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日本ビジネス中国語学会
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東京便り―中国図書情報 第48回 .

 東京大学・中国文学の藤井省三教授 最終講義レポート
  “国境を超える文学・文化の持つ力、信じたい”

   
   

藤井省三教授中国の文豪・魯迅(1881‐1936)をはじめとする現代中国語圏文学の研究で知られる東京大学の藤井省三教授(文学部・大学院人文社会系研究科、中国語中国文学研究室)が今年3月をもって定年退職されるにあたり、その最終講義が3月10日、東京・本郷にある同大文学部の大教室で行われた。

テーマは「魯迅と現代東アジア文学史」。
藤井教授は、中国や魯迅にひかれた高校生時代から、通算33年にわたる東京大学での助手・助教授・教授時代までを振り返りつつ、数多くの研究成果を時系列で――まさに教授の研究手法の一つである「繋年」(けいねん、時間・年代順)で、詳しく紹介。

その講義は、魯迅を軸として夏目漱石、村上春樹、イギリスの詩人バイロン、ロシアの詩人エロシェンコらを読み解くといった、国境や時空を超えた壮大なスケールの文学研究さながらに進められた。大教室をいっぱいに埋めた約250人の学生や関係者らは、藤井教授の最終講義を惜しむかのように熱心に耳を傾けていた。
以下、記念すべき講義の模様をレポートする。
 
 

   
 

■魯迅にひかれた青年と恩師の教え

2018年3月10日 東京大学本郷キャンパスにて藤井教授が中国に関心を深めたのは、高校生のころ。中国思想史の研究者・福永光司(1918‐2001)訳の『荘子』をはじめ、マルクスが「科学的社会主義の入門書」と推奨したエンゲルスの名著『空想から科学へ』などを愛読し「左翼少年のふりをしていました」。
家庭や学校、社会に対して、疑問や反発を覚える多感な高校生時代……。
そのアイデンティティが揺れ動く時期に、ちょうどお隣の国・中国ではプロレタリア文化大革命(文革、※1)が起こり、同世代の若者たちが社会を変えようと文革推進力の「紅衛兵」として“活躍”していた。「当時、いわば文革に共感したことが、私たちの世代、とくに現代中国に関心を持つ者の特色ではないかと思います」と藤井教授は振り返る。

※1)1966~76年、中国で大衆を巻き込んで行われた政治運動。名目上は「資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創る」ことだったが、実際には毛沢東が主導した権力闘争だった。

魯迅の翻訳で知られる中国文学者で文芸評論家の竹内好(1910‐1977)らの集まり「中国の会」に参加したのも高校生のころ。“革命中国の語り部”竹内好にあこがれて、『魯迅作品集』(竹内好訳、全3巻)や『竹内好著作集』(全3巻)などを愛読しつつ、その「単純明快な魯迅論」を吟味していた時期でもあった。

1972年、東京大学に進学(文科三類Eクラス:中国語クラス)。同年9月には日中国交正常化が実現し、中国語クラスは人気クラスとしてにぎわったという。
専門学部の文学部(中国文学科)に進学してからは、丸山昇(1931‐2006)教授の中国近代文学史などを学び、卒業論文は中国の文学者・蘇曼殊(そまんしゅ、1884‐1918)とその作品をE.H. Eriksonのアイデンティティ理論やエリアーデの神話学研究を応用し、現代中国文学史研究で知られるLeo Ou-fan Lee(李歐梵)教授の著書The Romantic Generation of Modern Chinese Writers(近代中国作家のロマン派世代)に学びながら『蘇曼殊小説論』をまとめ上げた。

76年に大学を卒業し、同大学院(人文科学研究科中国文学専攻)に進学。このころは多くの良き師に、中国文学研究に関する貴重な教えを受けたという。
中国の小説家・郁達夫(1896‐1945)の研究を通じて出会った小野忍(1906‐1980)東大名誉教授は、世界における中国文学、しかも現代にも古典にも通じていて、「『中国文学だからといって中国の中だけで見ていてはだめですよ。世界に目を広げなさい』と、“現代中国文学を世界的視野で見る”ことの重要性を教えてくださいました」。

