『睡虎地西漢簡牘『算術』』評 馬場理惠子

投稿者: | 2026年6月15日
『睡虎地西漢簡牘2』

睡虎地西漢簡牘 〔貳〕 算術


湖北省文物考古研究院、武漢大学簡帛研究中心 編
陳偉、熊北生 主編
出版社:中西書局
出版年:2025年12月
価格 41,140円

この半世紀近い間に、中国古代数学文献領域においては、重要な4種の算術書が発見されている。その皮切りとなったのは、1983~84年にかけて行われた張家山漢墓調査における漢簡『算数書』の発見である。新たな算術書の発見は、伝世の『九章算術』を最古の算術書として進められてきた中国古代数学文献をめぐる研究事情を一変させた。その後、新たに3種の新出算術書の存在が確認された。2011年には岳麓秦簡『数』が、そこからさらに10年以上の年月を経て、2023年に北京大学蔵秦簡『算書』が公刊された。そして2025年、本書が出版されたことで現在確認されている新出4種の算術書が全て世に出揃った。本書は、湖北省文物考古研究院及び武漢大学簡帛研究センターを中心に編纂されたもので、北京大学蔵秦簡『算書』に続き公刊が期待されていた研究者待望の書である。
 本書、陳偉・熊北生主編『睡虎地西漢簡牘〔貮〕算術』(中西書局)は、2006年に湖北省雲夢県の漢墓で発見された漢簡『算術』の整理と研究(「雲夢睡虎地77号西漢墓出土簡牘整理与研究」)の成果の一つである。睡虎地漢簡『算術』は216枚の竹簡からなり、本書にはその「釈文と注釈」と「図版」が収録されている。まず、第一に目を見張るのが、その写真図版の竹簡の美しさである。「図版」は原寸大と拡大版の2種類が収録されており、カラー写真とともに簡の状態に応じて照らし合わせることができるよう赤外線写真が並置されている。写真が非常に鮮明で文字も容易に判読でき、出土時の保存状態が良好であったこともさることながら、整理者の丁寧な仕事ぶりに敬服する。「釈文と注釈」は算題ごとに釈文と詳細な注釈が付され、注釈では先行研究並びに整理者による解釈と個々の算題の詳細な計算(及び必要に応じた図解)が載せられており、今後の中国古代数学文献研究を支える充実した内容となっている。
 睡虎地漢簡『算術』には他の3種の新出算術書と異なり、特筆すべき点がある。それは発見された竹簡が巻物の状態のまま残されていたということである。従来の初期算術書における算題の配列については、諸々議論がなされてきた。それは岳麓秦簡『数』は、その入手経路の事情から原状復元が難しく、また張家山漢簡『算数書』、北京大学蔵秦簡『算書』ではある程度の簡の接続関係は整理・検証から明らかにされているものの、いずれも原状の形をそのまま留めたものではなかったことが関係している。こうした初期算術書における配列問題に対し、睡虎地漢簡『算術』は一石を投じる貴重な史料である。なぜならば睡虎地漢簡『算術』は、末尾簡(216簡)を中心として編綴簡が本来の巻かれた状態で発見され、巻き終わった最後の簡(先頭簡)の外側(1簡背面)に「算術」と書名が記されていたからである。すなわち、1簡から216簡までの配列が明確であるが故に、これまで議論されてきた配列問題などの体裁については、ある程度の答えが示されたといってよい。
 では、本書の算題の配列についてみてゆこう。目次では「少広」を筆頭に「二分」「三分」……と少広題が続き、次に分数計算の「分術」、『九章算術』の方田章にあたる田の面積計算問題である「田」「里田」「径田」「周田」と続く。『九章算術』では方田章が第1章で少広章が第4章にあることを考えると、冒頭の段階でその配列に大きな違いがあることがわかる。この配列の違いは初期算術書の変遷とも関わってくるもので、浅見からいえば、「少広」は分数を含む算題であることから、『九章算術』では学習において難解な分数計算を後に置いた可能性はあるかもしれない(『九章算術』の方田章は基本、横×縦の長方形の田の面積を求める問題で、分数計算に比べれば平易である)。それはともかくとして、北京大学蔵秦簡『算書』に続き、睡虎地漢簡『算術』においても「少広」題が算題の筆頭に置かれていたという事実はとりわけ着目に値する。
