──「誓」「告」と禋祀との関係を中心にして
松宮 貴之
以前、私は墨子のルーツを唐蘭説に求めたことがある。「黒」字を入れ墨人形に由来する色からの引伸とする唐蘭説は、甲骨文の「黒」字が人身供犠に際して、焚焼された人形のカタチであることをその根拠とする。さらに金文では、「黒」字を墨刑(入れ墨刑)を意味する文字の部首として入れ込み、後に土部が付加され「墨」字へと展開する。よって、「墨」字を入れ墨とする文献での用例は、そういう古義の残存であると観念でき、この点は「墨子」の墨を入れ墨と解する郭沫若や白川静、池田知久氏の説の傍証ともなるであろう。
そして、その「墨」の古義の淵源を飢饉に於ける雨乞いの類感呪術としての「禋祀」にまで遡及できる、とした。本稿では、上記の「黒」「墨」字の発展を前提に、禋祀の祭祀が『墨子』に於ける「誓」と「告」と如何なる関係にあるのか、その検証を宗教的側面から一歩進めんとしたものである。
■甲骨金文の誓と告
さて、本稿のテーマである「誓」字は甲骨文では未だ現れず、金文では抽象的ではなく、具体的な誓約の「取り引き」としての用例が多い。
また「告」については、甲骨文に神への誓約、祭祀の用例があるため、「告」の方が「誓」よりも成立は古かったことが分かる。例えば甲骨文に於ける「告」字は、神に対して何かを報告し、神意を伺う文脈で使われており、祖先、あるいは自然の神(河や岳)に対し、作物の豊凶、敵の侵入、疾病などの賞罰を報告する場面でみられる。具体的には、「丁丑に卜し、貞す、河を告げるの其れ有るか(河の神に報告することがあるか)」といった、「某に告げて勝利を祈る」形式である。金文(
尊)では、「廷告于天」と武王が殷を倒した後、天に罰たる勝利を報告したという記録が見られる。
対して金文に於ける「誓」字は、「神前で、裏切れば死や破滅の呪い(罰)を自ら受けることを確約する」という宗教的・法的(政教一致)な意味を持つ。
このように甲骨文および金文における「誓」と「告」は、どちらも古代の神事や軍事、盟約において重要な役割を果たした文字なのである。
さて、ここで一度、古代の「誓・告」と賞罰の構造の変貌を整理しておきたい。
古代中国の賞罰には、図のように少なくとも三段階の変遷があり、これらの天が下した「罰(バチ)」で為政者に内省を促す構造が、後に「道徳」の多産に繋がったものと考えられる。
その誓・告の施行される場が、おそらく後述する墨子に見られた「社」であったのであろう。
そして、それが、「社→刑罰→戦争→穢れ」と連想され、社は行われる儀式が沈黙を前提とする罪の宣告の場ゆえに、祖に於ける舞などを伴う賞の儀礼と分離していった。この方向性は雅楽を厭う非楽篇へと繫がり、墨家独自の思想の基底を構成したものと考えられる。
■誓と告の古義―
匜の再検証
例えば、『周礼』司約に「若し訟有れば、則ち珥して蔵を辟き、其の信ならざる者は墨刑に服す(もし[契約に関することで]裁判沙汰が起きたら、[契約の証拠である符節を]突き合わせて蔵[契約文書や宝物を納める場所]を開き[証拠を照合し]、その[言い分が]真実でない者は、額に墨を入れる刑罰[墨刑]に服させる)」とある。
これの具体的な事例は、金文の「
匜」銘文にも確認できる。日本語訳は以下の通りである。
三月、既死覇、甲申。王は
邑の上宮にあって、伯揚父が弾劾文を下して言うには、牧牛よ。あなたは誣告によって厳しく非難された。あなたはあなたの師と訴訟を起こし、あなたは、先の「誓い」を違えた。あなたはすでに「誓い」、嗇まで
に会いに行き、この五人の奴隷をささげ、「誓い」の言葉を行い、あなたは訴訟の内容に従って、「誓約」に従った。最初の罰として、私はあなたに千の鞭打と、墨刑を施すべきところを、今 私はあなたを大赦して、五百の鞭打と、銅三百を罰とする。
