媽祖の周辺②
生誕から脇侍たちとの出会いまで
瀧本 弘之
前回は、媽祖の伝記『天后聖母聖蹟圖誌』(全4巻)についてその書物の全体像を探った。今回は、その主人公・媽祖の生涯がどう図像化されているかをみていこう。
この媽祖の「全集」では、前半はその生活圏の紹介があり「聖地」の有様を図解で詳しく述べていた。この形式は、孔子や仏陀の生涯を紹介する図像資料・書籍全般に共通のものだ。まずは聖人がどんな地域に育って、いかなる生活を過ごしたのかをざっと紹介する。生誕の地「聖地」が大きくクローズアップされ、そしてその後にその人物の輝かしい生涯のエピソードを繋げていくのだ。これは書籍では多数の頁と図を費やして紹介されるが、場合によっては絵巻物にもなる。どちらが先かは断定できないが、この媽祖の図誌には、似た絵柄をもつ康煕年間に制作された彩色の絵巻物があるようで、それは中国国家博物館に収蔵されている。私は実物を見たことがないが、中国のネットには紹介番組があり、ユーチューブでも視聴できるはずだ。
この図版の中にはしかるべき表題がないが、それは次の頁から始まるテキストの最初の一行に含まれている。この図の中には「莫如積徳」という文字が現れているが、これは状況説明のもので、例外的にここに置かれたものだ。
この画の表題は「感大士賜丸得孕」である。「丸」は丸薬のことだ。図は媽祖の誕生シーンだ。「大士」は観音のことで、夢で観音に丸薬をもらい服したところ、子供を授かったという。「丸」は版本では「凡」に近い形に彫られているので、間違えやすい。しかし意味から考えれば「点は中ではなく、左のはらいにつく」のである。
上の場面は出産の行われている部屋を描き、手前の室内で談話しているのは、父親・林氏とその父親らしい(媽祖の祖父か)。そこに「莫如積徳」(徳を積むに如かず)とあるのは、二人が「積徳」の功を話しているのだろう。場面は夜だが、それは「林府」と書かれた提灯を下げた子供が描かれているので分かる。表門には出産を祝う人が駆けつけているようだ。連れてきた子供もきちんと描かれている。夜間風景は普通民間版画では、黒く描かない。第一に面倒だし、輪郭線を白く浮きだたせたりして、煩雑な作業になり、仕上がりからは内容がよく分からない。だから一種の約束で、その場面に提灯などを描き加えているのだ。
空中には観音大士とそれに向かって感謝を表している人物が描かれるが、これが媽祖の父親林氏なのかもしれない。明末から観音信仰はブームを迎えたようで、盛んに観音関連の書籍や絵画が出回った。
次の図は「遇道人秘傳玄訣」と題されている。「道人」とは道教を修めた偉い先生とでもいえばよいだろうか。部屋の中央にでんと座っているのが道人で(偉い人なので大きく描かれている)、その前に腰をかがめているのが若き日の媽祖だろう。庭には大きな池があって、太湖石が見える。立派な松も枝を張っている。回廊には使用人がいて部屋の中を窺っている。手前の若者は何かを運んでいるらしい。道人は書物を開いて、媽祖と何か会話を交わしているようだが、それこそ「奥義」を伝授しているのかもしれない。後ろからは小間使いが二人覗いている。
ちなみに、この「遇道人秘傳玄訣」の「玄」は最後の一角が欠筆(欠画)になっている。康熙帝の名の「玄燁」を憚って、一角を欠いているわけだ。道光年間の刊行なので、別に不思議はない。日本のものでは、本来中国は外国なのに、玄の字を欠筆にしている明治年間の書籍もある。それくらい中国に対する尊崇の念が強い時代でもあったのだ。
この絵を見れば媽祖が大家のお嬢さんであったことは言うまでもない。これは実際の媽祖とは無関係に、時代が下がるにつれて主人公の身分が上昇し、最後にはこう表現されているのだ。「聖人はこうあるべきだ」という民間の期待がこうした現象の原因だろう。近年の研究では、媽祖の「原形」は巫女だったということらしい。それが次第に時代とともに昇格して、最後は名家の娘に作られていったという。
図3は媽祖の特殊な能力を示した画だ。表題は「油成菜資生民食」。菜種油から逆に野菜のアブラナを作りだして民の食料としたというわけだ。菜の花は、中国料理でもよく使われる。
