に「頼る」ことで解決するのではない。政権にある者は、外部からの束縛がなければ、私利私欲を追求し、自ら問題に取り組もうとはしない。スモッグ危機は民主的な立法機関が制定した合理的な法律によって解決されなければならない。さらに問責可能な行政機構による公正で効率の高い法執行や、独立した司法機関により環境に関する権利を守らねばならない。
だが中国には、競争のある民主政治も独立した司法機関もなく、人々の環境権はまったく保障されていない。環境の悪化について人々は、政府の責任を問うことはできない。自らの権益を守ろうとする人は、政府による強力な治安維持に直面するだろう。
中国にこれほどひどいスモッグ危機が訪れたのは、完全に政権の専横と腐敗のためであり、ガバナンスの失敗ゆえである。この致命的な危機が生まれたのは、中国人に公衆道徳が欠けているからではなく、中国人に権利が欠けているからである。政府が環境保護の責任を放棄しているだけでなく、人々が環境保護に参加する資格を奪っているからである。
真に公民意識のある人は、自虐的に責任を自らに帰するのではなく、政府に対して厳しく責任を問いただせねばならない。もし政府が応じようとせず、問題解決ができないなら、人々は政府を改造するか交替させるかしかないのだ。
|
|
|
|
|
|
|
|

变态辣椒-雾霾真相 |
変態辣椒も同様の趣旨の漫画を発表しており、極めてまっとうな主張であるが、こういう意見が次々と広がることを中国政府が警戒したからこそ、数日間で“発禁”処分としたのだろう。先の論者も前述したように「現在の中国の言論環境で、ここまで主張するのは無理」と批判している。
さらに特筆すべきは、柴静の作品への評価が本来彼女を支持したであろう知識人の間でも分かれたことだ。在米の学者、ジャーナリスト何清漣はビデオが制作、発表された背景に陰謀論(柴静が政府と組んでこの作品を仕組んだといった批判)などが広がったことに「社会の共通認識の完全な破裂」として次のように論じている。⑤
「知る権利は民衆の基本的な権利の1つだ。数年前著名ブロガーが米国大使館の大気観測値を微博で公表した時、人々は自分たちが騙されていると知って怒り、環境保護局に真相を明らかにするよう求めた。当時人々は土地や水の汚染は地域的なもので、民衆の関心の持ち方は異なるが、空気は人々が必ず呼吸するものであり、集団的行動に繋がりやすいと考えた。だが今日柴静のドキュメンタリーが『形を変えた治安維持』とまで言われるのは、社会学の角度から見て、中国社会の利益分化が極端に深刻であること、もはや全社会の共通認識が再び形成されることがありえないことを示した。特に(国や社会の)周縁へと追いやられた集団にとって、「張献忠意識」(明末の農民反乱軍の指導者)、すなわち自分が帰属しない国は、早く瓦解すればよいという意識が生まれた。統治集団と民衆の間には、『あなたのチャンスは私の不幸であり、私の不幸をあなたは狂喜する』という極端な対立が生まれたのだ。」
この中国社会の分裂現象について、何清漣と近い立場から興味深い論考をしたのは本コラムでも取り上げた作家の慕容雪村」(本コラム「ネット統制の中で奮闘する知識人」参照)だ。彼は「柴静事件と中国の言論空間」という文章で次のように指摘している。⑥
|
|
⑤何清涟:社会共识完全破裂:从柴静纪录片的遭遇说起
⑥慕容雪村:柴静事件与中国的言论空间 |
柴静のドキュメンタリーがこれほどの論争を起こしたのは、時期が悪かったからかも知れない。もし3年前に発表されれば、私は大声で賞賛しただろう。だがもしこれが1、2年遅れていたら、批判はさらに冷酷無情になっていただろう。
