■「幻想的な感覚にひそむ深淵」
スウェーデン・アカデミーは10月5日、2017年のノーベル文学賞を、英国人作家カズオ・イシグロ氏に授与すると発表した。
代表作『日の名残り』(1989年)は、貴族に仕えた執事の苦悩に「大英帝国の栄光が失せた今日のイギリスを風刺して」(丸谷才一氏評)描き、イギリスで最も権威のある文学賞・ブッカー賞を受賞。アンソニー・ホプキンス氏主演で1993年に映画化され、米アカデミー賞の監督賞・作品賞・主演男優賞など計8部門でノミネートされた話題作ともなった。
また『わたしを離さないで』(2005年)は、臓器提供者となるために育てられたクローン人間たちの物語。一転して近未来SF仕立ての小説となり、世界中でベストセラーになるとともに賛否両論を巻き起こした問題作だ。2010年にイギリスで映画化されたほか、日本でも舞台化(蜷川幸雄演出)、テレビドラマ化されている。
ノーベル文学賞の授賞理由は「壮大な感性を持った小説によって、世界とつながっているという幻想的な感覚にひそむ深淵を明らかにした」こと。
長崎県に生まれ、幼少期にイギリスへ移住したイシグロ氏の作品は「過去の記憶や時間、そして自己欺瞞に触れている」とした上で、「それはイギリスの作家ジェーン・オースティンと、フランスの作家マルセル・プルースト、そしてチェコの作家フランツ・カフカの要素を併せ持っている」(アカデミー事務次官、サラ・ダニウス氏)と、その作品の完成度の高さを評価している。
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■アマゾン中国で前日比253倍!
こうした発表を受けて、中国でもたちどころに「石黒一雄」の作品が売れ行きを伸ばしている。中国語版は主に上海訳文出版社から8作品が出されているが、浙江省杭州市内の大手書店、新華書店では、ノーベル文学賞の発表後すぐに「(在庫の)ほぼ全てが売り切れた」という(銭江晩報)。
また、オンライン通販「アマゾン中国」では急きょ「2017年ノーベル文学賞受賞・石黒一雄おめでとう」と銘打ったカズオ・イシグロ特別ページを開設。
http://goo.gl/uPHqQo
長編小説『遠山淡影』(日本語題:遠い山なみの光)、『浮世画家』(浮世の画家)、『無可慰藉』(充たされざる者)、『被掩埋的巨人』(忘れられた巨人)と、短編小説『小夜曲:音楽与黄昏五故事集』(夜想曲集―音楽と夕暮れをめぐる五つの物語)といった中国語版5点セットのスペシャルセールを実施している。
そしてやはり注目度の高さからだろう、アマゾン中国によれば、ノーベル文学賞の発表からわずか1日で、その作品の総販売部数は前日比253倍を記録! 中でも『被掩埋的巨人』は同日、アマゾン中国の「書籍・売れ筋ランキング」の総合第1位に躍り出たという(剣客網)。「石黒一雄」のノーベル賞効果は、中国でもじわじわと現れている。
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■知名度は高くなく「意外だった」
ただし、このように“一夜にして”ベストセラーになったのは、「石黒一雄」がそれほど普及していなかったことの裏返しでもあるようだ。
今年のノーベル文学賞をめぐって、世界最大規模のブックメーカー(賭け屋)、英ラドブロークスの受賞者予想では、人気第1位は現代アフリカ文学を代表するケニア出身の男性作家グギ・ワ・ジオンゴ氏。2位につけたのが、例年人気の高い村上春樹氏だった。ノーベル賞シーズンには、こうしたニュースが中国のネット上でも駆け巡っていた。
だからなのか、イシグロ氏のノーベル賞受賞は「意外だった」とする声もある。
中国の作家で文芸評論家の白燁氏は「作品が翻訳出版されはじめたのが2011年ごろからで、国内の文学界や読者への影響力は大きくない。彼についてはよく知らないので、作品をじっくり読んでから批評すべきだと思う」と率直な感想を述べている(中国新闻網)。
また、先述の銭江晩報は「村上春樹、東野圭吾などの日本の作家に比べると、石黒一雄の中国での知名度は決して高くない」としながらも、村上氏のイシグロ氏に対する評価は高いと紹介している。
「これまでに、カズオ・イシグロの作品を読んで、がっかりしたことは一度もない。ここ半世紀の作品で、私が一番好きなのは『わたしを離さないで』だ」(村上春樹氏)
同紙は、世界的ベストセラー作家で、中国でも人気の高い村上氏の言葉を借りて「中国ではあまり馴染みのない」イシグロ氏の作品を、わかりやすく紹介したというわけだ。
