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存在の原点——青海高原に輝く生命の讃歌
願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ──索南才譲作品に最初に触れた時、柳田國男『遠野物語』冒頭の有名な一文が、すぐ脳裏をよぎった。私たちはいま、平地の都会人として、平均海抜四千米の中国大陸最奥、青海高原に生きる若者の物語を手にしている。素朴でありながら色彩に満ち、純粋でありながら多様な変貌を秘めた荒野の生命の物語を。
作者の索南才譲は牧畜の民として生きるモンゴル族の青年で、正式な高等教育機関で学んだのではなく、馬や羊を追う放牧の合間に独学で文学に接近し創作を始めたのだ。一牧畜民としての自分の目で見、耳で聞き、体で感じた世界を、生の言葉で紡いでいく中で、索南才譲は人の存在の本質を探る哲学的思索を深めていった。青海湖を擁する大自然は多くの生命を育む母なる大地であり、同時に厳しい過酷な世界でもあった。彼の語る一つ一つの物語には、人も馬も牛も羊も、同じ宿命のもとで命の営みを繰り広げているという自覚と哀しいまでの情念の深さがある。こういう彼の作品に対し中国での評価は極めて高く、魯迅文学賞はじめ複数の文学賞を受賞しており、「生態(エコロジー)倫理思想」「生態創作論」などとエコロジー文学として研究する論文も発表されている。彼とヘミングウェイとの比較をテーマにする論考もあり、文学の場においてすでに特殊な立ち位置を確立していると言えよう。彼の文学を語る上で強調しなければならないのは、本書翻訳者及川茜が解説で述べているように、青海高原にはモンゴル族、チベット族、そして漢族が暮らしており、モンゴル語、チベット語、青海方言が生活言語となっていることだ。これらに加えて、牛や馬、羊たちとの意思疎通に使われる単音節の「言語」もあると索南才譲は語っている。こういう多重言語の世界が極めて標準的な漢語で綴られて作品化されているのである。
本書に先立って索南才譲作品は2種類の短編の翻訳が雑誌掲載されているが、日本人による本格的な作品集の全文翻訳紹介は、本書が初めてである。
リトルモア社刊の本書、何よりも目を惹くのは装丁の馬が放つ力強さである。まだ日本では索南才譲の名はそれほど知られてはいないが、手にとってページを開いていくと、翻訳者及川茜の丁寧な文章に導かれて、高原の物語世界にぐいぐい引き込まれていくはずだ。
本書『荒原にて』は索南才譲の最初の作品集で、魯迅文学賞を受賞した表題作の中編一篇のほか、「シンハーナードンにて」など短編九作、計十作品からなっている。物語の場は全編青海高原から離れることがない上に、翻訳者がこれら十作品の語り手を「俺」で統一したことにより、それぞれ異なる物語であるにも関わらず、一つのまとまった作品世界として訴える迫力を醸しだしている。
本書の魅力の最初に挙げねばならないのは、圧倒的な大自然の描写である。
彼は時間が一分一秒と過ぎてゆくのをはっきりと感じた。太陽はゆっくりと西へ移動し、最後には大きな山の後ろに消え、そして天地は一面が混沌とし、暗闇になり、冷え切り、死の静けさに包まれた。彼は脅えたが何もすることができず、目を開くことすらできず、さらに後には、彼はついに何も分からなくなった。彼が目を覚ました時、満天の星がきらめいており、広いゴビ砂漠の上に奇妙な明るさを添え、月の光のようでも星の光のようでもなかった。最後に海春は広いゴビ砂漠の石の生命が燃えているのだと崇敬の気持ちで理解した。
出て行き、星空の下に立つと、四方は果てしなく、海春は自分がますます小さくなり、最後には一粒の砂になるのを感じた。(「山の間」)
本書は確かにエコロジー文学としての要素を十二分に備えていて、高原に生きる生命たちの共生がはっきりと描かれているが、本書で展開する物語世界には単にそうしたロマンティックな綺談としては片付けられない鋭い棘が突き出ている。索南才譲は無慈悲な暴力と残酷な宿命を淡々と語るのだ。それは所収最初の短編「シンハーナードンにて」でいきなり現れる。
(馬に引きずられて死んだ男の話)彼の足が鎧に引っかかってしまい、馬は彼の体を引きずりながらパニックになって谷間を駆け回り、午後の間ずっと走り続けた。村人が苦心惨憺ようやく馬を止めた時には、彼はもう完全にこと切れており、変わり果てた姿に目を背けずにはいられなかった。内臓は振動で潰れ、液体のように体内をちゃぷちゃぷしていた。
