明代の小僧の神様
福田 素子
倉本聰の『北の人名録』の中に、「いるかい」という一編があります。作家が住んでいる北海道の村に、「いるかい?」と言いながら他人の家に勝手に上がり込むのが癖の「いるかいの婆様」というあだ名の婆様がいたのですが、その婆様が亡くなった新盆に、青年団のメンバーが幽霊の仮装をして村の家々の戸をがらっと開けては「いるかい」と言ってまわる悪戯をした、というエピソードです。「いるかいの婆様が帰ってきた」と、村は騒然となったそうなのですが、何故か青年団メンバーが避けて行かなかった家でも「いるかいの婆様が来た」、というのです。新盆の夜に、青年団の偽幽霊と本物のいるかいの婆様の霊が一緒に右往左往していたのだろう、ということでした。
清代の慵訥居士が書いた『咫聞録』巻三にある「状元姚萊」を読んだ時に、この「いるかいの婆様」の話を少し思い出しました。
姚萊、浙江慈溪の人、明時の状元なり。幼にして即ち霊慧たり。
姚萊は、浙江省慈溪の人で、明代の状元でした。幼い時から既に頭が良かったそうです。なお実はこの人は実在していて、「姚淶」と書くようです。ここでは『咫聞録』に従って「姚萊」としておきましょう。九歳の時、其の父債を負うこと累累、臘底に至り、債主衾枕を帯びて臥して索(もと)むる者甚だ多く、嚷嚷凶閙たり。萊、父に向かいて銭四百枚を取らんとするに、父曰く、「子、銭を欲して何とするや」と。萊曰く、「債を償わんとす」と。
9歳の時、姚萊の父は巨額の借金を背負い、年末になると借金取りの布団や枕を持ち込んで家に居座るものが多数、という事態に陥り、家の中は大騒ぎになりました。姚萊は父に銭400枚をくれるようお願いをしました。父は「息子よ、銭を欲しがってどうするっていうんだい」と聞きます。萊は「借金を返すのです」と言いました。父曰く、「吾債を負うこと数千金、汝豈に能く四百銭を以て此の大債を了せんや。汝年少、何ぞ知るや、銭を欲して玩物を售うに非ざるはなきのみ」と。許さず。萊又た母に向かいて之を索む。母父に向かいて曰く、「即ちに銭四百を与えよ、他(かれ)の何をかに用いるに任せん」と。父之に与う。
父は続けます。「俺は数千金の借金を背負っているのだ。おまえがどうやって銭400でこんな大借金をきれいに出来るというのか。お前みたいな子供に何が分かる。銭を欲しがっておもちゃでも買おうというに決まっている」と言って許しませんでした。萊は今度は母に銭400をくれ、と言いました。母は父にむかって「すぐに銭400あげなさい。何につかうか、この子にまかせてみなさい」と言いました。父は息子に金を与えました。お母さん強い……。萊、戯子の家に到り、小花面に対して曰く、「我銭四百を与う。夜に至れば、潜かに吾が家に到り、魁星に扮演せよ。我楼に在りて読書す、爾(なんじ)站(た)ちて我が座の後ろに在るは、三宵のみ」と。小花面之を許す。当晚、萊楼上に在りて読書し、三更に至りて止む。次の晚又た読む。
萊は役者の家に行き、道化役の役者に言いました。「銭400を払いますので、夜になったら、そっと私の家に来て、魁星(学問の神)の芝居をしてください。私は楼に上がって勉強しています。あなたは三晩だけ私の後ろに立ってください。」小花面は引き受けました。その晩、萊は楼に上がって、夜中の12時頃まで勉強しました。次の晩もやはり勉強しました。内に一(ひと)りの債を索むる人有りて曰く、「是の子年少なれども、書を攻むるに勤たり、異日必ず発せん」と。楼に上りて之を窺うに、一魁星後ろに站つを見る。若(こ)の人楼を下り、即ち各債主に向かいて曰く、「公等回(かえ)らんことを請う。某の欠く所の銀、皆な我一人代りて償わん。元宵を過ぐる後、当に諸公を邀えて此に至り、券に照らして完楚すべし」と。衆皆な散ず。期の如く某一一其れが為に代楚す。
借金取りの一人が言いました。「この子はまだ幼いけれども、勤勉に本を読むから、何時か必ず出世するだろう。」楼を登って萊の様子を窺うと、魁星神が萊の後ろに立っているのが見えます。この人は楼を降りると、他の借金取りたちに向かって言いました。「皆さん帰ってくれ。あいつの借金はみんなおれが代わりに返すよ。元宵を過ぎたら、皆さんをここに招いて、証文通りきれいに返すよ」皆は言う通り帰っていきました。期日どおり、その借金取りが代わりにすっかり借金を返してくれました。萊の父拝謝す。某曰く、「令郎を我に与えて婿と作せば、我当に師を延きて之を教うべし」と。萊の父曰く、「爾の女児と服を為すを肯(うべな)わば、実に万幸と為す」と。日を択びて納徵畢り、萊を接(むか)えて家に過ごさしめ、師を聘きて読ましむ。