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■例外的に決めた上海という舞台
イシグロ氏と中国とのかかわりについて注目するメディアもある。
新華社の日刊紙「参考消息」の電子版(10月30日付)は、ノーベル賞受賞が決まったイシグロ氏が先ごろ、母校の英イースト・アングリア大学で講演した内容について「自身の創作法や家族のヒストリー、中国・上海との関係について語った」と伝えた。
イシグロ氏の作品には、1930年代の上海租界を描いた長編小説『わたしたちが孤児だったころ』(2000年、中国語題『上海孤児』)、そして同時代の上海を舞台にしたロマンス映画で、オリジナル脚本を手がけた『上海の伯爵夫人』(2005年、英米独中合作、中国語題『伯爵夫人』)など、かつての上海を舞台にしたものがある。
イースト・アングリア大学の大学院で小説の創作を学んだイシグロ氏は、講堂をいっぱいに埋めた700人余りの後輩や文学ファンを前に講演。
「小説を書く際には、まずテーマや筋書きを考える。先に舞台設定を決めることはしないが、これらの作品は例外だった」(参考消息網)として、戦前から日中戦争が勃発したころの上海という舞台設定を、例外的に先に決めていたことを打ち明けた。
それというのも日本人の祖父(東亜同文書院卒)が1930年代に上海で豊田紡織廠の立ち上げを担い、取締役を務めたことにもかかわりがあるという。
「祖父が撮影した写真を見たことがある。当時の上海は“東方のパリ”と呼ばれていた。父も上海で生まれた。だからこの時期の中国にとても興味を持っていた。映画は監督(米国のジェームズ・アイヴォリー)に、上海ロケを敢行してほしいと提案したんだ」
さらにイシグロ氏は「私はまもなく63歳になる。私たちのような現代人にとって、第二次世界大戦ははるか昔のことになってしまった。それは私たちが世界を観察する時に、立ち向かわねばならない挑戦の一つだ」などと第二次大戦を知らない現代人としての心境を明らかにしたという。
参考消息はこのように、イシグロ氏が「中国とのかかわり」について触れた講演について、論評を交えずに淡々と伝えていた。
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■日本の影響を受けた繊細な作家
その作品については、中国でどのような評価が見られるだろう?
中国社会科学院文学所の元所長、陸建徳氏は「石黒一雄は老練な作家だ。日本の作家の小説は、繊細で、抑制されていて、含蓄に富んだものが多いが、その点で石黒一雄も日本の影響を受けているだろう。彼はイギリスでは外来の(日系英国人という)マイノリティーの作家として、国境を超えた文化や民族の関係に対して繊細なのだ」(澎湃新聞、中国青年網)と語る。
また浙江大学外語学院教授の郭国良氏は、1995年に発表された長編小説『充たされざる者』(中国語題『無可慰藉』)の訳者でもある。
「作品のスタイルは変化に富み、扱うテーマは広範にわたり、言葉の面からいえば非常に明瞭だ。短いセンテンスを多用し、やさしい言葉遣いで明確なロジックを組み立てている。それが印象に残っている」(銭江晩報)と翻訳の印象を語る。
ノーベル文学賞の授賞決定については、「石黒一雄は(いつか)受賞できると思っていたよ。彼が関心を寄せる“移民”はいまや世界の普遍的な問題だ。この人口流動の激しい時代にあって、彼は人々の追求するもの、困惑すること、そして憧れを掌握しているのだから……」と独自の見解を明らかにしている。
小欄の筆者(小林)自身は、小説『日の名残り』『わたしたちが孤児だったころ』、そして映画『日の名残り』『上海の伯爵夫人』に改めて触れ、その壮大な世界観と繊細な人間模様に引き込まれた。一貫して人間の「記憶」や「時間」の不確かさを描いており、それが日系英国人という“マイノリティー”の出自から発想されるものなのか、興味深い。
ところで、ノーベル賞の吉報を受けたイシグロ氏は「フェイクニュースのこの時代、間違いかもしれないと思った」とおどけてみせた上で、「私の一部は日本人。世界観や芸術的感性は日本に影響されている」と“ふるさと”日本への強い思いを明かしたという。
12月10日にストックホルムで行われる授賞式では、どんなスピーチを行うのか? 中国の人々の反応と併せて楽しみにしたい。
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