説明文にある「菜子油」は日本語では菜種油のことのようだ。近くの島に皆で遊びに行ったとき、母親が菜種油を残したので、それを媽祖が土に注ぐとたちまちアブラナが咲き誇り、この地は今でもアブラナの花がいっぱい生えているという。旧時代、油は貴重品でその材料を生産できる土地は喜ばれたのである。これも媽祖の少女時代の奇跡の一つになっている。
画を見ると太湖石の周辺にアブラナ(菜の花)らしきものがつぎつぎに生えてきたところが描かれている。
図4は農民にとって大切な雨乞いの風景を描いている。笹の棒に「求雨」と書いた旗を付けて、廟に雨乞いに行くところらしい。他の人物は、「祈求雨澤」「沛然下雨」などの願いを書いた棒を担いでいる。彼らはその意味が分かっているのだろうか。多分、文盲が多かった時代だから(識字率5パーセント以下)、知識人に布に漢字で請願を書いてもらい「お札」として担いでいるのだろう。
この廟の入り口では銅鑼を敲きにぎやかだ。扉には立派な門神が描かれている。その脇には「龍王府▢封」とある。龍王は水の神で、龍と水・海は切っても切れない深い仲である。そこで民衆は龍王府に詣でて、降雨を願うわけだ。長い杖を持つ老人の脇には、何やら語り掛けている人物。そして最も面白いのが、雲の上にいる神格と人物たちだ。
いちばん左は烏天狗のようないでたちで両手に槌と鑿のようなものを持ち、右の女性を追いかけ威嚇している。
媽祖が21歳の時に、莆田に大日照りがやってきた。次の頁の文語の説明文だけでは、私には詳細不明だが、媽祖が何か方策をめぐらして大雨を降らせたらしい。それが雨神の怒りを買って追われているのだろうか。
廟の右手には「莆田縣正堂示祈求雨澤禁止屠沽得雨日止」と張り出されている。「屠沽」は賤しい職業に従事する人々のこと。この画面ではまだ降雨にいたらないようだが、既に風がだいぶん吹いていることは、門前の樹木の揺れ様で察知できる。やがて沛然と雨がやってくるのだろう。
媽祖は23歳のとき彼女の左右に従う二神を手なずけた。彼らは順風耳と千里眼という名で、媽祖廟の像の左右には必ず立っていて媽祖を守護している。彼らはもともと地方に害をもたらす悪神だったが、媽祖の威力に降参してその部下になったのである。媽祖の行く所、左右に付き従い、千里眼は前方を見守り、順風耳は周囲の音を聞き分け女神を警護するのである。
日本でも長崎の媽祖祭の行列に二人の若者が選ばれて、彼らを演じることになっている。調べてみると、長崎以外の地でも媽祖廟があって、媽祖像が崇められているところは、ほぼ必ず左右に脇侍としてこの二神を従えている。現在ではネットでも彼らの彫塑作品やマスコットが出回っているほどだ。
これらの千里眼・順風耳はかつて日本にはなじみが薄かっただろうが、江戸後期以降媽祖が次第に各地に浸透するとともにその子分も結構知られるようになったらしい。
図6は、幕末から明治にかけて活躍した、月岡芳年(1839-1892)が著わした『和漢百物語』のうちの一枚で、画号の「一魁斎」が入っている。登場するのは「雷震」「順風耳」「千里眼」の三人だが、この組み合わせは全くおかしい。雷震(子)は『封神演義』に登場するキャラクターで、媽祖の子分の順風耳・千里眼とは何の関連もない。時代も違う。恐らく芳年のように多忙・多作の浮世絵師になると、細かい典拠など調べることもなく、数合わせで作品を次から次に送り出していたのではないか。ちなみに四角くかこった説明文は「隅田了古」という、これまた経歴のはっきりしない浮世絵師が書いたことになっているが、中身は封神演義の説明を並べただけで、順風耳・千里眼は出てこない。
もともと百物語とは妖怪談を百人ぶん続けると最後に本物が出るなどといわれていたような遊びで、ともかく妖怪を大勢出す必要に迫られて彼らは臨時に「呼ばれた」のだろう。怪物であれば構わないという数合わせの臨時雇いだったのだ。
それより、私の関心はこの浮世絵に登場している三者の図像の元になった図書資料が何だったかなのだが、この探究はなかなか手ごわそうだ。
媽祖全集の挿絵は、50枚程度もあるので、今回はごく一部を撫でた程度に終わった。関心のある方は国会図書館のホームページを参照していただきたい。
(たきもと・ひろゆき 著述家、中国版画研究家)
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