萊の父が御礼を言うと、借金取りは言いました。ご子息を私の娘の婿にしてください。私が先生をつけてお勉強させますので。」すると萊の父は「あなたが娘さんとの結婚をお許しになるならば、誠にもって幸いです」と言います。そこで吉日を選んで結納を交わし、萊は借金取りに家に迎えられ、先生をつけて貰って勉強させられました。後に状元を点じて回(かえ)り、萊曰く、「我微(わか)き時小花面の魁星に装扮し、伺候すること三宵なるを承けて、債主を得て功名を成就す。須らく先に往きて拝すべし」と。小花面門を出で、輿を攬りて跪きて曰く、「小的実に家貧しきに因り、故に銭を騙(かた)りて歳を度し、未だ曾て扮演に過り来たらず、開恩せんことを求む」と。萊、昔日の魁星、乃ち真の魁星と知るなり。
のちに状元となって故郷に帰り、萊は言いました。「私は若いときに小花面さんが魁星の扮装をして三晩助けてくださったので、借金取りの助けを得たのだ。どうしても真っ先に御礼を言いにいかなければならない。」ところが小花面は門から出て、輿に取りすがり、跪いて言いました。「私めはあの時実に貧乏で、銭を受け取ったのにそれを年越しに使っていまい、あなたの家に行かなかったのです。どうかお慈悲を。」そこで萊は、あの魁星は役者ではなく、本物であったことを知ったのでした。「状元姚萊」の場合、偽物の方は仕事をサボってあらわれなかったのに、本物が律儀に仕事をしていたのです。慵訥居士は、この話をこう結びます。
夫れ天達人を生むや、必ず異才有り。四百銭を以て巨債を開発し、小子を以て長老を哄動するは、此れ真の状元の才なり。
「そもそも天が生んだ達人には、かならず異才が宿っている。たった銭400で大借金を片付け、子供なのに大人達を操る、これこそが真の状元の才というものである。」それでは「真の状元」、実在の姚萊、つまり「姚淶」はどのような人だったのでしょうか。姚淶の名は『明史』「姚鏌」伝の後ろに残っています。
子淶、字維東。嘉靖二年の殿試の第一たり。翰林修撰を授く。「大礼」に争し、廷杖をうく。又郊祀を議するに、合祀、軽易に当たらずとす。『明倫大典』を修するに召され、懇ろに辞して与らず。累ねて侍読学士に官す。(『明史』巻200姚鏌伝)
これが姚淶伝の全文です。明の名臣姚鏌は父で、浙江省寧波府慈溪県の人。弘治6年(1493年)の進士で色々官を歴任して、最終的に太子少保で終わっています。借金で首が廻らなくなったり、おかみさんのいいなりになって子供に銭400をあげたりする人ではなさそうです。本人の淶は、字は維東。嘉靖2年(1523年)の殿試で状元になり、翰林修撰となりました。しかし翌年「大礼の議」で嘉靖帝を諫め、宮中で杖叩きの刑を受けます。その後も郊祀の改革において天神地祇の分祀を主張する嘉靖帝に反対し、『明倫大典』の編修もボイコットしましたが、侍読学士まで官を進めた、とあります。楊正筍『慈溪県志』巻八の「人物忠義」にある伝によると、父の喪に服している間に、健康を害して亡くなったそうです。姚鏌の死は嘉靖16年(1537年)なので、淶の死はそのまもなく、ということになります。姚淶の後半生は、聡明な「暴君」(小松謙先生『熱狂する明代』)嘉靖帝との確執に費やされたように見えます。注目を集める状元である、ということが、おそらく姚淶の身の振り方を一層難しくしたように思われます。『咫聞録』の姚萊には神様がいて彼を状元にしてくれましたが、姚淶の方には、はたして神様はいたのでしょうか。もし神様がいたら、むしろ状元にはしなかったかもしれません。
参考文献:
倉本聰『北の人名録』新潮社 1982年
小島毅「嘉靖の礼制改革について」(『東洋文化研究所紀要』巻117, p.381-426, 1992-03)
小松謙『熱狂する明代 「四大奇書」の誕生』(角川選書 2024年)
(ふくだ・もとこ 聖学院大学非常勤講師)
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