だがこれに対して、冒頭書いたように様々な異論も出ている。このうち、呉恒というブロガーによる「空中楼閣的推特、毫米推進的微博(空中楼閣のツイッター、1ミリずつ進歩する微博)」という文章をまずは紹介したい。
安替の『革命的推特~』(以下『革命』)は専門的角度からツイッターと微博という2つのソーシャルメディアの違いを分析、(著名作家、活動家)冉雲飛は『ネット政治学、社会学、メディア学の分析を融合したすばらしい文章』と評価した。
『革命』はツイッターの価値を『革命のツール』と高く評価し、これに対して微博は中国の民主化の過程において「マイナスの面もありうる」とした。だが、『革命』はツイッターと微博の中国の民主化における役割を論じた際、ロジックが綿密でない部分が多く、それゆえ結論が過度に悲観的であり、ツイッターの価値を高く見積もり、微博の中国社会でのプラスの働きを低く見すぎている。
呉はこう論じた上で以下のように理由を説明している(あまりに長文なので一部のみの紹介にとどめる)。
まず「ツイッターと微博のどちらが中国社会への影響が大きいか?」という問いではこう指摘する。
もし中国でもツイッターに自由に訪問できるのなら、その役割は微博よりも大きいだろう。ツイッターは書き込みが削除されることも、敏感詞(使用禁止語句)もなく、情報の自由な流通を実現している。だが残念ながら、ツイッターは(中国では)封鎖されており、我々の手元にあるのは微博だけだ。このような現実の環境で、微博は中国政治の現代化に歴史的な貢献をしており、そのプラスの役割はマイナスよりも大きい。
ツイッターは“革命的な”武器かもしれないが、アクセスできなければいくら革命的だろうと役に立たない。微博は言論の検閲もあり、治安維持に利用可能だが、管理者と知恵比べに長け、勇敢な網民の集団がおり、検閲を迂回して自分の意見を多くの人に伝え、同様に社会を前に進める働きを持っている。
つまり網民は厳しい制限の中でも、ユーモアや様々な手段を駆使して言論空間を広げようとしているのであり、その努力を軽んじることはできないという主張だ。筆者も小著でこうした実例を紹介した。
そして「ツイッター=革命なのか?」、つまりSNSは革命をもたらすかという問題で呉はこう述べている。
『2011年のアラブの春では、ツイッターやフェースブックは独裁政権を倒すのに決定的ではないとしても、重要な役割を果たした』という『革命』の記述は、論証を経ていない。米メディア、「ニューヨーカー」のコラムニストが同年5月に発表した文章で、SNSは『弱い絆』によるプラットフォームであり、高度なリスクを要する活動の組織ツールとなるのは難しいと指摘したが、この方が説得力を持つ。ツイッターやフェースブックの重要性ばかりを強調するのは、チュニジアやエジプトの具体的な国情(主には政府が集団暴動にどのような態度、反応をとったか)やチュニジア人、エジプト人が民主化建設のために払った努力をおろそかにするものだ。
中国でツイッターに自由にアクセスできるようになれば、チュニジアやエジプトのような事が起きるのか?それはない。ツイッターは中国では真に封鎖されているわけではないし、さらに言えば、GFWは中国で真に打ち建てられてはいない。越えようと思えば(ネット規制の)壁は越えられるのだ。ではなぜ皆壁を越えようとしないのか?この問題には2つの説明ができる、つまり1つには大部分の網民は自由への渇望がそれほど高くなく、壁の中でも十分快適なのであり、もう1つには壁の外は想像していたほど素晴らしい世界でもなく、全国人民がツイッターにアクセスできるようになったとしても、中国に革命が起きるということはないということだ。(中略)簡単にいえば、短期間内に、中国でアラブの春は起こり得ない。それは『革命』が言うようなツイッターやフェースブックがないからではなく、中国社会ではまだ大多数の人が、『民の恨みが煮えたぎっている』という状況まで達しておらず、もう1つは、人々は政府が取りうる行動を恐れているからだ。
引用が長くなったが、筆者も全くその通りだと思う。ジャスミン運動が盛り上がらなかった理由も、何だかんだ言っても中国の大多数の人々が政治体制を変えなければいけないという差し迫った必要性を持っておらず、傍観者を決め込んだからだ。
だが、これでは「ツイッターも微博もダメ、ネットは中国社会を変える力を持たない」という日本でも時々聞かれる悲観主義的結論となる。これに対し呉論文は「微博は市民社会を縮小させているのか?」という問いで次のように答えている。