また、中国古典文学の前野直彬(1920‐1998)教授は、「作家の全作品を『繋年』(※2)して読む」方法論を説いていた。
「李白だ、杜甫だといっても名作ばかりではない。作家がいつ何を書いたか年代順に読んでいくと、作品には優劣があることがわかる。その背景には何があるか? 作品を『繋年』して読むことで、その時代や社会が見えてくる、と説いておられました」

※2)年を繋ぐ。ここでは作家の作品を年代順に読むこと。

そうした貴重な教えにならい、魯迅の日記・書簡、閲読近代文学書とともに、その月に発表された作品を読むという「繋年」研究を進めていく。それをさらに深化させ、世界的・時間的視野で考察してまとめた修士論文が『個と民族』だった。
これは清朝を倒し中華民国をたてた「辛亥革命」(1911‐1912)期に、時を同じくしてイギリスのロマン派詩人バイロン(1788‐1824)を読んでいた3人の革命派文人(章炳麟、魯迅、蘇曼殊)のアイデンティティ危機と外国文学受容を比較研究した、画期的な学術論文。のちに日本を代表する中国文学・哲学研究の学会「日本中国学会」の機関誌『日本中国学会報』に発表され(1980年)、同学会賞を受賞。藤井教授の青年期における中国文学研究の代表作の1つとなった。
 

■中国文学者としてのアイデンティティ危機

1976年に中国で文革が終わり、78年に日中平和友好条約が締結される。日中間の経済・文化・人的交流がようやく本格的に始まる時期を背景に、留学生の交換もスタートした。東大大学院博士課程にいた藤井青年は応募して、79年に第1回日中両国政府交換国費留学生として訪中する。
ところが、留学先の上海・復旦大学では、たとえば著名な中国現代文学研究者・賈植芳(1915-2008)教授がなおも「右派分子」(※3)として懲罰労働を課されているなど、期待していた魯迅研究は復活していなかった。

※3)中国共産党の政策に批判的とされた知識人。1957年に中国で右派分子を摘発する政治運動「反右派闘争」が行われた。

藤井省三教授最終講義の模様大学の外で会った市民たちは温かく迎えてはくれたものの、「なぜこんな国に来るのか、どうしてアメリカに行かない」などと自虐的に語っており、大学の図書館では図書閲覧も不便きわまりなく、藤井青年はだんだん失望感に苛まれていく。

欧米からの第1回交換留学生たちも、同じように左翼や文革にあこがれて「ソ連の社会主義はダメだけど、中国はまだ希望があるんじゃないか」という幻想を抱いて来ていたが、「現実の中国を見て皆がっかりしていた。1年間の留学後、『もはや社会主義に幻想は持たない』と語りあい、それぞれ別れて帰国しました」。

これが藤井青年の「中国文学者としての第一のアイデンティティ危機」だったという。しかし、そこであっさり諦めてしまわないのが、この若き気鋭の学者だった。
中国留学が順調ではなかったことから、夏目漱石が挫折を味わったというロンドン留学に親近感を覚え、漱石全集を「繋年」して読みふけった。すると漱石と魯迅が同時期に、ロシア革命期に活躍した作家アンドレーエフ(1871‐1919)の作品を読み、深い影響を受けていたことがわかった。こうして漱石・魯迅におけるアンドレーエフの「恐怖と不安の文学」受容の比較研究を行ったのが、初の著作『ロシアの影――夏目漱石と魯迅』(平凡社、1985年)として結実する。

82年に大学院博士課程を修了し、東大文学部助手、桜美林大学文学部助教授を経て88年東大文学部助教授(中国文学)に就任。
89年5月には、ロシアの盲目の詩人エロシェンコ(1890‐1952)の軌跡とともに、その友人・魯迅の視座をも加えて、1920年代における文学と社会とのかかわりを鮮やかに浮き彫りにした『エロシェンコの都市物語――1920年代 東京・上海・北京』(みすず書房)を刊行した。「東アジアを舞台として比較文学研究を行う方法を、ある程度確立できた」と自信を深めたちょうどそのころ、中国で発生したのが天安門事件(※4)だった。