牧民を突然襲う無惨な死の挿話である。この物語の「俺」の母親も、発情した牡牛に突き上げられ、空中高く放り上げられ、牛の頭に落下して死んだ。みな惨たらしい宿命を背負って生きているのだ。そして彼らもまた何かの拍子に怒りを爆発させ、牛や馬、羊たちに凄まじい暴力を振るってしまう。「ただ一つの音だけが」では都会から来た娘と牧民の若者の苛立たしいほどの齟齬が、羊を屠る経過で澱んでいく。深い心の傷を残したまま、若者は娘を強引にバイクに乗せて爆走する。暴力もまた宿命、その先に何が見えるか、索南才譲は問い続ける。索南才譲作品を貫く重要なテーマに人間存在の絶対的な孤独の認識がある。
「牛の囲い」で密猟者として登場する老猟師と若い主人公、そして「それからどうする」に描かれる山岳警邏隊の二人と密猟者、いずれも雪深い荒野での命懸けの闘いと葛藤の先に深い孤独感が漂う。だが彼らはどうあっても必ず力強く前方に走り続けていくのだ。「山の間」に登場するのは生きている人間二人と死体である。生きている二人は高価な冬虫夏草を求めて荒野を進んでいく。しかし道を知っているはずの一人が横たわったまま、あたかも覚悟していたかのように死んで、残された一人も荒野に石を積んで作ったまるで墓穴のような「家」に座し、死を覚悟する。「静かにはるかに広がるゴビ砂漠に立ち尽くし」最後を迎えるシーンでこの物語は終わる。索南才譲は『三田文學』(2025年冬季号)の朝吹真理子との対談のなかで、「都市の孤独は濁っていて誰が誰だか区別がつかなくなるもの」であるのに対し、草原の孤独は「遊牧民につきまとう悪夢」、「蒼白」で「どうやっても埋められないもの」だと語っていた。そして彼は「たとえ社会が組織的に必要だとしても、個人として生きるためには孤独が絶対に必要な感覚だ」とも説いている。孤独の意義を私たちは改めて考えなければならない。
こうした索南才譲文学の傑出した特徴が所収最後の中編「荒原にて」に集約されている。流行の兆しがあるペストの防疫のために、荒野でネズミの殲滅作戦に派遣された六人の男、彼ら自身も隔離される憂き目に遭いながらも、ネズミ殺しの日常に沈潜する厳冬の日々の物語。その中で展開した諍いやいじめ、そしてチベット族の娘との恋、心の傷を凍死で終結させた仲間……。孤独の苦悩を抱える男たちの魂の変貌が饒舌を抑えたリズミカルな文体で紡がれ、圧倒的な荒野の大自然を背景にあたかも映像を見るかのような作品となっている。ラストのシーンで語られる「逝ける者は逝ってしまい、生者は前を向くだけだ。俺たちが彼を許すかどうかは問題ではない。彼は自分で立ち上がらなければならないのだ」という言葉の重みが印象的な余韻を残し、生きていく者たちの心を強く結びつけている。
最後に索南才譲の創作態度について触れておこう。「一人の馬飼い」の「俺」は草原で馬飼いをする合間に創作に取り組み、自作を馬たちに語って聞かせている。「(馬たちから)霊感を得て、彼らのために書いているのだ」と彼は述べる。大自然に生きる創作者の純粋で素朴な感情が創作の原点にあるのだ。「荒原にて」で「詩を魂の声で天地の間に吟唱し、永遠に伝えるのだ」と語る「俺」は、仲間の若者に「お前こそ真の詩人だぞ」と興奮して呼びかける。辺境の大草原で馬や牛たちと共生している人々にはそれぞれの物語があり、その想いを魂の声で歌い上げる時がある。その瞬間に「詩歌を永遠に伝える詩人」が見出されるのだ。本書を読み進めると、このような原初的でダイナミックな関係性が索南才譲という特異な創作者を誕生させたということに改めて驚嘆せざるを得ない。索南才譲は本書の「作者あとがき」で、次のように述べている。
私は高地と寒山の間で改めて過去、現在、未来と創作の関係を定義しています……私は他人に定義されることはなく、自分に定義されることもない……私を定義することはできないのです。(作者あとがき)
誰にも定義されることなく、自らの創作世界に真実を求めていく若き草原の作家に、心からエールを送りたい。
(せきね・けん 慶應義塾大学名誉教授)
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