今日の(柴静の作品をめぐる)意見の分裂はその言論環境と関係があることに注意している人は少ない。過去2年間、中国の言論空間はかつてないほど圧縮され、大量の(微博)アカウントが取り消され、かつて存在が認められていたNGOが強制的に解散させられ、多くの人が投獄された。日に日に厳しくなる環境の中で、言論者の集団や社会大衆にはいずれも明らかな分裂が生じた。つまり一部の人は主旋律の懐へと投じ(政府支持へと転向し)、一部の人は沈黙するようになり、また一部の人は温かい言葉を捨て、激烈で極端な方向へと走った。
だが柴静の言葉はその中間地帯にあり、激烈でもないが、愛共産党や愛国でもない、語るのは一部の事実であるが、その核心地帯ではなく、基本的には生暖かい言説である。「圍観改変中国」(本コラム「圍観」参照)「微博改変中国」といったスローガンが流行していた時代、この種の言説は大いに歓迎され、批判を受けることは少なかった。だが意見の分裂が進んだ今日、このような生暖かい言説は双方から攻撃を受ける。すなわち共産党を熱愛する者はこの作品は党の事業に泥を塗るものだと批判する一方、過激派はこの作品は本当の原因に触れておらず、党と心配を共にし、困難を取り除くことになっていると批判する。柴静の受けた感覚はおそらく「泣くに泣けず、笑うに笑えない」状況だろう。彼らは同じ作品をみているのか、なぜ結論がこんなにも開きがあるのか、と。
このような状況は今日に始まったのではない。当局の弾圧によりこの種の分裂は加速状態にある。柴静事件から分かるのは、両極端の人々がますます増え、中間地帯の人が減っている状況である。予測可能な将来、この種の状況は収まることがなく、むしろ激烈化するだろう。スモッグに限らず、政治、経済、環境などいかなる問題もまた同様の論争を引き起こすだろう。
このような分裂は極めて耐え難い局面を生むだろう。言論者の間の理解はますます減り、攻撃や批判がますます増え、調和可能な空間はますます減り、ますます多くの友人が絶交するだろう。だがその良い面は、今後公共の場での討論が(仮に公共の場での討論が存在できるとすれば)より直接的なものになるということだ。つまり、曖昧な地帯は存在しないということであり、自分の立ち位置を明確にしない人が「ゆったりと」構えることはなくなるということだ。
すべてを統一することを宗教とする国家(中国)には、この種の分裂が無用の心配を引き起こすかもしれない。だがこれは悪いこととは限らない。このような国家において「意見の統一、歩調の一致」とはしばしば権力者により強制されるもので、権力者が最大の受益者となるからである。分裂は競争と自治を意味する可能性もある。これこそが、柴静事件が我々に与えた啓示なのかもしれない。 |
|
|
大気汚染という社会共通の課題への市民参加を呼び掛けた柴静の作品が、はからずもこのような中国社会の世論の分裂状況を明らかにした。今回の一連の言論界の状況について、柴静自身はどう考えているのか、おそらく本人の想像を超えた結果になったのではないか。
ただ確実に言えることは、慕容雪村ら論者が指摘したように、このような本来社会の幅広い賛同と行動を呼び覚ますはずである映像作品がわずか数日で禁止されたこと、その背後にあるのは市民社会のわずかな萌芽や行動にさえおびえ、芽を摘もうとする中国の政治状況であり、弾圧を重ねた結果本来生まれるべき社会の共通認識が育たず、両極端へと分裂しているという貧困な言論状況だ。
本来なら政府は今回のような呼び掛けに耳を傾け、社会とともに共通の問題の解決に取り組むべきなのだが、全人代での指導者の発言などを見る限り、環境問題への取り組みもあくまでトップダウン式に進めようとしている。社会に健全な共通の民意が見出せず、政府への礼賛と批判しかない極端かつ硬直した言論状況では、あらゆる建設的な運動や発案も政府にとっては自分たちへの脅威にしか映らない。対話すべき相手を失った結果、政府は見えない影におびえているかのようである。こうした中国政治がはらむ脆弱性について、米国の学者などからしばしば指摘が出るようになり、論争になっている。そうした問題についてもいずれ取り上げたい。 |