※4)1989年に中国・北京で起きた民主化要求運動を、軍隊が武力で制圧した事件(六四天安門事件)。多数の死傷者を出した。

まさに「中国文学者としての第二のアイデンティティ危機」(藤井教授)だった。
鄭義(1947‐)や莫言(1955‐)ら関心を持っていた現代中国文学の作家たちが消息不明となり、巴金(1904‐2005)は沈黙してしまう。
「(事件に対して)大変なショックを受けたばかりか、中国文学者として一体何をしたらいいか、そもそも現代中国研究はもうできないのではないかと頭を抱えました」

しかしこの時も、新たな研究テーマに出合い、逆境を乗り越えていく。
ちょうどその時、文芸誌『ユリイカ』の編集長より特集「中国文学の現在」(89年10月号)への協力を依頼され、中国共産党史観の「正史」ではない、中国国民の視点に立ったこれまでにない文学史「共和国の興亡と中国文学」を執筆する機会を得た。それによって「私はもう一度、中国文学と向き合う姿勢を持つことができた」と藤井教授はしみじみと語る。この原稿用紙約100枚(約4万字)にわたる文学史は、のちに『中国文学この百年』(新潮選書、1991年)に収録された。
  

■“越境”続ける文学・文化の持つ力

1994年に東大文学部教授に、また95年に同大学院人文社会系研究科教授にそれぞれ就任。
以来、『中国映画を読む本』(朝日新聞社、96年)、『魯迅「故郷」の読書史――近代中国の文学空間』(創文社、97年)、『台湾文学この百年』(東方書店、98年)、『村上春樹のなかの中国』(朝日新聞社、朝日選書、2007年)、『魯迅:東アジアを生きる文学』(岩波書店、2011年)、『魯迅と日本文学:漱石・鷗外から清張・春樹まで』(東京大学出版会、2015年)などの著作を次々と発表してきた。
東大文学部助手(82~85年)の時代から、これまでに刊行された主な著作は約30点に上り、『魯迅全集』など主な翻訳書は20点を超える。
また、日本をはじめ中国、香港、台湾、韓国、シンガポールなどで開催され(または主宰し)、出席した国際シンポジウムは約100回を数えるという。

藤井ゼミ出身者27名が寄稿した『越境する中国文学 新たな冒険を求めて』その研究は、数々の著作や翻訳からもうかがえる通り、魯迅を軸として現代東アジア文学(現代中国語圏文学)を世界的・歴史的・時間的視野で読み解くという壮大なスケールで深められた。しかも、魯迅と春樹の比較文学研究などに見られる斬新でユニーク、かつジャーナリスティックな考察は、多くの研究者、一般読者に新たな発見と読書の楽しみをもたらしたといえるだろう。

藤井教授は、文学や文化が持つ力についてこう語る。
「21世紀に入り、中国が経済力や軍事力を増して世界のパワーバランスが変化する今、(アジアにおいても)東シナ海、南シナ海、あるいは中印国境などで一時的衝突が起きる可能性もないとはいえない」
「そうなると、偏狭なナショナリズムが各地で高まり、本来偶発的な衝突を拡大してしまう恐れもあり得る。しかし、文学や映画・テレビドラマ等を通じて東アジアの人々の間に互いの情念、論理に関する理解が深まり、敬意が育っていれば、武力衝突が全面的なものに発展することを防ぐ止め役になるかもしれない。また、そうなってほしいと思います」