伯揚父は、牧牛に「誓い」を立てさせて言う。今後、私は大小の事にわたってあなたをおさめる。あなたの師がまたあなたを訴えたときには、あなたに千の鞭打と墨刑を施す。牧牛は「誓い」を立て、吏
と吏曶に会に参加させ、「告」した。牧牛の訴訟事件はすべて決まった。銅を罰した。
は(これをしるす)旅盉(酒器)を作った。
私は以前上記の金文と墨子との関係性を論じたことがある。奴隷の淵源は、神への捧げもの、神の罪人という建前の、権力者によって売買・譲渡の対象とされた人々であるが、その根幹を墨子は神に求める所謂「聖隷」思想として創作した。その発想の源泉は、やはり甲骨文にある黒系文字、日照りに於ける祭祀文字、艱・暵・熯などの神への人身供犠に求められるであろう、とした。
元来『墨子』明鬼篇にあるように、罪を犯せば神のバチを受ける信仰があったのだろうが、その罪を償うために、死しての殉葬があり、刑に服する労働(奴隷)があったものと考えられる。その労働は、現実的には死(死刑)から免れるためのものであった。そういう緊張感が、墨子の荘子にあまりにも厳しすぎると評された「勤労刻苦」の理念、その強迫観念を生んだのだろう。
■墨子の誓と告
上に挙げた拙作は迎敵祠篇に見える「誓」「告」の様子を描写している。
すなわち、公(君主)が白の礼服をまとい、太廟(祖先を祀る廟)で「あの者(敵)は道をわきまえぬ人でなしであり、義を守ることなく、ただ力だけを正しいと主張し、わが国の社稷(国家)を潰し、領民を滅ぼそうとしている。お前たち(臣下や兵士)は、朝から晩まで自分に厳しく鞭打ち、わたし(公)のために懸命に働き、心と力を合わせ、左右の者と協力して、各自死ぬ気で国を守り通せ」と誓って兵士たちを鼓舞し、祝(神官)、史(記録官)、宗人(廟の管理者)は社の神に勝利を「告」し、甑でその「告」を覆う(厭勝術[まじない]の一種)、とあり、兵刑未分の時代に、社で行われた儀式の様子が、生々しく残されている。
■刑罰と禋祀
続いて、「禋祀」について述べていきたい。そもそも「禋祀」とは、少なくとも昇雲の雨乞い、火と雨による男女のまぐわい、贖罪による再生、食の再生の四つの文脈がある。『詩経』生民にも見られるように、煙を立ちのぼらせて天上の神を祀り出産を促す祭祀は、二つめの火と雨による男女のまぐわいの例である。昊天上帝を祭る最高の大典でもあり、取り分け、 周の武王が商(殷)の紂王の不敬を糾弾した際に、「禋祀不寅」と指摘した表現が有名である。この「禋祀不寅」という語は、清華簡『繫年』に見られ、文脈としては、武王が商(殷)の罪を数え上げた中で言及される。
私は以前、『墨子』にある、湯王の焼身供犠に着眼し、供犠の理想型とも言える「禋祀」を墨家の思想の根拠として仮定したことがあるが、このような複数の文脈が墨家思想の底層にはあるのだろう。
上述の「雨乞いの儀式」であった湯王の焼身供犧は、穢れ(供犧)を焼き浄化する贖罪という刑罰と類感呪術の二つの側面を持つ儀式なので、社で行われる「禋祀」が「誓」の本質であったと考えられる。例えば、『周礼』秋官・大司寇に、大祭祀においては、犬の犠牲を奉る。もし五帝を禋祀する場合には、戒める日(祭祀の前の戒謹の期間)に、大司寇が自ら赴いて百官に「誓」を伝え、百族(諸氏族・天下の人々)に対して祭りを行うことを「戒告」するとあるのが、その名残りであろう。
つまり、「禋祀」と「誓」は、神聖な祭祀の現場において、神の霊力によって人(臣下)の行動を隷属的に縛り、服従や忠誠を約束させ、それを前提として「刑罰」が施行されたものと考えられる。
故に、『墨子』には「誓」が多くみられ、類感呪術を「脅し」と見なしたその緊迫、脅威から涌き出るように思想や宗教、また政策が潤色され、創作されることもあった、という仮説をここでは提出したいのである。
(まつみや・たかゆき 国際日本文化研究センター共同研究員)
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