『革命』は慈善活動や環境保護運動などへの評価が低く、これらは『市民社会の組織能力を蓄積することはできず、中国社会を発展させる可能性は限られている』と述べているが、自分はこれに断固反対する。中国の市民社会の育成は、正にこの2つから出発しなければならず、微博はその最大の功労者だ。これらは政治リスクが低く、参加のハードルが低く、民衆の情熱は大きく、容易に広めることができる。多くの民衆がこれに参加し、自ら解決することが習慣となれば、レッドラインが1ミリずつでも後退する。
昨年寧波で起きたPX事件(化学工場建設反対運動)は正にそれであり、誰かが扇動した証拠はなく、自らの直接利益に関心がある地元の人が、自発的に行った権利擁護運動だった。これこそ市民社会の訓練と言えるのではないか。微博を埋め尽くした注目は全国民の声援ではないか。こうした効果こそ、ジャスミン運動よりもはるかに影響力があるのではないか。
要は、市民としての権利意識を呼び覚まし、運動を大規模なものとする手段として、微博は大きな役割を果たしているという指摘だ。呉はさらに「微博が登場以来、中国社会にもたらした最大の変化は、政府批判を一種の常識、さらには一種の流行にしたことだ」として、非常に興味深い議論を展開している。
微博のユーザーは中国の大部分の網民をカバーしており、微博上のスーパーユーザーは政府批判をすることで有名で、『公知(公共知識人)』という名前を付けられている(公共知識人については小著参照)。彼ら自身は知識人ではなく、発表する言説も学術的に目新しさがあるわけではない。だが、啓蒙とは新しい思想を創造することではなく、成熟した思想を普及することだ。彼らは政府を疑い、そして疑い続けることでネットユーザーから尊敬や支持を受けたが、これも啓蒙の一部だ」。
「『政府を批判してもいいのだ』『政府を批判しても必ずしも捕まるとは限らない』『政府を批判しても、それが鋭い批判なら、人々から喝采を浴びることができる』こうしたことはベテランの反体制活動家には大したことではないかもしれない。だが小さい頃から共産党の体制で教育を受けてきた人には、微博は彼らに初めて普遍的価値に触れる機会を与えた。微博はツイッターが果たせなかった使命を果たしたのである。
もちろん、批判には限度はあり、共産党そのものや、習近平を批判することは許されないだろう。だが最近、微博で次々と地方役人の汚職が暴かれているのを見ても、こうした網民の運動を後戻りさせるのはもはや不可能であり、政治や社会に着実な変化をもたらしているといって差し支えないだろう。
呉は最後にこう締めくくっている。
ツイッターは確かに中国政治の現代化の中で大きな貢献をした。多くの声を受け入れ、反体制派の桃源郷となった。残念なことにそれゆえに壁の外に追い出され、多くの網民にとっては空中の楼閣だ。一方、微博は隙間の中で生存し、影響力あるユーザーが1ミリずつ中国社会を前に進めてきた。もし微博とツイッターの区別を問うならば、『微博は中国の網民に影響を与え、ツイッターは中国の網民に影響を与える網民に影響を与える』ということだ。
この議論について、このほど来日した中国の著名ジャーナリスト(事情があって本名は明かせない)も筆者の問いかけに次のように語っている。
当局は言論統制にますます多くの力を投入しているが、言論の自由の空間は縮小することなく拡大している。微博で暴露されると、政府はすぐにこれを削除するので、言論の自由はないという人もいる。だが社会発展の趨勢は、(民間世論の)力は大きくなり、政府の管理能力は限界に達し、まもなく臨界点に達するだろう。
中国のネットが海外のメディアの自由度と大差ないと私が考えるのは、その規模が主な理由だ。規模が小さければ管理は容易だが、大きくなれば管理が不可能になる。現在微博は管理が不可能な状況に発展している。政府はこれを恐れており、そのために投下する力は巨大だが、包丁で水を断つことはできないように、表面的にしか役に立っていない。
少数の有名な人への弾圧は、いわば(当局の)最後の防衛ラインであり、これが突破されたら中国に本当の言論の自由が訪れるだろう。中国共産党は鉄砲とペンから政権が生まれるという考え方なので、著名な反体制活動家などを管理するのは当然だ。だがそのことは微博での管理が有効ということではない。(目立たない)普通の人は管理できないのだ。
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