 「少広」題が初期算術書において冒頭に置かれていた算題なのではないかということは、張家山漢簡『算数書』の復元が検討されてきた当初から議論されてきた問題である。本書に先駆けて出版された北京大学蔵秦簡『算書』甲種では、序文に当たる「魯久次問数」に「隷首(九九表)は算の始也。少広は算の市也」とあり、「少広」題は「魯久次問数(序文)」「九九表」に続けて配置される。このことから北京大学蔵秦簡『算書』でも「少広」題が算題の筆頭に置かれていたと推定されている。
 評者の所属する中国古算書研究会では、張家山漢簡『算数書』の研究における編綴の復元の検討結果から、当初よりその配列が『九章算術』とは異なるのではないかという見解のもと、「少広」題を筆頭に置く配列を主張してきた。それが、今回の本書の発表によってその方向性が間違っていなかったことが明確に確認されたといえるだろう(張家山漢簡『算数書』研究会編(後に中国古算書研究会に改名)『漢簡『算数書』-中国最古の数学書-』朋友書店、2006年参照)
 本書の「釈文と注釈」で挙げられている算題は63題ある。整理者によると、編縄の上部に題名が挙げられているものが40題、円形墨点が30個あり、177簡のみ例外的に「●分攻」と併記されているとする。また、題名がない算題については、内容や計算方法、もしくは張家山漢簡『算数書』を参考に便宜的に題名を与えたとする。睡虎地漢簡『算術』では他の3種の新出算術書と重なる算題も多いことから、今後、『九章算術』等の伝世算術書及び新出算術書間でさらなる研究の進展がみられることが期待され、そこにおける本書の寄与は大きい。
 個別の算題について他の新出算術書との関連からみると、例えば「率」題は北京大学蔵秦簡『算書』にも同様の算題がみえる(「率」とは割合を求める計算をいう)。整理者が注釈で張家山漢簡『算数書』「石率」との対応を指摘しているように、題名は異なれども計算方法や比率など新出算術書間で共通しているものは多い。新出算術書にみえる「率」や「石率」は、後の『九章算術』粟米章にみえる「其率術」に通じるものであり、中国古代数学文献における用語の変遷や体系化を検討していく上で非常に重要な算題であるといえる。
 特に興味深い算題として指摘しておきたいのは「食攻」題である。これは岳麓秦簡『数』に1題、北京大学蔵秦簡『算書』に1題あるが、その解釈については「食攻」という題が意味するところ、そもそも「攻」字をどう解釈するかを含め、異論がある。睡虎地漢簡『算術』では「食攻」題が2題と類題と思われる「同攻」題が1題、「分攻」題が1題あり、今後、新たな視点からの検討が進められることになるだろう。
 最後に本書が取り扱う『算術』が出土した雲夢睡虎地77号漢墓について少し触れておきたい。『算術』の持ち主となるこの墓の主は「越人」という名であるとされる。これは「雲夢睡虎地77号西漢墓出土簡牘整理与研究」の成果の1冊目として出版された『睡虎地西漢簡牘〔壹〕質日』で記述者の名(「戊子、越人休、期視事」など)が記されていたことから推定されている。「越人」は前漢文帝の9年(B.C.171)から後元7年(B.C.157)に卒するまで安陸県の役人であった。彼の墓から発掘された簡牘の内容は本書『算術』に加え『質日』『官府文書』『私人簿籍』『律典』『典籍』『日書』と多岐に及ぶが、これらの文献はおそらく彼の職務と密接に関係したものであったと考えられている。『算術』についても、田の面積計算や土木に関する計算、租枲・租禾の計算、粟米の変換割合の計算、均輸(輸送)問題など役人の職務(このことは役人が民の徴発に関わっていたこととも関係あろう)に必要不可欠な算題が多い。こうした事例から、初期算術書が役人の実務書として用いられていた可能性が考えられている。さらに地域的な視点からいえば、雲夢睡虎地では1975年に11号秦墓より『秦律十八種』などの法律関係の簡牘群が発見されており、これらも墓主であった役人喜の日常業務と関連した文書であるとされている。時代が異なるとはいえ、近接した年代における同じ地域の二人の役人たちの生活を復元できる史料が発見されたことは、僥倖ともいえる出来事である。そうした点からも本書の史料的価値は数学的視点だけにとどまらず多方面に及ぶものといえ、今後の学界における横断的な議論の礎となる書となるだろう。

(ばば・りえこ 京都女子大学非常勤講師)

掲載記事の無断転載をお断りいたします。

LINEで送る
Pocket