日本の戦中、戦後の一時期に禁止されていた魯迅の翻訳が1953年、日本が独立を回復した翌年から中学校の国語教科書に収録される。さらに72年の日中国交正常化をキッカケに中学校の国語教科書(全5社)に魯迅の「故郷」が収録されて、今に至る。
「敗戦後の日本で魯迅や現代中国文学の翻訳書の出版が禁止されていたのは、おそらくアメリカ占領軍が中国の社会主義革命の影響を恐れていたから。逆説的になりますが、そのくらい文学や文化は大きな力を持っている。今後、東アジアが経済的・政治的・文化的に一体化していくとなると、そこには対立も生じる。様々な問題を抱えていますが、それを解決していく、あるいは融和していく一つのカギとなるのが文学であり、映画やドラマといった文化であるかと思います……」

花束の贈呈講義の最後に藤井教授は、東アジアを軸とした「越境」をテーマに、時空・文学の境域を越えるさまざまな視座から近現代中国を読み解く、藤井ゼミ出身の研究者27名による最新論文集『越境する中国文学――新たな冒険を求めて』(東方書店、2018年)について紹介した。
その上で、同書の執筆者をはじめ、大教室をいっぱいに埋めた参加者に対し「私としては皆さんがどんどん“越境”していって、10年後、あるいは20年後に(研究対象をより拡大した)『越境する東アジア文学』について語り合っていただければ……」と思いを述べた。

それは近い将来、文学や文化といったソフトパワーの“越境”により、さらに広く、深く、国境や民族を超えてともに語り合える日が来るかもしれない――そうした期待を感じさせる教えだった。
世界を見れば、反グローバル主義や保守主義の台頭などで揺れ動いている。しかし、藤井教授は“文学の持つ力”に希望を託し、最終講義を締めくくったのだった

※ 一部写真(全体風景、花束贈呈)は、東京大学中国語中国文学研究室提供。

  

1952年、東京都生まれ。桜美林大学文学部助教授を経て88年東京大学文学部助教授、94年同教授。95年同大学院人文社会系研究科教授。日本学術会議会員(2005‐14年)。専攻は現代中国語圏の文学と映画。
主な著書に、『魯迅と日本文学:漱石・鷗外から清張・春樹まで』、『中国語圏文学史』(以上、東京大学出版会)、『村上春樹のなかの中国』(朝日新聞社)、『台湾文学この百年』(東方書店)、『中国映画 百年を描く、百年を読む』(岩波書店)ほか多数。
主な訳書に、李昂『夫殺し』(宝島社)、『自伝の小説』(国書刊行会)、『海峡を渡る幽霊』(白水社)、魯迅『故郷/阿Q正伝』、『酒楼にて/非攻』(以上、光文社)、莫言『酒国』(岩波書店)、『透明な人参』(朝日出版社)ほか多数。

 


【図書情報】
『越境する中国文学 新たな冒険を求めて』越境する中国文学 新たな冒険を求めて
 『越境する中国文学』編集委員会 編 東方書店 2018年02月


東アジアを軸とした「越境」をテーマに、中国―香港―台湾―日本、1900年代から2000年代まで、時空・文学の境域を越え、旅行、音楽、映画、舞踊といったさまざまな視座から近現代中国を読み解く。論題に挙げられる作家だけでも中国語圏20人、日本8人、ギリシア1人、舞踊家と映画監督各1人、さらに本文中に登場する百花繚乱の創作者群像……。「魯迅と同時代人」「文芸市場の成熟と文学空間の変容」「文学の系譜をたどって」「加速する文学と映像の交渉」の4章構成。あとがきとして「中国語圏文学三十三年の夢」(藤井省三)を収録。東京大学文学部・藤井省三教授のゼミ出身の研究者27名による論文集。


【略歴】藤井省三(ふじい・しょうぞう)
 
     

 

 

小林さゆり
東京在住のライター、翻訳者。北京に約13年間滞在し、2013年に帰国。
著書に『物語北京』(中国・五洲伝播出版社)、訳書に『これが日本人だ!』(バジリコ)、
『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』(CCCメディアハウス)などがある。

 

  Blog:「しゃおりんの何でもウオッチ」 http://pekin-media.jugem.jp/
   
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